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モドル 10-05 01 * 03
遠景涙恋
第十一章 密約
02
それからも、キーファは相変わらず女を抱いてからリーフィウの部屋に来ることが多かった。だが、必ず湯浴みをしてくるようになった。だから、リーフィウはそれ以上はなにも言わなかった。
何も、言えなかった。
そっと額を預けて眠るのは癖のようになってしまって、傍らにその温もりが潜り込んでくると、リーフィウはほんの少しだけ擦り寄る。それはもう無意識のようなもので、リーフィウ自身、毎日のようにそうして擦り寄ることを自覚していなかった。
そして、キーファは頑なに背を向け続けた。
その日の夕食を、リーフィウはラシッドと取ることになっていた。だが、キーファ王と一緒に食べてください、と言われて、リーフィウはキーファの部屋に出向くことになった。以前、リーフィウがキーファが一人で夕食を取っていることを気にかけていたのを、ラシッドは利用したのだった。キーファのために、そしてもちろん、自分はシャリーアと食事をするために。
リーフィウの名を出すと、キーファは面白いほど何も言わなくなる。ラシッドはリーフィウを送り届けながら、その傍らでこっそりと笑った。今回も、最初はリーフィウと一緒に食べたらどうか、と勧めていただけだったのだが、必要ないとかラシッドたちが一緒にいれば十分だろうとか言ってなかなか頷かなかった。そこで仕方なく、リーフィウが一緒に食べたいと言っている、とリーフィウの呟きをかなり曲解して伝えたのだが、その一言で文句は出なくなった。
まったく、手間がかかるというか、からかい甲斐があると言うか。
それに、と隣を歩くリーフィウをちらりとラシッドは見た。
キーファと一緒に、と言ったとき、確かに嬉しそうな顔をした気がしたのだ。とても柔らかい笑みのようなものを浮かべて、少し気恥ずかしそうに。
リーフィウはすっかりラシッドも一緒に食べるものだと思っているようだが、もちろんラシッドには邪魔をする気はなかった。それに、今日はお姫さまと食べると約束した。そう言う約束を破った後に、お姫さまの機嫌を取るのは大変なのだ。
「それではリーフィウ殿、私は他の約束がありますので」
だからそう言ってラシッドがキーファの部屋の前で踵を返したとき、リーフィウは呆然としていた。届けるまでが仕事なので、部屋の扉は開いている。だが、リーフィウは突然放り出されたような気がして、そこに入るのを躊躇ってしまった。
「リーフィウ様?お食事の用意は出来ましたので、どうぞ」
侍女にそうにっこりと言われてようやく、リーフィウは部屋に入った。侍女たちは、この間のリーフィウとキーファの様子を見ていて、すっかりリーフィウに対して親しみを覚えていた。いつもいつも、暴れるキーファを宥めるのにひどく苦労するのだ。大概は投げるものがなくなるまでそれは続けられ、片付け終わった頃にはみんなぐったりしてしまう。その上、キーファの暗い顔を見ると、どこかやり切れないような思いを抱くのだ。
それが、先日はリーフィウのおかげで騒ぎは途中で止まり、キーファはあの暗く、見ている方の胸を衝くような顔をしなかった。それだけで、侍女たちには十分だった。
リーフィウが部屋に入っていくと、キーファは読んでいた本から顔を上げた。侍女が言ったとおり、食事の用意はすっかりできている。
「すみません。お待たせしたようですね」
リーフィウの言葉には答えずに、キーファは視線で坐るように促した。
食卓には、二人では食べ切れなさそうなほどの量の皿が並んでいる。そして、キーファはやはり、酒を飲んでいた。
二人でいても、会話が弾むわけではない。だが、ときどき二言三言言葉が交わされ、ときには笑うこともあった。声を立てるほどではない、静かなものだったが、それは気詰まりや淋しさというより、穏やかな時間だった。
それから、リーフィウはしばしばキーファのもとに夕食を食べに行くようになった。だが、最初の日から一日も、リーフィウがそこに留まることはなかった。夕食の後は、必ず自分の部屋に戻ることになるのだ。キーファが、どこかに行くために。
それがどこであるのか、リーフィウにもわかっていた。一度は、着飾った可愛らしい女が、キーファを迎えに来たこともあった。
「お食事中でしたのですね……申し訳ありません。キーファ王、今宵は踊りを見ていただくお約束でしたでしょう?」
女はとても優雅にお辞儀をしながら、にっこりと笑った。キーファはそれに頷いて、わかっている、と答えた。
「お食事中、本当に申し訳ありません」
女は美しかった。華やかで、その上、上品さもあった。キーファの饗宴の様子は数度しか見たことがないが、とても一緒にそんなことをするようには見えなかった。そのときの女達とは違うのかもしれないが、キーファが食事の後、自分部屋に来るまでその女たちと過ごしているのは確かだ。あの、甘いクィナスの匂いがした。
ふっとその姿を扉の向こうにまで追ってから、キーファはすっかり食べ終わっていて、自分を待っているだけなのだとリーフィウは気付いた。
「――申し訳ありません」
リーフィウが箸を置くと、キーファが自分の杯に酒を注いだ。
「気にするな。急かしに来たわけじゃない。俺が行くのか確認に来ただけだ」
そして、それにキーファは行くと答えた。
リーフィウは目を伏せて、小さく首を振った。
「私にも、頂けますか」
リーフィウが杯を持つと、キーファ自らそれに酒を注いでくれた。それをこくこくとほとんど息もつかずに飲むと、リーフィウはふっと息を吐き出して、ごちそうさまでした、と頭を下げた。そして、何か言いたそうな顔をしたキーファを見ないまま、足早に部屋を出た。
そのときのことを思い出しながら、この苦しさを、どうしたらいいだろう、とリーフィウは思った。夜がすっかり更けてから部屋に来るキーファを待ちながら、リーフィウは眠れずにいた。そっと、右手を伸ばしてキーファが眠るはずの場所を撫でる。
キーファ王、と呟いた声は、誰にも届かぬまま、闇にそっと溶けていった。
一緒に過ごす時間が増えても、二人の間の空気は変わらなかった。周りの人間は、それを呆れ半分、心配半分に見ている。どれだけ近付けても、二人が自ら歩み寄ろうとしなければ後はもう、どうにもできない。
その日も二人は夕食を共にしていた。漂う雰囲気は穏やかなもので、やきもきしている国王軍の隊長たちに比べれば、侍女たちはまずまず満足している。いつもは本当に味気ない風景の食事で、ときには機嫌の悪い王に緊張して給仕をすることもあったからだ。
「嫌いなのか?」
ふいにキーファに聞かれて、リーフィウがどこか真剣に見ていた皿の上から顔を上げた。生野菜を取ったのはいいが、きゅうりが入っていてどうしようかと悩んでいたところだった。どうやらそっときゅうりを避けたところを、見ていたらしい。
「……苦手です」
ばつが悪くてそう呟くと、キーファが微かに笑った。嫌いなものを避けるなんて子供じみていると自分でも思うが、あの水臭さがどうしても好きになれない。
「でも、キーファ王だって苦瓜は苦手でしょう?」
キーファの好き嫌いは、もっと子供っぽい。薬や苦瓜など、苦いものが嫌いなのだ。そう言う子供っぽいところは侍女たちの微笑を誘うのだが、だから本当はあまり食事には出てこない。ただ、ルクの料理の一つにそう言った料理があるために、最近になって食卓に上るようになったのだ。それに箸をつけないことを、リーフィウは気付いてた。
「……あれは、苦いだろう」
思わずそう顔を顰めたキーファに、リーフィウの笑みが誘われた。傍に控えていた侍女もまた、内心笑いを堪えていた。
「苦いのが美味しいのです」
勝ち誇ったように言うリーフィウにも、侍女たちは笑みが隠せない。
「酒が苦いのは構わないんだが」
「キーファ王……そんなところだけ大人でも」
リーフィウの言い草に、とうとう侍女は堪えきれずに顔を背けて下を向いた。肩が震えてしまうのは、許して欲しいと思う。遠くで控える侍女たちもまた、同じように下を向いて肩を震わせていた。
キーファは黙ってしまい、リーフィウは言い過ぎたかとちらちらとその顔を見るしかなかった。でも、キーファの顔は怒っているというより拗ねているように見えた。
どうしようかと思いながら見た皿の中には、そしてきゅうりが待っていた。ああ言ってしまった手前、今更これを避けるのもどうかとリーフィウは思った。知らず、眉根がきゅっと寄る。
「どうして嫌いなんだ?」
それをしばらく見ていたキーファが声をかけて来て、リーフィウはどこかほっとしながら顔を上げた。
「水っぽいでしょう?」
「ああ……だが、同じような果物は平気じゃないか」
「果物は味がありますから」
そんなものか、とぱくりとキーファがきゅうりを食べる。リーフィウはそれを恨めしそうに見た。
「食べたくないなら食べなければいいだろう」
キーファが僅かに微笑みながら言う。だが、小さい頃からこう言った好き嫌いをすることを怒られて来たリーフィウは、完全に避けきることが出来ない。
「それなら、味をつけたらどうだ」
キーファにそう言って渡されたのはカハラムで良く使う調味料の一つで、料理中に使うこともあれば食事中に使うこともある甘辛いものだった。それを試してみよう、とどこか硬い表情をしたまま決心して頷いたリーフィウに、キーファは笑みを深くした。
負けず嫌いなのは、気付いていた。剣の稽古をつけているときも、その面が良く現れて、だから上達も早い。
そのたれをたっぷりつけて、リーフィウはきゅうりを口に含んだ。あれではきゅうりの味も何もないとキーファは思ったが、真剣なリーフィウに何も言わなかった。
「どうだ?」
「……わかりません。でも食べられる……気がします」
そこまで無理をしなくても、とキーファは思ったが、リーフィウは他の野菜と一緒にそのたれをつけてはきゅうりを食べた。
「キーファ王も、次には苦瓜を食べてみてくださいね」
すっかり得意顔のリーフィウに、キーファは顔を顰めた。
「……苦くない方法を考えたらな」
あれは苦いのが美味しいのに、とリーフィウは笑う。でも、苦瓜はどちらでもいいが、薬は飲んで欲しい、とリーフィウは思っていた。シャリスがいつも苦労しているのを知っているのだ。
すっかりどこかくだけた雰囲気が流れた部屋に、慌しい音が響いたのは食事も半ばになった頃だった。いつもなら食事も終わっているような時間だったが、キーファはリーフィウがいると、ゆっくりと食事をする。
ばたばたと言うより、兵たちの靴を思わせる硬い音がして、キーファは顔を上げて厳しい顔で扉を見つめた。片手は、腰に指してある剣の柄に添えられていた。
すっと漂った緊張感に、リーフィウも身体を硬くした。見つめた先の扉が叩かれ、国王軍の兵が名を告げた。キーファが頷いて、近くに立っていた兵が扉を開けると、かなり厳しい顔をした兵が二人、入ってきた。真っ青な顔をしていて、リーフィウも侍女たちも、思わず彼らを見つめた。
「どうした」
「ご報告いたします。……皇太后様が、ご逝去なされました」
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