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モドル 7-04 01 * 03
遠景涙恋
第八章 幻光
02
そのため息は、困っていらっしゃるのでしょうか、とリーフィウが笑いを堪えたような声で言った。
「困っているというか……」
「シャリーアには、言っていないのですね?」
確信に満ちた声に、今度はラシッドは頷いた。
言っていない。まだ時期尚早で、言うべきではないと思っている。だが、少女は気付いている。気付いていて、ときどき試すようなことを言ったりしたり、する。まるで子悪魔のような少女に、ラシッドはときどき言い様に遊ばれているような錯覚に落ちることがあった。
その様子でもわかるのか、リーフィウはくすくすと笑った。
「あの子はまだ十三ですけれど……ルクでは女は十四で成人です。それに、宮廷には同じような年頃の女の子達がたくさんいて、小さな姫君と呼ばれていましたが……とても背伸びをする子たちで、大人顔負けの生意気な口を聞いたものです。たぶん、ラシッド様の考える十三の少女より、ずっと生意気だと思いますよ?」
生意気――そう言われればそうなのかもしれないが、その辺りが可愛くてたまらないとは――ラシッドは言えなかった。
「少なくとも、私はリーフィウ殿を敵に回さずにすむのでしょうか」
「ラシッド様。先ほど言いました。私は、シャリーアが幸せならそれでいい、と。本当に、それだけなのです」
リーフィウのその目はとても優しく慈愛に満ちていて、ラシッドがどこか嫉妬しそうになるほどだった。だが、同時に、ひどく哀しい目でもあった。
リーフィウは、自分はどうでも良いと思っている。シャリーアのためならば、どれだけ自分を犠牲にしようと構わないと思っているのだろう。そうやって、自分の幸せを探さないところは、キーファにそっくりだった。
「お約束します。シャリーア殿は、私が必ず、幸せにすると」
だから、ラシッドは思わず、そんなことを言ってしまった。シャリーアは自分に任せて、リーフィウはリーフィウの幸せを追って欲しかった。
だがリーフィウは、頼もしい限りです、と儚く微笑んだ。
「リーフィウ殿。私は、あなたにも幸せになっていただきたい」
そう言うと、リーフィウは驚いたように目を見開き、それからやはり淡く笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。
ラシッドにそう言われても、リーフィウには、自分の幸せがどこにあるのか、わからない。シャリーアのため、ルクのため、そう思って生きることで精一杯で、幸せを探すことに手を回せるとは思わなかった。
そんなリーフィウを見て、ラシッドはため息を吐いた。それほど簡単に、幸せと呼ぶものが手に入らないことはラシッドも身に沁みてわかっている。幸せなときを過ごしたことがあるならば、なおさら。
「リーフィウ殿……その、キーファ王とは、どうなっているのでしょう?」
一番幸せに近そうなところを探ってみようと、ラシッドがそう聞くと、リーフィウは目をぱちりとさせた。
「どう、とは?」
「いえ、少しは話をしましたか?」
ラシッドの言葉に、リーフィウは首を傾げた。キーファがルクの歴史の本を読んでいるために、以前よりは会話は増えたかもしれないが、それだけだ。それを言うと、ラシッドは何度も首を横に振って、深いため息を吐いた。
「結局、リーフィウ殿は何も聞いていらっしゃらないのですね……」
「何も、とは?」
「疑問は聞いてみたら良い、と言ったことありませんでしたか?」
そう言えば、随分前にラシッドに一度そんなことを言われた気がする、とリーフィウは思い出した。それと一緒に、ラシッドに聞いてみたいことがあったことも思い出した。
「それならば、ラシッド様に聞きたいことがありました」
「私にですか?」
リーフィウは頷くと、イーザから聞いた眠り薬になるお茶の話をした。湖宮に連れてこられた最初の晩から数日、飲まされていたものだ。
「イーザに聞いたら、あれはラシッド様からだと言っていて……あ、イーザのことはどうか怒らないで下さいね。私がかなり無理やり聞き出したのですから」
イーザは特別口止めをされていたわけではないのだが、密やかなやり取りの末の眠り薬だったため、リーフィウに話すことを戸惑ったのだった。
ああ、とラシッドは言って、酒を啜った。前に一度、話すことを戸惑ったことがあったのを思い出した。
キーファのことだから、話すつもりはないのだろう。リーフィウを傷つけた事実は変わらず、言い訳を好む男ではないからだ。
「なぜ、眠り薬を?その……」
「なぜと言われれば、眠っていただくため、です。あのときは、眠れる状況ではなかったでしょう?」
やはり、キーファが何をするのかわかっていて、ラシッドは眠り薬を飲ませたのだ。確かに、あの痛みと屈辱を考えれば、無理やりにでも眠らなければ長く辛い夜になったに違いなかった。
そうですか、とリーフィウが小さく吐息をついた。ラシッドはそれをちらりと見て、再び口を開いた。
「あの夜のことは、避けられたことだったと私は思っています。ですが、規律を守らせ、侵略国への様々な行為を我慢させた師団の兵たちを満足させるために、あなたに辛い思いをして頂かなければならなかった。それが、リヤムシャレンの踊りだったのです。だがそれで、別の効果が生まれてしまった」
別の?とリーフィウが眉根を寄せた。ラシッドにしてみれば、これを口にすることの方が戸惑われた。
「あなたは見事に踊りきった。ですが、あの踊りの効果もしっかりと現れてしまった」
リヤムシャレンの踊りの効果――それが娼婦の踊りで、客を誘うものだというのはリーフィウには良くわかっていた。
「つまり……」
「ええ。あなたをそう言う目で見たものがいました」
兵たちのほとんど、大臣や貴族と言われる輩たちも目をぎらぎらさせていたのだが、それはラシッドは黙っていた。
ルクにも男娼はいて、そう言う関係があるのだとはリーフィウも知っていたが、カハラムの宮廷はルクよりずっと乱れている。
「キーファ王も……」
ふと瞳を翳らせて呟いたリーフィウに、ラシッドは慌ててそれを否定した。このことを言うべきか迷っていたのだが、誤解をさせたままにするわけにはいかない。
「王のあの行動は、そういうわけではないのです。リーフィウ殿にとっては確かに同じことだと思いますが」
「そう言うわけではないというのは?」
「……キーファ王は、タシュラルやラ・フターハに見張られています。彼らは警護だと言うのでしょうが、私からしてみれば監視です。この二人は親子なのですが、似ていましてね。少年趣味もありますし、さらに残酷性も似ています。だから、彼らにリーフィウ殿を渡すわけにはいかなかったのです。もちろん、兵たちの好きに出来る牢に入れるわけにもいかなかった。
ですから、王はあなたは自分ものだと主張する必要がありました。どれだけタシュラルが実権を握っていても、王はキーファです。タシュラルはその辺りの匙加減は間違えません。兵や市民、キーファ王自身に対しても」
「王自身に対しても……?」
「ええ。だから彼は、タシュラルに何も言えない。私など最近になって王を知りましたから、歯痒いし不思議でなりません。彼には今の状況を変える力がある。権力と言う意味ではなく。でも、すっかり諦めている感じがするのは、そのタシュラルの手腕、と言えるのでしょう」
諦めている、という言葉に、リーフィウは昏いキーファの目を思い出した。
「母君のこともありますね」
ええ、とラシッドが頷いた。
「その匙加減の一つに、国王軍をある程度好きにさせるというものと、キーファ王の愛妾に手を出さないというものがあります。ですから、リーフィウ殿を守るためには、その関係を持つことは大事でした。タシュラル宰相は、もしかしたら「振り」でも大人しく引き下がったかもしれません。ですが、ラ・フターハはそうはいきません」
毎晩キーファがリーフィウの元を訪れるのも、そのためだった。キーファは今はリーフィウを抱いていないが、それをラ・フターハにどう報告しているのかはわからない。もともと女ばかりを抱いていたキーファは、やはり男を抱くのは満足できなかったと言ったのか、リーフィウが良くなかったとでも報告したのか。ともかくも、それでも毎晩訪れることで、ラ・フターハの侵入を妨げていることは確かだった。
「あれには、そんなことが……」
最初の夜のキーファは、酔っていたしリーフィウに対しても横柄な態度を取っていたために、そんなことは少しも考えなかった。リーフィウはため息を吐きながら、小さく首を振った。
「では、キーファ王にも気の毒なことを……」
あの、感情もなくほとんど義務的とも思えた抱き方を思い出して、リーフィウは納得した。女性の方がいいだろうに、と思ったのは間違いではなかったのだ。
沈んだ表情のリーフィウに、ラシッドは何もいえなかった。だが、あの夜のことをそう言ってしまうリーフィウの優しすぎる面に、苦笑も起きてしまう。あれで傷ついたのは、リーフィウだったというのに。
「それで、ラシッド様は私の身体を心配して下さったのですね。ありがとうございました」
「え?ああ……もちろん、私もリーフィウ殿のことは心配でしたが、私が動くより先に、あれはキーファ王がシャリスに頼んだのです」
「え?王が?」
「シャリスに痛み止めか、何かいいものはないかと聞こうと思っていたときに、彼の方から、王に頼まれたと言ってあのお茶を渡されたのです。あれならば、深い眠りに誘えるからと。あのとき、リーフィウ殿とシャリーア殿と接触していいのは私だけでしたので……それを私が引き受けました」
それはどう言うことなのだろうか、とリーフィウは頭が混乱した。
キーファという男が、あまりにわからない。
「キーファ王が……」
リーフィウはそう呟いて、無意識に唇を指で撫でた。
あの夜の痛みと屈辱を、一体どうしたらいいのか、わからなかった。
長く深い息を吐いた後、リーフィウは「シャリス様と言えば……」と呟いた。
「どうもご迷惑ばかりかけているようで……申し訳ないと、伝えておいて頂けませんか」
「ええ、いいですが。薬などは彼の仕事であるまえに生きがいでもありますから、迷惑をかけたといっても理解しないですよ、きっと」
「いえ、それだけではないのです。実は一人、ルクの者がシャリス様にお世話になっているようで……」
ああ、とラシッドは今朝のことを思い出した。リーフィウが驚いたように立ち止まって見つめていた先にいたのは、ルク民の一人だったのだ。それについては、ラシッドも話を聞いていた。
「フェイ殿でしたか」
「ご存知ですか?」
「ええまあ。一応例外的な採用だったので、司令部には話がありました」
「例外的……やはり、シャリス様にはずいぶんご迷惑をかけたのでしょうね」
今朝フェイを見て、リーフィウはシャリスの言葉の意味を知ったのだ。
ルクの民は頑固な上にしつこいですね、と深々とため息を吐かれたその意味を。
ラシッドはくすくすと笑って、でもこき使っているようですよ、と言った。
「第二部隊は他の部隊より荷物が多いので、ああいった体格のいい男は重宝します。それに、シャリスはあれで部隊長の中で一番きつい男ですからね。それに耐えて入れてもらったのならば、芯のある男だ」
ルクの元兵がカハラム国王軍に入るのだ。到底無理な話だとリーフィウも思う。自分がそれを望んだと同じように。一体フェイはどう言ったのだろう。
「フェイ殿にはフェイ殿の考えがあるのでしょう。それをわからないシャリスではない。もちろん、キーファ王もそれはわかっています。それでも受け入れたのですから、リーフィウ殿が心配することではないですよ」
そうですね、とリーフィウは言いながら、わからないのは、キーファだけではないのだと思った。
国王軍の司令部もまた、どうにもわからない人間が多いのだ。
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