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遠景涙恋
第十章 花眠歌


05
 目が覚めたときには、隣の温もりがなくなっているのはいつもと変わらなかった。その右側の辺りをそっと撫でて、リーフィウは小さく微笑んだ。ほんのりとまだ、温かい気がする。
 起き上がると、いつのまにか来ていたイーザが、支度を手伝ってくれた。
「ごめんなさい、こっちにまで来てもらって」
「何をおっしゃってるんですか?私はリーフィウ様つきの侍女ですから、当たり前です」
 リーフィウを飾り立てるという楽しい仕事を、他人には任せたくない。イーザはそう笑った。
「朝食は……戻るのかな。王はもう食べてしまっているよね」
 残念そうな呟きに、イーザはリーフィウの髪を梳きながら先刻通った部屋の様子を思い出してみた。まだ、朝食は準備をしているところだったはずだ。
「少しお待ちください」
 イーザはそう言って、リーフィウを置いて隣の部屋に入っていった。首都の王宮はとても広く、王の部屋もいくつもある。寝室だけでも無駄なくらい広いが、隣に食事などをする居間、その隣は執務室があるらしい。キーファは調度品をあまり置かないから、ただでさえ広い部屋が一層広く見えるのだった。
 ぱたりと扉を静かに閉めて戻って来たイーザは、リーフィウを立てせて全身を検分した。それから自分の仕事に満足したのかにっこりと笑い、では朝食の準備が整ったようですので、と言った。
「え……?」
「朝食は、リーフィウ様がご希望でしたら、ご一緒なさるそうです」
 実際は、イーザがこちらで食べてもいいでしょうか、と聞いたことに対して、好きにしろ、とキーファが答えただけだったのだが。主人の言葉不足を補うのも侍女の役目だろう、とイーザは勝手に思っていた。
 さらりと、少し伸びた髪をもう一度梳いて貰って、リーフィウは隣の部屋に向かった。そこにキーファは既に坐って、お茶を飲んでいた。立ち働く侍女はたくさんいたが、やはり一人で食べている。
 リーフィウはそっとその斜め前に用意された場所に坐った。給仕は全てイーザがしてくれて、リーフィウはいつもと変わらない朝食を取る。
 だが、今日はキーファがいる。
 二人は黙したまま朝食を取っていたが、リーフィウにはそれだけで十分だった。
 キーファは宴の様子などを見ていると粗野な印象が強いが、実際はとても優雅に朝食を食べていた。お茶を飲む姿も、パンを食べる姿も、きちんとしている。
 でも、とリーフィウは一度、ハカ酒を飲んだときのことを思い出した。橙の汁を絞って、指でぐるりと掻き回して飲んだあれは、結構美味しかった。
 朝食を食べている間に、兵が何人か入ってきた。今日の予定や、国王軍の訓練状況などを淀みなく報告する。それに、キーファは鷹揚に頷いたり、確認をしたり、訂正をいれたりする。
 そんな中で、キーファはザッハのことも見ているのだ。自分のことまで見ていられないだろう、とリーフィウは思った。
 だが。
 朝食も終わると言う頃になって、キーファがふとリーフィウを見た。キーファほど食べないリーフィウは、その頃にはすっかりお茶を飲んでほっとし始めていた。
「もしまだその気があるなら――いつものところでザッハを見ている。来るといい」
 キーファはそう言って、立ち上がった。
 リーフィウは驚いた顔をしたまま、何も答えられなかった。
 だから、ありがとうございます、と呟いた声は、歩き出したキーファには届いていなかった。


「でも、それで剣を握るのは駄目です」
 鋭い声がして、リーフィウは中庭に向かっていた足を速めた。部屋の外を出るときは、必ず誰かと一緒に行動しなければならないが、今日はハリーファが一緒だった。だから、少し走ったくらいでは問題ないとリーフィウはわかっていた。あれはシャリスの声だ。
「大したことはない」
「それならお見せください。私が見た上で判断します」
 あの小石の敷き詰められた庭に行くと、何やらシャリスがキーファに詰め寄っていた。隣でザッハは、呆れた顔をしている。
「あ、リーフィウ殿」
 こんにちは、といっそ長閑な挨拶をして、ザッハが笑う。左目に布を巻いたままだが、それにもだんだん違和感がなくなってきていた。
 シャリスとキーファは、リーフィウが来たことなど気付かないのか、まだ言い争いをしている。
「どうしたのですか」
「うーん。キーファ王、昨日掌に怪我したらしくて。シャリスが剣を握るなら怪我の様子を見せろって言ってるんですが、王が必要ないって……今日はいつにもまして頑固ですね。シャリスに手も触れさせない」
 あーあ、とでも言いたそうなため息を吐いて、ザッハは二人を見た。リーフィウも気になってキーファの手を見た。
 あれは、昨日のままだ。
 そう思って、リーフィウは二人に近寄った。
「おはようございます、シャリス様」
 挨拶をして初めて気付いたのか、シャリスがキーファに見せていたのとは正反対の、柔らかい顔で返事をする。
「おはようございます、リーフィウ殿。お身体の調子はどうですか?今日あたり検診に行こうかと思っていたんですが……ああ、昨晩は少しは眠れたようですね。顔色がいつもより良い」
 そうにっこり笑われて、リーフィウは「はい」と顔を伏せた。どことなく、恥かしくなって。
 でも、その伏せた先に不器用に包帯が巻かれたキーファの手が見えて、慌てて顔を上げた。
「キーファ王、シャリス様にまだ怪我は見せていらっしゃらないのですね?」
 そう言うと、キーファは視線を逸らした。
「私の手当てでは不安だからシャリス様にお見せくださいとお願いしたのに……」
 その呟きに答えたのはシャリスだった。
「ああ、こちらはリーフィウ殿が……?」
「はい。見よう見真似ですから、きちんと出来ていなくてお恥ずかしいのですが……でも、昨晩は少し陶器の破片も入っていたのです。ですから、少し心配で」
 そう言うと、シャリスは頷いた。だが、何故か満面の笑みを浮かべている。あの柔らかい笑みと言うより、もっと可笑しくて堪らないというような顔だった。
「それは確かに心配ですね。わかりました。キーファ王、リーフィウ殿に手伝って頂きますから、どうかそちらをお見せください。リーフィウ殿、最後に包帯を巻いていただけますか?」
「え?でも、私など慣れていませんから……」
「大丈夫です。こちらも随分丁寧に巻かれていますし。それに、それで治療が出来ます」
 自身満々でそう言ったシャリスに、リーフィウは首を傾げたが、とにかくキーファにはきちんと治療して欲しかったので、わかりました、と頷いた。
「さあ、これでどうですか?」
 シャリスがそうキーファの手を取ると、今度は大人しくキーファはされるがままになっていた。でも、顔は背けたままで、表情はどこか怒っているような感じだ。
 全くキーファ王は可愛い。
 シャリスは一人、くすくす笑いたくなるのを我慢していた。だが、先刻の会話から、柱に隠れているハリーファなども大体の事情を察したに違いなく、影で思わず微笑んでいることだろう。
「シャリス」
 俯いた顔が笑っていることに気付いて、キーファが不機嫌な声を出す。だが、そんなことをすれば余計に笑みが深くなるだけだ。
「はい、破片もどうやら綺麗に取られているようですね。化膿もしていませんし、すぐに治るでしょう。リーフィウ殿の手当てのおかげです」
 シャリスの言葉に、リーフィウはほっとしていた。その掌にシャリスが薬を塗って、リーフィウに包帯を渡した。そして、どうしたら緩まないように巻けるかを教わりながら、リーフィウはそれをまた巻き直した。やはりコツがあるのだと、感心する。
「リーフィウ殿さえ良ければ、こういうことでしたらいくらでもお教えしますよ」
 リーフィウが楽しそうにしていたのでシャリスがそう言うと、リーフィウの顔がぱっと明るく輝いた。
「え、いいのでしょうか」
「ええ、構いませんよ。どうせウチの兵たちにも色々教えますから」
 リーフィウはその提案に、心躍らせた。剣を扱うことも必要だと思ったが、この方が色々役に立ちそうだと思ったのだ。
 それに、キーファの怪我にこうして包帯を巻くことは楽しかった。
 相手は怪我をしているのだから不謹慎だと思いつつも。
「……そうしたら、キーファ王の手当てはリーフィウ殿にお任せできますね」
 シャリスはにっこりとキーファに笑いかけた。王は未だに、不機嫌な顔をしたままだ。リーフィウはそれにはっと気付いて、その表情から笑みを消した。
 キーファはリーフィウとの接触を避けていたはずだ。それが昨晩から勝手に触って、怒っているのかもしれない、と思った。
「私などにはとても……」
「何を言ってるんですか。リーフィウ殿が嫌ではなかったら、本当にお任せしたいくらいです」
 何しろ、シャリスたちが手当てをするときは、すぐに「平気」だの「大丈夫」だのと言って済ませてしまおうとするし、ようやく薬を塗ったかと思えば、包帯はいらないだとか、大げさすぎるとか、邪魔だとか、色々煩いのだ。だからこそ、シャリス以外には治療が出来ないのだ。下の兵たちでは、キーファが脅すように「もういい」と言えば、従うしかない。それが、先刻リーフィウが包帯を巻いていたときは、何も言わなかった。
 リーフィウはシャリスの言葉に、ちらりとキーファを見た。
「私は構いませんが……でも……」
「キーファ王のことなら平気です。怖い顔してますけど、怒ってるわけではありませんし」
 ぎろり、とキーファがシャリスを睨む。だが、シャリスはそんなことぐらいでは怯むことはなかった。
 でも、とリーフィウが何度もちらちらと自分を見るので、キーファは仕方なく、視線を合わせないまま「好きにしろ」と吐き捨てるように言った。それから、そのまま近くに置いた剣を持つ。
「始めるぞ」
 キーファがザッハに向かってそう言うと、リーフィウははっとした。自分もここには教わりに来ているとすっかり忘れていた。
 キーファはちらりとリーフィウを見ると、準備運動をしておけ、と言った。それから、柱に隠れていたハリーファにすっと視線を流す。それにハリーファが頷いて、リーフィウはハリーファに身体を解すための運動を教わった。
 ハリーファの逞しくしなやかに動く腕を見て、リーフィウは知らずため息をついた。ザッハも、ラシッドやキーファのように頑丈な印象はないのだが、しっかりと身体は作られている。それに比べて自分は、なんてひ弱な身体なのだろう。日に焼けずに白いのは仕方がないにしても、この女のように細い腕はなんなのだろう。
 じっと自分の腕を見て暗い顔をしているリーフィウに気付いて、ハリーファは小さく微笑んだ。
「リーフィウ様?」
「ああ、ごめんなさい。なんだかあまりに貧弱だなと……」
「お気になさらない方がいいですよ」
 でも、とリーフィウはまたハリーファの腕を見てため息をついた。
「……剣を振っていれば、いやでも筋肉はつきます。それに、リーフィウ様はお身体が柔らかい。それは利点ですよ」
 身体が柔らかいのは、本格的とまではいかなくとも舞踊をしていたからだ。それを言うならば、キーファなどかなり自由に身体を動かしている風に見える。
「さあ、そろそろ準備運動は終わりです。申し訳ありませんが、しばらくは私のお相手と言うことでお許しください」
 キーファは相変わらず、両目を隠したザッハと打ち合いをしている。ザッハは随分と勘を覚えたようで、キーファの動きが以前よりも激しくなっていた。
 いつか、少しでも。
 キーファに追いつくだろうか。
 リーフィウはそう思いながら、ハリーファに「よろしくお願いします」と頭を下げた。


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