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モドル 6-06 01 02 03 * 8-01
遠景涙恋
第七章 逍遥旅人
04
いい様のない怒りのような、哀しみのような気持ちを抱えて、ラシッドはすたすたと湖宮の中の廊下を歩いていた。もうすっかり通い慣れた道だったが、こんな気持ちで歩いたことなどなかった。
いや、いつでも少し縋るような気持ちで歩いていたのかもしれない。
扉の前に来て、ラシッドは深呼吸をし、強張った表情を戻そうと顔を擦った。幼い姫君には、いつも隠し事ができない。こんな嫌な気持ちを知られるのは、抵抗があった。
だがやはり、そんな努力は無駄のようだった。リーフィウの様子を報告したり、外の木々の様子や兵たちの話をしたりといつものように振舞ってみたのだが、シャリーアは大きな茶色の目で、ラシッドをじっと見ていた。この目に見つめられると、ラシッドは観念してしまう。隠せるはずなどないと、思ってしまう。
「ラシッド様、何かありました?」
無邪気とも思える声で笑うシャリーアは、声とは違って、表情はまるで何かを包み込むような優しい表情をしている。こう言うときに、リーフィウとシャリーアは兄弟なのだとラシッドは思う。年相応の顔をするときもあれば、それを疑うほどの大人びた顔をする。
「何か……いえ……」
「でも、元気がありません」
にっこりと笑うシャリーアは、決して隠すラシッドを責めはしない。でもだからこそ、ラシッドは口を開いてしまうのだ。
「元気、ありませんか?」
「ええ」
小首を傾げて、笑いながらも心配そうな目をする。まったく、敵わないとラシッドは思う。
「兄さまがまた心配をかけるようなこと、しました?」
「いえ、そうではないのですが」
関係ないとはいえないが、直接の原因ではないよな、とラシッドは誤魔化すようにお茶を飲んだ。
「では、キーファ王ですね」
「……なぜです?」
「ラシッド様のいつも静かなお心を揺らせるのは、キーファ王だけですもの」
自信たっぷりにそう言われて、ラシッドは何も言えなかった。
目の前のあなたのことでも、十分動揺するのですが、とは言えなかった。
「喧嘩でもなさったのですか?」
「喧嘩……というのなら、まあ、そうかも知れません」
違うのか、と言ったキーファの声が頭から離れないでいた。
キーファには国王軍がいる。彼らは確かにキーファを慕っているし、司令部は大きな味方だ。だが、自分がそこに加われないと言うのに、おまえには慕う人間が居るじゃないかと、言うことは出来なかった。
ラシッドには、もう仕えると決めた王がいることは、キーファもわかっていた。それを知っているからこそ、副官などと言う地位を与えたのだとラシッドは思っている。
キーファは決して、片腕を探していたわけではないからだ。
幼い頃からずっと、周りの誰も信用できなかったキーファは、今でも誰も信用しようとしない。最も頼りとなるはずだった宰相にいいように扱われてきたのだから、そのことでキーファを責めるのは酷というものだった。
その孤独と諦念に似たキーファの昏さを、ラシッドは救いたかった。だが、絶対の忠誠を誓えないというのだから、それは馬鹿げた話だった。
結局自分は、キーファと、逃げてきた国に置いてきた親友を重ねていただけなのだ。キーファを救えれば、彼も救えるかもしれない。そして、守れなかった大切な人間に、少しは許しを乞えるかもしれない。
そんなことはみんなお見通しで、キーファはラシッドを、最後まで頼ることはなかったのだ。目醒めるために、伸ばされた腕の一つには、なれなかった。
ふうっとため息を吐いたラシッドに、シャリーアがそっとお菓子を差し出した。甘いものを食べると、少しは元気になりますよ、と言うのが彼女の口癖なのだ。
「ああ、すみません」
「いいえ。構いませんから、どうぞ色々悩んでくださいな」
その言いように、ラシッドはくすりと笑う。
「でも、兄様のことでしたら、おっしゃって下さいね。私も心配ですし、お力になれるかもしれませんから」
何しろ、彼のことを一番良く知っているのは自分なのだ、とシャリーアは胸を張った。
「そうですね……シャリーア様は、もしリーフィウ殿が剣の訓練を受けたいと仰ったら、どう思われます?」
例え話でもないのだが、あまり衝撃を与えたくないラシッドは、そうなんでもないことのように言ってみた。案の定、シャリーアは「まあ」と目を大きくして、動きを止めた。
「いえ、すみません。あなたに聞くことではありませんでした」
「そんなことはないですわ。少し驚きましたけれど、それだけです」
シャリーアはそう言って、微笑んだ。
「兄様が剣に興味を持ったことに驚いただけです。何しろ、兄様にとっての剣術は、私にとってのお料理やお裁縫のようなものだったのですもの」
それはそれは、とラシッドは苦笑した。
「確かに、リーフィウ殿に剣は似合いませんね」
「まあ、それは私にお料理やお裁縫が似合わない、ということですのね」
シャリーアが軽く睨んで見せて、ラシッドは慌ててそれは違います、と弁解した。
「リーフィウ殿は思慮深く、物静かで大人しい方だ。だから剣などは似合わないと言っただけで……」
それには、シャリーアがきゃらきゃらと笑った。
「兄様、そんな皮を被ってますの?」
「え?皮?」
「ええ。物静かで大人しいなんて……」
全く違う人間のよう、と笑うシャリーアに、ラシッドは驚いた。
「先ほど喧嘩の話が出ましたけれど、私と兄様が喧嘩をするときは、まず侍女たちはどうすると思います?」
「それは、お止めになるのでは……」
「違います。喧嘩が始まると、まずそれを他の侍女たちにも知らせながら、私たちの周りから、物を隠していくんです」
「物を隠す、ですか?」
ええ、とシャリーアは思い出したのか、可笑しそうにくすくすと声を上げた。
「私も兄様も、どちらも一歩も引かない気性の激しい性格ですから、喧嘩になっても容赦がないのです。取っ組み合いの喧嘩もしましたし、物もよく投げました。ですから、侍女たちは私たちがぶつからないよう、投げて物を壊さないよう、色々なものを遠ざけなければならなかったのです」
それこそ、円卓や机から、椅子、花瓶、本などまで、喧嘩が始まると侍女たちはおおわらわになるのだ。
ラシッドには、リーフィウが取っ組み合いの喧嘩をしている姿が想像できず、首を傾げた。シャリーアはどことなくしっくりくるところもあるのだが……。
「ですから、兄様も、決して大人しいわけではないのですけれど。ただ剣術は、面白くないと言っていて……父も頭を悩ませておりました」
私は裁縫よりそちらの方がずっと好きだったのですけれど、と言いながらふふふ、と笑うシャリーアに、ラシッドは思わず脱力した。
「どうやら我々は、少しばかりリーフィウ殿のことを誤解しているようですね」
無邪気な部分も見ていたと思ったが、どうやらそれは本当にほんの一部だったらしい。
「我々とは……?キーファ王もですの?」
「ええ。剣術を教えるなら、キーファ王ほど腕の立つ人間はいないと言うのに、一番渋っているのですから」
「兄様が大人しいから?」
「それもあるかもしれませんが……躊躇いがあるのだと思います。剣術は、人を殺す術でもある。それを教えることに」
「優しいのですね、キーファ王は」
「ええ。王自身は、剣術以外に打ち込めるものはなかった。だから剣術の腕を磨いた。好む好まざるを関係なしに。彼には、それしか生きる術はなかったのです」
「この間お話くださった、タシュラル様のことですのね」
幼いとばかり思っていた姫は、自分の立場を素早く理解した。リーフィウなどはいまだに「自分は捕虜なのに」と遠慮ばかりをする。だが、シャリーアは自分の立場をより正確に把握しようとした。捕虜と言う身分で言うのならば、シャリーアは王子である兄よりずっと微妙な立場に居るとわかっていたのだ。
実際、シャリーアはリーフィウを生かすために連れて来られたと言っていい。または、万一のための備え――。
そのことを理解していたシャリーアは、ラシッドも侍女のシャーナも味方だとわかった後、カハラムの内情を二人から出来うる限り聞き出そうとした。その根気と情熱と、幼いながら自分の立場から逃げようとしないシャリーアに負けたのは、ラシッドだった。
つまり、何も話さないキーファといるリーフィウより、ラシッドと打ち解け合った妹の方が、状況をよりよく理解していた。
「では、キーファ王は政治的なことは全く学んでいないのでしょうか」
シャリーアはそう言いながら首を傾げた。ラシッドの話を聞いていると、決して政治に疎いというわけでもないと思えたのだ。
「正式には、そういうことを学んだことはなかったようですよ。ただ幸いなことに、何人かタシュラルの目を逃れた諜報を生業とする者たちがいたようですし、王も自分で本などを読んで学んだようです」
まあ、とシャリーアは目をぱちくりとさせ、それから大きく頷いた。
「ラシッド様がキーファ王は資質があると仰る意味がなんだかわかりました。そうですわね。このままでは勿体無い方ですわ。ご本人は、やはり気付いていらっしゃらないのでしょうか」
どうなのだろう、とラシッドはため息をつきつつ考えた。気付く気付かないの前に、諦めている、というのが一番しっくりくる言葉で、だからこそ、ラシッド達は歯痒い。
そもそも、喧嘩の原因もそのあたりなのだと思い出して、ラシッドは苦笑した。
「わかりませんが……ただ、自分についてくる人間がたくさん居ると言うことには、気付いていらっしゃらないようです。皆が、待っていることは」
わからないわ、とシャリーアは手にしていた茶器をそっと円卓の上に置いた。
「キーファ王はわりと気性の激しい方な気がしたのですけれど。今はともかく、もう少し子供だった頃に、反抗しなかったのでしょうか」
まあ、とシャーナが声に出さずに驚いていて、ラシッドは彼女と顔を見合わせた。数度会っただけで、よくキーファのことをわかっている。それについてはシャーナのほうが詳しいのだろうと判断したラシッドは、シャーナに話をするよう促した。
「そうね。シャーナも長く王に仕えていたのだったわね」
「イーザ様ほどではありませんが……キーファ王がちょうど十を越えた辺りの頃には、私も随分ここでの生活に慣れて来た頃でした。確かに、あの頃キーファ王は、良く癇癪を起こしておりましたわ」
それは今でも変わらないな、とラシッドが茶々を入れ、シャーナはそれを軽く睨んだ。
「あの頃から、既に身体は鍛えておられましたから、私たち女だけでは止めるのが大変でしたが……何よりその痛々しさに、私たちはどうしたらいいのかわからなかったのです」
シャーナはその頃のことを思い出したのか、顔を俯かせて声を震わせた。
「王座に着いたとき、キーファ王は母君さまと別れさせられてしまいました。会えるのは一年に数度。それでも、まだ理解していなかった幼い頃はそれを楽しみに、健気にも大人の言うことを聞くとても良い子だったのです。でも、いつからか、母君さまの立場をご理解して、それと同時にご自分の立場も知ったのです」
「母君さまは、その……」
ええ、と頷いたシャーナに、シャリーアは言葉を失った。
「どうにも出来ないことに、キーファ王は苛立っていたのです。母君さまのことを考えれば、それを口にすることも出来ません。ですから、癇癪を起こすときは、いつも何も言わず、無言で暴れていましたわ。本当に、何も言わず、一切言葉を発せずに、ただ茶器を割ったり布を引き裂いたり……あの光景は、いまでも忘れられません……自分が怪我をしても、痛いとも言わずにいるのですもの」
シャーナの言葉に、ラシッドは戦うときのキーファを思った。あれは、その幼い頃の苛立ちの延長なのだろうか。
シャーナは深く息を吐き出して、目を何度か瞬かせた。
「一度だけ、キーファ王が言った言葉が私には忘れられません」
「なんて言ったの?」
シャーナはとうとう、顔を手で覆った。
「ここで、飼い殺されるのが自分の運命なのか、と」
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