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遠景涙恋
第十一章 密約


01
 ハリーファに付き合ってもらって毎朝する剣の稽古は、すぐに使えそうな実践のものが多かった。力がなくとも、相手に対抗する手段は、ときには剣術からも外れている。その意図が最初はわからなかったリーフィウも、しばらくして、どうやら自己防衛のための訓練なのだと気付いた。もちろん、その合間に体力作りなどもしている。
「おまえらしいな、キーファ王」
 そのキーファのやり方を、ラシッドはそう言って笑った。あのラ・フターハの事件から、リーフィウを少し鍛えようと思ったのだろう。大事にしながらでも、そうやって本人に任せるのは、キーファの国王軍でのやり方だった。最終的には、兵本人を信用する。それに気付いた兵は、だから自分を鍛えることを怠ることはない。
 それをリーフィウにまで適用する辺り、キーファと言う人間は面白いとラシッドは思う。そして同時に、敵わないとも思う。
「でも、ハリーファに任せっぱなしなんだろう?頑固だな、おまえも」
「そう言うわけじゃない。ザッハを鍛えるのが先なだけだ」
「……俺はてっきり、ようやくかと思ったが」
 ラシッドが窓を開け放して、冷たい空気が部屋に流れ込んだ。季節はすっかり、白の季節になっている。ラシッドは懐から巻き煙草を取り出して、それに火をつけた。
 キーファは相変わらずのだらしない格好をして、座布団の中に埋もれていた。午後の静かな時間、先刻までは女たちが周りを囲んでいた。
 紫煙が流れて、ラシッドはそれを追うように室内に視線を戻したが、キーファの何も言わない目を見て、またそれを外に移した。
 何も言わないのに、責められている気がする。
 キーファは、ただ静かな生活を望んでいるのかもしれない。このまま流されていくことを、本当は願っているのかもしれない。散々振り回されてきて――だからもう、ただ静かに。
 先日キーファが暴れたわけを、ラシッドは知っていた。キーファがタシュラルに呼ばれるとき、ラシッドはいつもリシュを内密に付けさせる。それはキーファには許可を取っていないが――王は多分、そのことを知っていながら何も言わない。そのリシュの報告で、今回タシュラルは国王軍についての口出しをして来たのだと知った。片目しか身えないザッハを、部隊長に置くのはいかがなものか、と。その上、一度敵の手に落ちた兵は信用ならない、と。
 ザッハの今回の任務と怪我について、最も心を痛めたのは、キーファに違いなかった。そう言う責任について、逃げる男ではない。だからこそ、ザッハの再起に力の限りを尽くしているのだ。
 タシュラルの目的は、ザッハの解任とそれに伴って国王軍を縮小させることだった。真の目的はその縮小であることは、ラシッドにもわかる。今回のルクについての戦いの中で、国王軍は師団に比べて活躍をしすぎたきらいがあった。それがまた、ラ・フターハの神経を逆なでし、リーフィウへの暴挙となったのだろう。
 それら全ての責任を、キーファは感じている。ザッハについては、キーファは何も言わなかった、とリシュは言っていた。頷くでもなく、断るでもなく。そのどちらも出来ないことが、キーファを追い詰めていく。あの冷静なリシュでさえ、淡々と報告しながら、ザッハについてのタシュラルの意見を、ひどく憤っていたのがその瞳に伺えた。
 それは暴れたくもなる、と言ったのはイル・ハムーンだった。ラシッド、イル・ハムーン、ファノーク、の三部隊長は、独自の諜報員を抱えている。シャリスは三人が探っていれば十分だろう、と医療活動に専念し、ザッハは自分の部隊のことだけで精一杯だった。諜報活動については、みんなが示し合わせたわけではない。だが、タシュラルという毒を持っている限り、自分たちがいつその犠牲になるのか、わからなかった。キーファが国王軍の兵たちを守る義務があるというのと同じく、隊長たちもまた、各部隊の兵を守る義務があると考えている。そのことから自然に、部隊長達は自らの諜報員を持つことにしたのだ。それぞれのその存在を知ったとき、三人は苦笑いをした。
 その存在をキーファが黙認していることは、三人にとってとても複雑な心境だった。キーファさえ頼りにしてくれれば、彼らも独自の情報網を築く必要はなかったのだ。
 今回のことも、キーファは何も言わない。多分このまま、無視していくのだろうが――タシュラルはどう動くだろう。
 ラシッドはゆっくりと煙草を吸いながら、空を見ていた。
 何かきっかけさえあれば、きっとキーファは動くだろう。それは部隊長全員の確信に似た思いで、でも、そのきっかけとなる事柄が、きっとキーファを傷つけるだろうこともわかっていた。
 ただ、今ならリーフィウがいる。
 二人の関係を正確に把握しているものはきっといない。だが、イーザやシャリス、ザッハでさえ、キーファにはリーフィウが必要だと思っている。
 例えば、ラシッドにはシャリーアがいるように。
 ラシッドは先刻キーファに渡された証文を、懐から取り出して眺めた。そこには、シャリーアに関する権利を、全てラシッドに譲る旨が書かれていた。
 あの兄妹は、今はもう捕虜としての価値はないに等しい。ヤーミンはしばらく大人しくしているはずだし、ルクもカハラム支配下での国づくりが始まっている。
 ラシッドは皮の証文の肌触りを感じながら、そのキーファの見た目を裏切る美しい筆跡を睨むように見た。皮の証文は、重要書類の印だ。
 シャリーアは自分が引き受けるとしても、リーフィウはどうするつもりなのだろうとラシッドは思った。そして、彼らを手放すと言うのは、キーファはルクの復興を諦めたということだと思った。
 ルクの復興――。
 おかしなことだが、それを望んでいるのはキーファ王だとラシッドは思っていた。リーフィウから、王はリ語やルクの文化に明るいと聞いて、ずっと頭の中で引っかかっていたものが何かわかった。
 リーフィウたちを捕虜とすることに何時にない情熱を見せたその意味。
「……ルクを、諦めるつもりか」
 呟きは、風に流れるように室内に小さく響いた。キーファはすっと顔を上げて、ラシッドを見た。
「おかしなことを言う」
「そうか?」
「何を諦めると?」
 ラシッドは答えなかった。ルクはカハラム支配下にあり、キーファはカハラム王だ。諦めると言う言葉が相応しくないことはわかる。
 もし、キーファが王としての全ての権利を持っていたなら。
 キーファは大きな座布団に片肘を預けて、その手で頭を支えた。床に並んだ水甕が見える。
「コクスタッドに帰るならば、馬も兵も、金も出す。遠慮なく言うんだな」
 ふいに言われて、ラシッドは勢いよく振り返った。だが、見えたのはキーファの横顔だけだった。
「それは、帰れということか」
「……おまえはここに骨を埋める必要はないだろう」
 ラシッドはため息を吐いて、首を振った。少しばかり、空しくなってくる。
 覚悟を決め、それをキーファに言ったはずだった。それなのに。
「あまり、俺を怒らせるようなことを言うな」
「おまえはいつも怒ってるじゃないか」
「キーファ」
 咎めるような声に、キーファはラシッドを見た。
 キーファのずるいところだ、と部隊長達が言う目だった。
「俺は怒るのはいいが……哀しみたくはないんだ」
 そう言うことが、どれだけずるいことなのか、キーファは知っているのだろうか、とラシッドは思った。


 最近になって、キーファの部屋の前には毎晩部隊長の誰かが立っていた。それは王を守るためではなく――キーファを部屋に入れずにリーフィウの元に行かせるためだった。
 こういうことにも諦めやすい性格が反映されて、キーファは最初こそは無理にでも部屋に入ろうとしていたが、シャリスやラシッド、イル・ハムーンには口では勝てない。ファノークやザッハも脅しなどは効かないので、そうそうに諦めたのだ。
 だが、キーファは数日は女遊びに明け暮れていた。それでもいい加減時間が経つと、シャリスが迎えに来たりするので、キーファは逃げる努力を諦めた。
 それで仕方なく、キーファは夜遅くになってリーフィウの部屋に行く。リーフィウは寝ているときもあるが、ときどき起きて本を読んでいるときもあった。二人の間の会話のなさは相変わらずだが、イーザの強引な勧めもあって、キーファは朝食はリーフィウの部屋で取るようになった。リーフィウの食欲が違うのだ、とイーザが熱弁したのだ。
 するりとリーフィウが起きた気配がして、キーファは目を閉じたままその空気の動きを感じていた。厠にでも行くのかと思ったのだが、隣の部屋に浴室があるのに、扉を閉める音もしなければなかなか戻っても来ない。それで寝返りを打って部屋を見渡してみると、リーフィウは水甕の前に坐って、その水面を眺めていた。しばらく待ってみても、リーフィウは寝台に戻ってくる気配がない。白の季節となった今、夜は冷え込むことが多く、いくら火鉢に火が入っていても、寝間着でいたら身体が冷える。
 キーファはとうとう起き上がって、イーザが用意した肩掛けを持ってその後ろに歩いていった。
「風邪をひく」
 ふわりと暖かいものを肩に掛けられても、リーフィウは水面を見つめたままだった。
「眠れないのか」
 すっと水に浮かぶ花に伸ばしたリーフィウの手は、いやに白く見えた。薄暗い部屋の中で、ぼんやりと浮かび上がる。
 その指先が、そっとシュレの花を突いた。赤い花が、くるくると回る。
 キーファはどこかそのリーフィウに拒否されている感じがして、その後ろで立ち尽くしていた。やはり、自分が一緒に眠ると言うのはリーフィウには苦痛なのではないかと思った。
「匂いが……」
「え?」
「……それはクィナスの香油ですか?」
 ああ、とキーファは思わず自分の袖に鼻を押し付けた。合わせた肌から、女達の香油が移ったのだろう。だが、慣れた自分の鼻ではそれはわからなかった。
「きつかったか」
 リーフィウは何も言わずに、シュレの花を何度も指で突いている。キーファは困り果てて、どうしたものかと思った。
 馬鹿なことを言っている、とリーフィウは思った。
 自分が、これほど馬鹿なことを言うとは思わなかった。でも、その香を毎晩のように纏って来るキーファが直前にしていたことは、ときには女たちの紅がその肌についているときもあって、容易に想像できた。
 それに何も言うことは出来ないと、わかっているのだけれど。
 ただ、その香を気にし出したら、堪らなくなった。どこか腹立たしさと苛立ちと、その上哀しくまでなって、眠れなかった。
 少しだけ、その広い背中に近づきたかった。でも、その香りがリーフィウを阻んだ。
 キーファは黙ったままのリーフィウになす術はなく、考えて考えて、湯を浴びにいくことにした。女を抱いた後、その身体を拭いてくれるのだが、それでは匂いは落ちなかったのだろう。
「湯を浴びてくる。身体が冷えるから、寝台に行け」
 口調は命令しているようででも、懇願しているようだった。リーフィウはようやく顔を上げて、こくりと頷いた。
 真夜中の湯浴みを済ませたキーファは、寝台に丸くなって眠っているリーフィウを見て、ほっとした。先刻は、どうしたらいいのか本当にわからなかった。
 まだ暖かいままで布団にもぐり込むと、リーフィウの額と手がその背中に触れたのがわかった。
「キーファ王の匂い……」
 寝言なのか呟きなのかわからない言葉が、その口から零れ落ちた。


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