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遠景涙恋
第八章 幻光


05
 少しばかり、見せたいものがあるのです、とラシッドに言われて、リーフィウはなんでしょう、と首を傾げた。だが、ラシッドは見るまでのお楽しみです、と連れ出すにもかかわらず、行き先も告げなかった。
 王宮内を歩くのは、最初にここについたとき以来だった。だが、例え自由に歩き回れたとして、全てを見るには一体どれほどの時間がかかるだろう、とただひたすら真っ直ぐに続く廊下を歩きながら、リーフィウは思った。
 カハラムは、木の文化を誇る国である。湖宮と同じように王宮も木造で、巨大な長い木々はリーフィウを圧倒した。それだけの木々が育つ場所があるということで、小国ルクからは考えられないことだ。
 王宮も湖宮のように静かで、二人の歩く足音が響いていた。黒光りする綺麗に磨かれた廊下に、二人の姿が映っている。しばらくして、街の一区画ぐらいは歩いたのではないかとリーフィウが思った頃、ラシッドが立ち止まって、振り返った。そして、促すようにまた視線を前に戻した。
 リーフィウがつられて前方を見やると同時に、硬い金属質な音がした。
「ザッハ……」
 そこは白い小石が敷き詰められた中庭になっていた。木々はなく、だが小石はどれも同じような大きさで、とても綺麗だった。その上で、ザッハと、キーファが剣を交わしていた。静かな庭に、ざっと小石が立てる音がする。
 キーファの剣捌きを見るのはこれで二度目のリーフィウだったが、一度目は遠い塀の上だった。近くで見ると、ザッハが綺麗だと言った意味が、わかる気がした。無駄がないのだ。
 ザッハの左目が見えないことを差し引いても、キーファは息を荒げるでもなく剣を交えていて、その腕の良さを伺わせた。きんっと鳴る硬い音を音楽に、二人はまるで踊っているようだった。だが、ザッハは息が荒く、身に付けた布にびっしょりと汗を染み込ませていた。
 ふいにザッハがよろけて、リーフィウははっと息を飲んだ。キーファは容赦がなく、ザッハの左側からも攻撃を仕掛けることを躊躇わない。まだ片目と言うことに慣れていないだろうザッハは、そうされるとひどく弱い。
 どさっとザッハが倒れて、そこにキーファはすっと剣を向けた。ザッハは素早く立ち上がって体勢を整えたが、キーファはすっと剣を仕舞った。
「あんな無茶な……」
 リーフィウの呟きに、横にいたラシッドがちらりと視線を寄越した。
「怪我をしてから、まだ一ヶ月ほどしか経っていないのに」
「確かに、動けるようになったのは最近のことですが、無茶だとは思いません」
 ラシッドの静かだが強い声がした。
「キーファ王は第一部隊の兵たちにも意見を聞いて、ザッハの隊長職の継続を決めました」
 二人は休憩にしたのか、どこかに坐っているようだった。リーフィウ達からは姿が見えない。
「ですが、左目を失ったことは痛い。ただ、そんなことで兵を辞めさせるのも、惜しい男だ」
 そんなこと、とラシッドが言ったことに驚いて、リーフィウは思わず非難の目を向けた。だが、ラシッドはそれを真っ直ぐ受け止めた。
「片目を無くしたぐらいでは、ザッハの剣の腕や隊長としての資質が落ちるわけではない、というのが私たちの意見なんです」
 それほどの器なのだ、とラシッドは言った。
「それに、ザッハから剣を取り上げたら……今なら、間違いなく廃人になるでしょう」
 リーフィウは先ほど二人が戦っていた場所を見た。ザッハは、確かに剣を交えることを止める気はないのだろう。
「彼も鍛えていますから、傷の治りは、目を除けば早かったのです。ですが、精神的になかなか浮上できずにいました。隊長を続けるどころか、兵としてももう終わりだと――あのときザッハは思っていたのでしょう。数日は自暴自棄になっていましたし、そのあと落ち着いたと思ったら、ぼんやりと抜け殻のようになっていました」
 リーフィウはその絶望を思って、目を閉じた。
 それなのに、ザッハは決してリーフィウのことを責めなかった。
「それなのに、なぜ……」
「何が、なぜ、なのです?」
「ザッハは、私を一度も責めなかった……」
 ああ、とラシッドが呟いた。
「あなたの所為ではないからです」
「でもっ」
「キーファ王も、そう言いました」
 確かに、あのときキーファは自分の責任なのだと言った。そして、リーフィウはただの外交カードでしかないのだと。
 再び胸がひどく痛む気がして、リーフィウはぐっと着衣の胸元を掴んだ。
「納得されていないのでしょうか?」
「いいえ……わかっています」
 いつもいつも、自分は責められないのだ。自分には力がないから、どうしようもないのだと――誰もリーフィウのことを責めない。
 本当は、責め立てて罵って、そうしてくれた方が、どれだけ楽かとリーフィウは思う。
「それで、ザッハは立ち直ったのですね。なんと強い」
 リーフィウは胸の痛みに耐えられなくなりそうで、話を無理に戻した。
「ええ。ザッハは強い。ですが、立ち直らせたのは――王なのでしょう」
「キーファ王が?」
 ラシッドがふっとリーフィウを見て、笑った。
「それがこの訓練なのです。キーファ王は、ザッハの怪我の責任は自分にある。だから、最後まで責任は取ると、ザッハの訓練をすると言いました。必ず、以前以上の剣士にしてみせる、と」
 自信満々の口調でしたよ、とラシッドが微笑む。
「ザッハは、キーファ王に憧れて国王軍を志願したと言っていました」
「ええ。ですから、キーファ王から指導を受けられるということでまず、ザッハは嬉しかったのでしょう。その上、必ず以前以上の剣士にすると言われたのですから……ザッハは落ち込んでいる暇もなくなってしまったのです」
 だからこそ、キーファは厳しく容赦のない訓練をしているのだ。本気で、左目の視力を失ったザッハを育てるつもりで。
 なんて人なのだろう、とリーフィウは思った。そんな風に彼の未来を背負うとは。
 ざっと音がして、二人が休憩を終えて再び中庭の中央に立ったのがわかった。だが、そのザッハの姿にリーフィウはまた驚かされた。今度は、両目共に黒い布で覆ってしまっているのだ。あれでは、完全に周りが見えない。
「片目が見えるからこそ、そこに頼る。だが、片目でもう一つの視界を補助できる範囲はない。左側を補なおうとすれば、右側が空く」
 キーファはそう話しながら、ザッハの周りを歩いていた。
「見えるから駄目なんだ。集中しろ。音と気配を、洩らさず捉えろ」
 しゅっと音がして、キーファの左足が上がった。それがそのままザッハの背中を打ち、ザッハは前に倒れこんだ。はっと、リーフィウは握っていた手に力を入れた。
「集中しろっ。見えないことを考えるな」
 ザッハが立ち上がって、全身を緊張させた。
「あいつも本当に容赦がない。あれじゃあザッハは明日、全身痣だらけだな」
 ラシッドがそう言って、ふっとため息を吐いた。リーフィウはどうしたらいいのかわからなくなって、思わず縋るようにラシッドを見た。
「ああ、心配しなくて大丈夫ですよ。キーファ王は加減を知っている人間です」
「でも、全く見えない状態なんて……」
 ザッハは避けきれずに、何度もキーファの手や足に叩かれ、転んでいる。見えないのに避けるなど、無理だとリーフィウは思った。
「そのことなら、それこそ心配はいりません。キーファ王は、出来ないことをさせる人間でもありません。そもそも、王自身は目を閉じていても攻撃を避けられますからね」
 え?とリーフィウがラシッドを見たその視界の片隅で、またザッハがどさりと倒れた。
「ザッハも出来るはずなんです。戦っているときは、後ろから攻撃を仕掛ける敵もいる。そう言うときは異様に集中力が高まっていますから、訓練を重ねた兵ならば避けられるはずです。ザッハも、実際そう言う場面は何度も合ったと思います。キーファ王はそれこそ数え切れないほど、そんな場面に遭遇しているでしょうね。彼は非常に気配に敏感です」
 あれは異常なほどですね。そのラシッドの言葉に、リーフィウはどれだけ静かに移動しても、寝台の横に立つと目を覚ますキーファのことを思い出した。
 ザッハは何度も倒れては起き上がって、両足を広げて立った。キーファはその周りをゆっくりと歩いては、ふいに蹴りや突きを繰り出す。リーフィウはその緊張した雰囲気に呑まれて、息をするのも忘れそうになった。ザッハはときどき、蹴りを避けるようになった。だが、キーファは容赦なく、次の攻撃をする。
 何度目かにザッハが倒れたところで、リーフィウはラシッドに肩を叩かれ、はっとした。
「キーファ王に邪魔だと言われないうちに、そろそろ、戻りましょう」
 その言葉に思わずキーファたちを見る。二人はひどく集中していて、自分たちには気付いていないと思ったのだ。
 促されて歩き始めてから、リーフィウはそのことをラシッドに言った。だがラシッドは笑って、キーファ王から隠れるのは無理な話です、と言った。
「まあ、今回のことは、勝手なことをしてと怒られるかもしれませんね」
 ラシッドは少しも困った風ではなく、そう言った。
「あの、ありがとうございます」
 リーフィウは、ラシッドがあの二人を見せた意味をわかっていた。最近、みんなが心配そうな顔をして自分を見ていることに気付いていた。ザッハのことで騒ぎを起こしてから、尚更。
 それは、ザッハのことだけではなかったのだけれど。
 だが、こうしてザッハは片目が見えなくなったことを受け入れ、進もうとしている。それは、リーフィウに少しばかりの心の変化を起こさせた。
 自分も、この運命を受け入れようと。
 外交カードだと言うのなら、それでもいい。幸運なことにも、待遇は決して悪いものではないのだ。
 きちんと、自分の運命を受け入れて、なすべきことをしよう。
 ここに戻った理由を、思い出そう。
 リーフィウはそう思って、すっと背筋を伸ばした。
 自分は、あまりに弱すぎる。ルクをなくした戦いでも、先のヤーミンとカハラムの戦いでも、それのことは痛いほど思い知った。そして、今も。
 ルクの民を守るとか、復興の願いを叶えたいとか。
 そんな大それたことを考える器は、自分にはない。ただ今は、強くなるべきなのだと思った。精神的にも、肉体的にも。
 ザッハが片目の不利を克服するように、自分もこの心の弱さを克服したいと思った。
 誰かのためにではなく、まず自分で、立つために。


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