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モドル 8-05 * 02
遠景涙恋
第九章 深淵
01
王宮の西側から南側には川が流れており、朝になるとそこから靄が立ち込めることが良くある。その靄に囲まれる王宮は神秘的で、人々は朝靄に包まれる王宮を、目を細めて見ることが良くあった。そして一日の終わりには、西日に輝く宮殿になる。王宮は黒く磨かれた木で出来ているが、それゆえ天候によってその姿を変える。雨の日にはしっとりと、晴れの日には日を反射して眩しいほどで、人々はその宮殿を、七色宮と呼んでいた。
宮殿と言っても、主宮殿とその周りに建つ多くの離宮や宝物殿、広大な庭を含むその土地は、もし周りを馬で走ったら、ゆうに半刻はかかるだろうと思われた。周りは塀に囲まれていて、まるで一つの街がその中にあるようだった。
その広大な土地の中、朝靄も気にせずに、キーファは馬を走らせていた。主宮殿からもっとも離れた雪花宮の周りには、背の高い、常緑樹が植えられている。その木々の中を、キーファは器用に馬で掛けていた。
ここに来るのは、一年に数回のことだ。カラムにいるときは二ヶ月か三ヶ月に一度は訪れるが、湖宮にいる方を好んでいるキーファは、王宮には半年ほどしかいないことも多い。そうなると、一年に二度ほどしか訪れないこともある。
雪花宮は、いつものように静かだった。そこだけは世界から外れた場所のようで、キーファはここに来ることを厭いながら、羨ましいとも思う。
時間も、政治も、忘れ去られた場所。
だが、それがどれだけそこの人間を狂わせたのか、キーファは知っていた。全てを奪われ――キーファの母は、静かに狂っていった。
若くして伴侶である王を亡くした王妃には、この国を統べる力などなかった。あまりにも弱く、守られることでしか生きていけなかった女だ。
キーファが馬を近くの木に繋いでいると、扉がゆっくりと開いた。ここではいつも、キーファが扉を叩かないうちに、そこが開く。
朝早くにやってきたというのに、元王妃の侍女はきちんと整った格好をして、すっと頭を下げた。キーファはほとんどこの侍女と話したことはない。そもそも、ここに来て言葉を発したことなど、ここ数年ないだろう。
元王妃は、まるで年を取るのを忘れたかのような顔をして、窓際に坐っていた。彼女はいつも窓から外を眺めている。そこから見えるのは、木々と空だけだというのに。
キーファはその斜め後ろに立って、しばらく母を眺めていた。
幼い頃は、母と会うのは楽しみで仕方がなかった。だが、その頃の母はいつも泣いてばかりで、キーファが会いに来るたびに謝っていた。ぎゅっと抱き締められて、ごめんね、と囁くように何度も言われて――キーファはここに来てはいけないのではないかと思ったほどだった。
それから比べれば、今の方がもしかしたら幸せなのかもしれない、と思う。
ただ静かに、日々が流れていくことを待つ。
いつもは無表情だが、ときどき微かに笑うこともある。それは幸せそうだというよりも、どこか痛々しい笑顔だったが、泣いてばかりのときよりは、ずっといい。
すっと侍女が来て、お茶を淹れた。キーファにそれを薦めながら、侍女は元王妃の器にもとろりとした薄桃色の茶を注いだ。だが、その器はしばらく放って置かれ、人肌に冷めた頃に、彼女の手に渡る。感覚が鈍くなっている彼女は、熱くてもわからないために火傷の危険があるのだ。
キーファはこくりとそのお茶を飲みながら、母と同じ方向を見ていた。木々は靄の中に繁っており、これが夕陽だったら綺麗なのかもしれない、と思った。
お茶を一杯飲んだところで、キーファは身を翻した。部屋を出るときに、なんとなく振り返ったが、母はやはり、外を眺めていた。
彼女は一度も、キーファを見なかった。
キーファが部屋に帰ってザッハの特訓のために石の庭に行くと、そこに思わぬ人物が待っていた。柔らかい笑顔を浮かべて、ザッハと談笑している姿はどこかほっとさせたが、同時に、そこにいることに嫌な予感があった。
先日、ラシッドがリーフィウを連れて、ザッハの特訓を覗いていたことは知っていた。それが効果があったのかわからない。だが、あの思い詰めたような、笑わないリーフィウをキーファも心配していたから、ラシッドを怒ることもしなかった。
キーファが庭に入っていくと、ザッハがすっと立ち上がって、頭を下げた。後ろから現れたというのに躊躇なくキーファと判断したザッハに、確かに気配に対して感覚が鋭くなってきた、とキーファは満足した。
リーフィウは、すっと立ったまま目礼した。いつもの長い被りの服ではなく、身体が動かせるような薄い短い上着を着ていた。下はいつもと同じ物である。
その服装にキーファが目を眇めた。リーフィウがここにいる目的は、それだけでわかった。だが、キーファはそれに気付かなかったことにして、ザッハに訓練をつけるから、戻って欲しいと言った。
「私にも、ご指導願えませんか」
リーフィウはそんな言葉は予想していたのか、すぐにそう頼んできた。
「……ラシッドはどうした」
「ラシッド様は、私まで面倒は見られないと」
リーフィウの顔は真剣で、口調も決してふざけてはいなかったが、実際これを言ったときのラシッドは、軽くそう言って片目を瞑って見せたのだった。王には、そう言って下さい、と。
キーファは苦々しい顔をして、軽く頭を振った。王宮にいるときのキーファは身なりを整えていることが多い。その髪がばさりと揺れた。
「私も今はザッハのことで手が一杯だ」
「ほんの少しでいいのです」
リーフィウは食い下がったが、キーファは首を縦には振らなかった。
「どうしてもと言うのなら、ラシッドを説得しろ」
「でも、ラシッド様はキーファ王にと言うのです」
しばらく、二人は睨み合っていた。ザッハは息を潜めて、その二人の様子を見ていた。
何故、と言葉を零したのはリーフィウだった。
「何故、なのです。それほどまでに駄目だと言うのならば、なぜ知っていて私を連れ帰ったのです。……なぜ、私を守り、ルクを、守るのです」
リーフィウの声は震えていた。静かな庭に、さらりと風が吹いた。一降り来るかもしれないとザッハが思ったほど、冷たい風だった。
「私が、外交カードだからですか?でもそれならなぜ、あのときルクの民たちと一緒に行くことを止めなかったのです」
わからないことばかりで、それがいくつもすぐに過ぎ去っていくので、リーフィウは色々なことに答えを見つけられないままになっていた。
リ語やルクの文化を惜しいと言い、リーフィウがルクに戻ることを止めなかったことだけを見れば、キーファはルクを少なからず残そうとしているのだと思った。属国としてでもいい。それをまず残すことが重要なのだと、リーフィウも先の訪問でわかったことだ。
それをキーファが望んでくれるのならば。リーフィウは、出来るかもしれないと思った。なんとか、そうしたいと思った。
「私は、何の力もありません。ルクを守ることも、……自分を守ることも出来ません。あのときからずっと。私は、何も出来なかった。父たちが努力しているときも。ルクが、危機となったときも」
「それで、まずは自分が強くなると?」
静かな声だった。キーファは無表情に近い顔で、リーフィウを見た。
「それが全てだとは、いいませんし、思いたくありません。でも、今回のことは少なくとも、それが原因の一つでもあったと思います」
今回のこと、とリーフィウが言ったのは、ルク陥落からザッハのことまで、何もかも全てだった。
「原因?ルクが軍事的に弱かったことか?」
それもあります、とリーフィウは硬い声で答えた。キーファはそれに、ふっと笑った。それはどこか自嘲を含むような――馬鹿にしたような、珍しい笑いだった。
「今回のことでルクが陥落したのは、仕方のないことだと言ってもいい」
「どういうことです」
「軍事力などは関係ない。ルクが自国を守りきれなかったのは、全てに於いて後手にまわったからだ。ルクは情報で外交関係を築いてきた。どう考えても、今回のことではヤーミンの条約の一方的な破棄が悪い。そしてそれを、前もって察知できなかったことが、最大の敗因だろう」
キーファの声は淡々としていた。リーフィウは少し上にあるその顔を見て、きゅっと唇を噛んだ。
「それは、父も言っておりました。油断していたと」
油断か、とキーファがまた微かに笑った。
「私は政治には全く関心がありませんでした。少しも、父を助けようとはしなかった」
リーフィウの硬い声は、変わらなかった。そうして自分を責めているのだと、傍らのザッハにもわかった。
たぶんずっと、リーフィウは自分を責めつづけてきたのだ。
「あれは、ルクには落ち度はなかった」
ふいにキーファが言って、隣のザッハでさえ眉を顰めた。リーフィウはその言葉に、顔を上げてキーファを凝視した。
「全てが仕組まれていた。ヤーミンがルクとの条約を破棄するように仕向けたのはカハラムだ」
え、と声を上げたのはザッハだ。
「ヤーミンは、ルクがカハラムに傾きかけているという偽の情報を掴まされて、慌てた。あのとき、カハラムの使節がしばらく滞在していたのはそれを信じさせるためだった」
「では、カハラムがその後ルクを攻めたのは……」
リーフィウの声はひどく震えていて、ザッハは思わず隣を見た。身体も、小刻みに震えていた。
「同じ条約を交わす国として、助けると言うのがあのときの大義名分だった。だが、ルクがどちらに付く気もないことは、十分承知していた」
あの時点で、ヤーミンのナーヴァも、カハラムに躍らせれたと気付いただろう。結局、揺れに揺れて誰の手も取れなかったルクは、カハラムと手を組むことなどありえなかったのだと。
だからこそ、ルクを再び攻めてきたのだ。ナーヴァはプライドの高い男だ。その屈辱を晴らさずにいられなかったに違いない。
そんな、とリーフィウの口から悲鳴じみた声がした。ぐっと握られた拳は、真っ白だった。
なぜ今更そんなことを言うのか、リーフィウにはわからなかった。
これほど、自分が傾いてしまった今、こんなことを言い出すのか。
唇を震わせキーファを睨んでいたリーフィウは、今にも泣き出しそうだった。
「どうして、そんなことを言うのです?!今になって、そんなことをっ」
叫んで、どんっとキーファの胸を叩いた。だが、それはぴくりとも揺れず、リーフィウは何度か強く、拳でそこを叩いた。
キーファなら。
そう思った。ルクのことをわかっているキーファとなら、どうにかしてルクを再建できるかもしれないと。それが、最も良い形ではないにしても。
それなのに。
裏切ったのは自分たちなのだと、なぜ今更言うのだ。
「ルクには、どうにも出来なかった。そう言う風に、あれは計画されていた」
頭上から淡々と言われた言葉に、リーフィウは顔を上げた。その瞳からぽろりと一筋の涙を零すと、リーフィウは思い切り、その頬をはった。
もう、聞きたくなかった。
だから、キーファの呟きも、聞かなかった。
――あなたが何もかも背負うことなどないのだ。
そう言った、その言葉も。
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