home  モドル 11-06 * 12-02


遠景涙恋
第十二章 送舟


01
 イル・ハムーンたちが審議を受けていたその日、リーフィウは出歩くなと言うキーファの言い付けを守って、王の部屋にいた。どの道、午前中は動くことなど出来なかったのだが。それでも素直に従ったのは、何か良くないことが起こっていると、宮殿内が緊張に満ちていることでわかっていたからだ。
 夕食の時間になって、朝別れて以来初めてキーファが自室に顔を出した。居間で大人しく本を読んでいたリーフィウは、キーファが部屋に入ってきたのを見て、勢い良く立ち上がった。それから、ぱたぱたとその傍まで行くと、その顔を見上げた。
 ああやっぱり、と思って、その頬に白く華奢な手を伸ばす。キーファは驚いて立ち尽くしていたが、その手に頬を包まれると、すっと一瞬目を閉じた。
「どうした」
 そっとその手を持って外しながら目を開けると、リーフィウの心配そうな目にぶつかった。
「ずいぶんお疲れのようですね……顔色がとても悪い」
 朝から心配だったのです、とリーフィウは言った。それにふっと小さくキーファは笑って、食事にしようと促した。
 まだだ。まだ、戦いは終わっていない。今までになくきつい戦いであったが、キーファはしくじるつもりはなかった。そのためには、油断ならないことがたくさんあった。だが、この優しい青年の前では、つい甘えたくなってしまう。
 そして、この存在があるからこそ、今自分は戦えているのだ、と思う。
 食事の間は、決していつものように静かではなかった。慌しく、兵たちが出入りして、キーファに色々な報告をしていた。
 その中で頻繁に出てきたのが、大臣達の名前だった。続いて、自害、逃亡の言葉が繰り返されて、リーフィウは事の大きさに箸を置いてしまっていた。
 それにキーファが気付いたのは、報告の嵐がしばし途切れたときだった。そして自分も箸を置くと、いつもよりずっと少ない量しか飲んでいなかった酒をこくりと飲んだ。
「混乱させたか?……聞きたいことがあったら、答えられる範囲で答えるが」
 はっとリーフィウがキーファを見た。聞きたいことは、色々ある。だが、聞けることではないと思ったのだ。
「状況が全くわからないので……」
「ああ。簡単に言えば、皇太后の死にタシュラルが関わっていることがわかって、審議したところ……タシュラルは自害した」
 侍女たちが顔を見合わせた。リーフィウも、驚いて目を大きく見開いた。
「それを知ったタシュラルの権力下にいた人間達が、今は逃げているところだ。だが、状況はそれほどいいわけじゃない。逃げるのを追うつもりはないが……二、三日中にでもラ・フターハが攻め込んでくる可能性がある」
 侍女たちが、ひどく不安な顔をしていた。リーフィウの傍に仕えているイーザの表情もひどく硬いものだった。
 内乱とまでは行かないにしても、政治の中枢部がかなり混乱していることには違いない。侍女たちの中にも、もちろんタシュラルの権力を頼りに王宮に入ってきたものもいたはずだった。
「おまえたちは、明日の朝早いうちに城下に下りろ。しばらく実家に身を寄せてもいい。帰る場所のないものは、シャリスに今夜中に言っておけ。どこか見つける」
 それからふと、キーファはリーフィウを見た。それに気付いて、リーフィウはその口が再び開く前に、「嫌です」と言った。
「リーフィウ……」
「と言いたいところなのですけれど……お邪魔にしかならないのでしょうから、大人しく言うことを聞いておきます」
 淋しそうにそう笑ったリーフィウに、キーファは小さく吐息を零した。きゅっと噛み締められた唇に、指を伸ばす。
「ラ・フターハの軍と小競り合いはあるだろう。だが、いまやカハラム軍も統制を失っている。ラ・フターハさえ押さえられれば……それほど時間はかからない」
 その辺りは親子だとファノークなど笑っていた。権力でしか人を繋ぎ止めて置けない。さらに、ラ・フターハなどは親の権力の下にいるのだから、配下の兵たちが躊躇いもなく離れていくのは自然なことだった。さすがに、幹部達は逃げ出し、ラ・フターハに合流するようだったが。
 現状を見れば、なぜあれほど自分はタシュラルを恐れ、全てを諦めていたのだろうと思う。だが、これは決して簡単なことではないのだとわかっている。
 タシュラルは、完璧に排除できなければ意味がない。それを失敗すれば、二度目はなかった。皇太后の暗殺、王家軍への反逆、そしてそれら全ての証人と物証――タシュラルを追い詰めるには、十分だった。その上、カハラム軍を率いるラ・フターハは首都カラムにはいなかった。
 自分は、それら全て用意された舞台に乗っただけだ、とわかっている。そして、その幕を引く役目こそが、自分に与えられたものだと。
「キーファ王?」
 ふいに黙り込んだキーファを心配して、リーフィウがその顔を覗き込んだ。斜め前に坐っているリーフィウの目が急に近くなる。
 その心配そうな瞳に、キーファはきつい目を僅かに緩めた。この青年は、いつでも自分のことより他人を心配する。それも、こうしてただそっと。
 その頬をすっと指でなぞると、リーフィウは切なげに目を細めた。
 大丈夫だ、と思う。
 きっと、自分はこの戦に勝つ。勝ってみせる。そして、進んでみせる。
 キーファはイーザにリーフィウのことを頼むと、立ち上がった。まだまだ夜は、長かった。


 その夜、二人は別れを惜しむように抱き合った。だが、翌日馬に乗っての移動が待っているリーフィウの身体をキーファは気遣って、体力を消耗させるようなことはしなかった。
 触れ合うことで何かを確認しているのは、二人共々同じだった。だが、それで何か解決するわけではない。ただ不安で、怖い。
 何を怖がっているのかと聞かれても、答えられない。触れ合っていれば、その何かわからないものが遠のくということだけしか。
 予感なのかもしれない、とリーフィウは思う。柔らかくその腕の中に抱きながら、その逞しい背に腕を回して抱かれながら、でも、このままではいられないことを二人はわかっているのかも知れなかった。
 だから、今しかない幸せを貪るように、甘い時間を欲している。
「何を考えている」
 ふとキーファの声が降ってきて、リーフィウは顔を上げた。まどろみの中に落ちる寸前のぼんやりとした瞳が、どこか泣きそうに揺れた。
「何も……」
 答えて胸に顔を埋めたリーフィウを、キーファが更に強く抱き締めた。
 タシュラルは死んだ。今この時を乗り越えて、自分がしっかりと実権を握れば、もうリーフィウたちを閉じ込めておく必要もない。彼らのヤーミンに対する役割は、あの二度目の戦いでほぼ失われていたのだから。シャリーアの行方は、決まった。では、リーフィウは――。
 まるで眠っているかのように、静かな時間が流れた。だが、二人の目はまだ閉じられていなかった。明かり取りの火だけが時おり、油を燃やす音を立てる。
 ふいに寒さを感じたリーフィウが、身を縮めたときだった。キーファが急にがばりと起き上がって、扉を見た。
「キーファ王?」
「悲鳴が聞こえた。ハリーファ」
 緊張に満ちた声に、すっと扉が開いた。ハリーファは頷くと、様子を見てきます、と言った。キーファは立ち上がって、ズボンを穿いた。リーフィウもそれに倣って服を着た。ひどく緊迫した空気が流れていて、言葉を発することができなかった。
 その様子に、キーファが何か言おうと口を開きかけたときだった。ばたんっと部屋の扉が開いた音がした。同時にばたばたと複数の人間が走る音がして、キーファは腰の両脇に剣を指すと、リーフィウにここにいるように言って、寝室から飛び出した。はっとして扉に向かったリーフィウの目の前で、ばたんっと扉が閉まる。それからすぐに、激しい金属音が響いた。
 リーフィウは身を翻すと、どこかに短剣はないかと探した。近くの円卓の上に、果物用の小さなナイフを見つけて、それを手に取った。威力がない分、確実に目標に突き刺さなければならないが、何もないよりは良かった。それを右手に隠すように持つ。そして、ハリーファに教わったとおり、呼吸を一定にして集中力を高めた。
 ばんっと扉が開いたとき、その真横にいたリーフィウは、瞬時にそれがキーファではないことを見て取ると、その首に果物ナイフを投げた。大柄な男は、うっと唸って、ばたりとその場に倒れた。苦しんだ様子がないことに眉根を寄せたリーフィウは、すぐにその背にも短剣が刺さっているのがわかった。それが心臓を一突きしている。
 はっとしていつも食事などをしている部屋を見ると、キーファが五人ほどの人間を相手に戦っていた。床には、既に事切れた人間が同じくらい転がっている。
 鬼神――。
 まさにその名に相応しい、戦いだった。この狭い部屋であの人数と戦い、短時間で半分ほどの敵を倒している。だが、もちろんキーファもぼろぼろだった。上半身は上着が切られてぼろぼろだったし、いくつか血筋が見える。足も、切れた布をひらひらと纏っている。
「イスファ!ハリーファ、いないのかっ」
 紙一重で剣を交わし、応戦しながらキーファが叫んだ。だが、それに返事はなかった。
「呼んでも無駄だ。あなたの間諜どもには、他の相手がいる……もちろん、国王軍にもな」
 キィンと剣がなって、キーファと一人の大柄な兵士が対峙した。キーファはそれをすぐに跳ね返し、横から襲ってくる剣を片手で受け止める。
「さすがだな、鬼神、キーファ王」
 男たちは誰もが黒い布を顔に纏って、目だけを出していた。だが、キーファにはそれだけでも、目の前の人物が誰であるのか知るには十分だった。
「サルタージ……」
 戻っていたのか、と声に出さずにキーファは内心で舌打ちをした。ルク島で副司令官をしていたはずが、いつのまにかカラムまで来ていたのだ。彼は戦術に疎いラ・フターハを常に助けてきた男で、剣の腕にも定評があった。この奇襲を考えたのも、この男に違いなかった。
 油断をした、とキーファは悔しさに叫びそうだった。ラ・フターハが帰ってくるまで、彼らは力も兵も温存するだろうと考えていた。
 キーファは両手別々に、敵の剣を受けている。その目の前に立つサルタージには、いつでもキーファを刺すことができる。だから、笑っていた。
「この人数で襲ったにもかかわらず、未だに倒れないとは驚いたよ。少し甘く見すぎたようだ」
 ひゅっと音がして、サルタージの剣が振り下ろされた。キーファはその場でくるりと後ろに宙を舞って、その剣を避けた。だが、敵は三人だけではない。
「キーファ王っ!」
 キーファの後ろに回った男が、宙から降りてくるキーファを待っていた。宙に浮いている状態では、避けることはできない。リーフィウは隣で死んだ男の背から短剣を抜き取って、それを素早く投げた。
 キーファは前のめりに倒れていくその男を踏み台にして、更に後ろに飛んだ。急に距離が近くなったリーフィウは、そのキーファの傷に息を飲んだ。背はほとんどかすり傷ばかりだが、足からは血が流れ出ていた。
 リーフィウは隣の男から再び果物ナイフを首から抜いて手に持った。
「とんだ伏兵だ。ルク王子は武術は一切駄目だと聞いたが」
 サルタージの言葉に、リーフィウはきっとその相手を睨んだ。だが実際、リーフィウは武術はほとんど出来ない。その中で、ナイフ投げだけは得意だった。
 この一本。一度で決めなくてはならない。リーフィウは極度の緊張の中で、だが冷静にその機会を狙っていた。斜め右横にいるリーフィウの気配を、キーファが感じていないはずがない。真ん中にキーファがいるために、リーフィウは右の敵を狙うしかなかった。
 仕掛けたのは、敵の二人だった。リーフィウは右の男が動いた瞬間、ナイフを投げた。横からでは、心臓は狙えない。左手を狙っても意味がなく、リーフィウは首を狙った。頭部より躱されにくい首は、だが狙いが狭くなる。それでもリーフィウのナイフは真っ直ぐに飛んでいき、男の首に刺さった。男はぴたりと動きを止めて、そのままうっとくぐもった声を上げて、崩れた。だが、果物ナイフとリーフィウの力のなさが災いとなって、その男はふらふらと立ち上がって、死人のような顔で再びキーファに襲い掛かった。リーフィウが悲鳴のような声を上げた。
「キーファ王っ」
 キーファは完全に、左の男と目の前のサルタージだけを相手にしていた。右の男が再び立ち上がるのは、予想外だった。
 切られるのは避けられそうになかった。だから背中でその剣を受ける覚悟をしたそのとき、すっと自分の隣に入り込んだ影をキーファは視界の隅で捉えた。
「リーフィウ!」
 隣でゆっくりと倒れていったのは、リーフィウだった。その背が、みるみる赤く染まっていった。
「うあぁぁぁ」
 瞬時、キーファの咆哮が、宮殿に響いた。


home モドル 11-06 * 12-02