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モドル 8-05 01 * 03
遠景涙恋
第九章 深淵
02
昨夕降りだした雨は、翌日になってもまだ降り続いていた。その中でいつもと変わらぬ訓練を受けたザッハは、湯を浴びてほっと息をついていた。小石に跳ね返る雨の音に邪魔されて、今日の訓練では少しもキーファ王の攻撃をかわせなかった。少しは気配が掴めるようになったと思ったのに、音だけに頼っていたのだろうかと気を落としたくなる。
キーファは容赦がない。だが、それが却ってザッハを救っていた。同情ではなく、本気で以前より強くしてくれるつもりなのだと、思えるからだ。
髪からまだ雫を垂らしながら、ザッハは窓から外を見た。警護も兼ねて王宮の敷地内でも主宮殿の隣に立つ兵の宿舎からは、遠い街並みが見えた。
豪快な音で扉が叩かれて、ザッハの返事を待たずに声がした。相変わらず豪傑な人だと、ザッハは肩を竦めながら錠前を外した。
「あ?湯浴みの最中だったのか?」
今ごろ?という戸惑いを含んだ声に、雨の中で訓練したんです、とザッハは笑った。
イル・ハムーンはその笑顔に目を細めてから、どうだ?と聞いてきた。ずかずかと中に入ってきて、我が物顔でどさりと腰を下ろす。最初からイル・ハムーンはこんな態度だから、今やザッハは諦めていた。
「ええ、まあ。王は、容赦がなくて、毎日しごかれてます」
ザッハはそう言いながら、お茶の用意をした。
「手加減、する人じゃないからな」
お湯が注がれた茶器から、ふわりと爽やかな匂いがした。ザッハの好む、甘さよりもすっきりさが目立つ花茶の香りだった。
蓋付きの茶器が目の前に置かれて、ザッハがそのまま目の前に腰掛けようとしたから、イル・ハムーンはため息をついた。
「いつまでそんな格好をしているつもりだ」
白の季節が近くなって、今は随分気温も下がってきた。寒くないのだろうか、とイル・ハムーンは心配そうな顔をした。
ザッハはああ、と今思い出したように上半身裸の自分の格好を見て、にこりと艶やかに笑った。
「目に毒、ですか?」
からかっているような声に、少しだけ切なさを滲ませてそう言ったザッハに、イル・ハムーンは馬鹿なこと言ってるんじゃない、と呆れたように怒った。だが、ふいっと視線は逸らされていた。
ザッハはくすくすと笑って、近くにあった上着を羽織った。
「……何も、そう言うだらしないところまで教わるなよ」
イル・ハムーンはぶつぶつとそう言った。それから、出されたお茶の蓋を少しだけずらして、蓋で葉を避けながらずずっと茶を飲んだ。どこか少し、いつもより苦い気がする。
ザッハはきちんと、鎖骨辺りを斜めに置かれた釦も留めた。それから、どさりと布団の上に坐った。上着は着たものの、髪からはまだ雫が垂れていた。
目を逸らすくらいなら、来なければいいのに、とザッハは思う。
「それで?今日はどうしたんです?」
雨の音に耳を澄ませているように、どこか窓の外を眺めているイル・ハムーンに、ザッハはため息を隠して聞いた。
「どうと、言うわけじゃない」
視線は合わされないまま、イル・ハムーンはそう言った。
そんなことを言うのなら、どうして、とザッハは思う。
「暇なんですか?それとも、ウチの部隊の連中が何かしました?」
ザッハは、理由が欲しかった。
ここに来る明確な理由が、あって欲しかった。
なんとなくなんて理由は、いらない。
「あいつらは健気に頑張ってるぞ?おまえがいない間に、部隊長の顔に泥を塗るような真似は出来ないって、殊勝なもんだ」
「じゃあ、普段のあれは何なんでしょう。やれば出来るんじゃないか」
むすっと言ったザッハに、イル・ハムーンは笑った。
王直々に訓練を受けているザッハに代わって、現在第一部隊を実質的に見ているのは第四部隊長のイル・ハムーンだった。彼は国王軍の中でも古参で、ザッハの元上司でもある。若者が多く、血気盛んな第一部隊を押さえられるのは、ザッハの他には王かイル・ハムーンぐらいだった。
ザッハは若い。それでも部隊の兵たちは、部隊長を認めない限り部隊には残れない。だから第一部隊に新兵が配属されると、大概何かしら問題が起こるのだが、結局はザッハをみんな認めるのだった。
若いが、強い。そして、度胸もある。
そう言っても、やはり年齢が近い者同士、第一部隊はどうも遊びが過ぎることが多かった。その責任を被るのは、やはりザッハで、いつも小言を言わなければならない。もしくは、一緒になって遊んでしまう。
そんな姿も、もうここ一、二ヶ月見られない。
イル・ハムーンは少しだけ大人びたザッハを、視界の隅で見ていた。以前は背伸びを精一杯している感じだったのに、今はもう、ただ何かを悟った大人になった。
そして、片目となった青い瞳は、とても静かだった。
ザッハは、囚われていた間の多くのことを語らなかった。必要な情報は惜しげなく与えたが、自分が受けた拷問については、何も言わなかった。まるで、何もされなかったかのように。
ふいっと視線を正面近くに戻すと、ザッハがぼんやりとやはりどこか窓の外を見ていた。左側に、まるで影のような黒い布をして。そこにあまり大きな傷はない。だが、死んでしまった、目があった。
「みなさん、どうしているんです?」
「あー、シャリスはいつもどおりに新薬開発だとか色々やってるし、ファノークは遊び惚けてるし、ラシッドは姫さんのところとリーフィウ殿の所に言って相手してるみたいだな。あとは、通常通り。つまらない仕事に時間を費やしてるな」
あなたは?と聞こうと思って、ザッハはその言葉をお茶と一緒に飲み込んだ。適当にやってるとか、ふらふらしてるとか、欲しい答えは決して得られない。
「そう言えば、キーファ王もときどき機嫌が悪くて困ります。ただでさえ容赦がないのに、苛めるんですから。あれ、嫌な会議の前なんでしょうね」
くすくすと笑って見せたザッハに、イル・ハムーンも微笑んだ。
「ああ、意味のないやつな」
そこにいればいい、という王。あとは議決をし、最後に署名をして、体裁のための会議は終わる。それを心底馬鹿げていると思っているのは、まさにキーファ自身だった。
「……でも最近は、結構ずっと機嫌が悪いな」
独り言のように言って、ザッハは苦笑した。
あれほどまでに、キーファ王が不器用だとは知らなかったのだ。
何も恐れず、ただ強いあの人が。
「ずっと?ああ、そう言えば普段に増して不機嫌な顔はしてるな。遊びもまた始まったし」
「それでどうしてあんなに元気なんでしょうね?こっちは息も切れ切れなのに、余裕なんですから」
それだけ無駄な動きが少ないのだろう。だが、イル・ハムーンはふっと笑っただけで何も言わなかった。キーファ王の戦闘能力が化け物じみているのは、良く知っている。
「で?その原因を知ってるんじゃないのか?」
「知ってるわけじゃないですけど。心当たりはあるというか……イル・ハムーン殿は、今回のルク攻略のからくりは、知っていたんですか?」
からくり、と言う言葉がどこまで意味するのか図りかねて、イル・ハムーンはザッハをじっと見た。それに、ザッハはああ、と言って、なぜヤーミンが急に条約破棄なんて言ったのか、とか。その辺りの事情です、と笑った。
「ああ、その辺りはまあ、少し。やり方が気にいらねえって、ちょっと王にも言ったしな」
「そうなんですか?」
「俺たちは反対って言うか、乗り気じゃなかったんだ、今回のことは」
複数形で言われたことで、ザッハは目を伏せた。自分は第一部隊隊長でありながら、その中には入っていないのだ。
「言っておくが、俺は俺の独自の情報網で掴んだんだ。それで乗り込んだときに、ラシッドもいた、ってだけの話だ」
「独自の情報網?」
「まあな。上に信用ならない奴もいるから、一応対抗策は立ててるんだよ。キーファ王も、今回のことは自分の情報網で調べたはずだ。タシュラルからじゃない」
「じゃあ、ヤーミンだけじゃなくて、俺たちも踊らされた……?」
「とも言えないけどな。少なくとも、王も国王軍副長も知ってたわけだから」
「じゃあ、どうして?」
「師団だけで言ったら、不安だった、と言うのもある。現地人に何をするかもわかんねーし。それにもう、ヤーミンを止める方法はなかった。だからこそ、あの約束だったんだ」
「リーフィウ殿とシャリーア殿はキーファ王が受けると言う?」
「そうだ。タシュラルにしてみれば面白くなかったろう。ただでさえ王が逆らうのを嫌うからな。だが、王はふざけ半分で二人の身請けを約束させた。言い出すタイミングも絶妙だった。もちろん、それで踊らされるのは我慢するしかなくなったんだが」
「……キーファ王は、どうして二人を手に入れたかったのでしょう?重要人物なのはわかりますが、何かそれだけじゃないような……シャリーア殿はまあ、理由はわかる気がしますが」
「その辺りは知らん。だが、あの二人が会ったことがあったとしてもおかしくはない」
「そうは見えないですけど」
「まあな。でも、話したことはなくても会ってはいるはずだ。ルク前王は一人息子を連れてカハラムを訪れたことがある。まあ、かなり幼い頃のことだから、ほとんど覚えちゃいないだろうが」
そうなのか、とザッハはイル・ハムーンを見た。彼の前歴はあまり知られていない。前王にも仕えていたようなことは聞くが、その彼が国王軍に入っているのは少しばかりおかしい。タシュラルは、徹底的にそう言った人物をキーファ王から遠ざけたのだ。だから、国王軍はみな平均的に年齢が若い。
「で?それが王の機嫌と何の関係があるんだ」
「ああ、そのからくりをですね、言っちゃったんです」
「は?誰に?」
「リーフィウ殿に」
馬鹿なのか王は、と失礼な言葉を吐いて、イル・ハムーンはぽすんっと布団に背を預けた。植物の種が入っている布団は、あまり柔らかくない。羽根のような柔らかいものを好むのは、女性が多かった。
「不器用なんだなあとは思いました」
「不器用ねえ……」
「まるで誤解できるような言い方するんですよ?なんだか身も蓋もなく、カハラムの陰謀だったんだ、って感じで」
あのときの、リーフィウの怒りと哀しみの混じった顔をザッハは思い浮かべた。
唇を震わせて、キーファ王を睨み、今にも泣き出しそうだった。
聞いたイル・ハムーンはがしがしと頭をかき混ぜ、ため息を付いた。
「言い訳、したくなかったんだろ」
「そうですけど。でも、なんか……もっと他の言い方があっただろうにって思うんです」
それができたら、キーファもまた違った王となっていたかもしれないが、二人は互いに、敢えてそのことは言わなかった。
王が口下手なのは、今に始まったことではない。素直ではないのも、不器用なのも。
「それで、リーフィウ殿は?」
「……王の頬を思い切り張って、泣いて走っていきました」
ああ、数日前のあの腫れた頬は、そう言うことだったのか、とイル・ハムーンは納得した。それについては、王は一切口にせず、誰かが何か言うことも嫌がって、その度に機嫌を悪くしていた。
あれは――。
「それはまた、リーフィウ殿もなかなかやるな」
「変なところに感心しないで下さい。彼は本当に哀しそうだった」
そうだろう、とイル・ハムーンは思った。怒りより、哀しみ。だから――。
あれは、キーファ王の自己嫌悪の不機嫌さだったのだ。
そんな風に泣かせてしまった自分が、腹立たしくて堪らなかったのだ。
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