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遠景涙恋
第十二章 送舟


02
 血塗られたキーファの左足は、もうほとんど感覚がなかった。多人数を相手にしたせいで、態と剣を受け止めるしかない場面があったのだ。
 だが、キーファはそれさえも関係ないというように、目の前の二人に次々と襲い掛かった。それこそ、鬼神と呼ばれるに相応しい、獰猛さと鋭利さを持って。
 剣を交える間もなく、二人の男は恐怖に目を見開いたまま、ゆっくりと倒れていった。
 キーファは何度か荒い息を吐いた。自分でも状況がわかっていないような、一種呆然とした表情をしていたが、すぐにはっと気付いて、リーフィウの元に駆け寄った。
「リーフィウ、リーフィウ!」
 ぐったりとしてはいるが、まだ呼吸をしていた。だが、呼びかけても反応はない。
「シャリスッ。シャリスを呼べ!」
 その叫びに走りこんできたのは、ハリーファとイスファだった。近場で襲われた二人は、上手く合流して二人で戦ったために、なんとか包囲網を抜けたのだ。
 二人はすぐにシャリスの下に向かった。この騒ぎに国王軍の隊長たちが駆けつけてこないのは、同じ目に遭っているからだとすぐに想像できた。
 幸いだったのは、最近の騒ぎのために隊長たちはみな宮殿内に留まっていたことだ。でも、だからこそサルタージも襲い掛かったともいえる。相手を倒しさえすれば、すぐに合流できるからだ。
 どんっと音がして、二人が走っていた廊下に男が一人飛ばされてきた。それが敵だと見たハリーファは、すぐにその男に襲い掛かる。その間、イスファは部屋の中に入って、応戦した。
 すぐに目に入ってきたのは二人の兵とラシッドの姿だった。サルタージの目的はあくまでもキーファの首で、国王軍の隊長たちはそれまで足止めできていればいい。だから人数は少なかったが、それでも一対五では苦しい。とくに、それなりに腕の立つものばかりが相手となると。
 下級兵たちは、キーファの呼びかけに応えて国王軍へ寝返る者たちも多かった。だが、上になればなるほど、囚われて刑罰を受ける可能性が高くなり、逃げたり隠れたりしていた。サルタージは、彼らをまとめたのだろう。
「イスファ!キーファ王はっ」
「無事です」
 床には一人兵が倒れていた。一対一となれば、ラシッドもイスファも負けることはない。すぐに相手を倒し、廊下へと飛び出る。
「ラシッド様は王の元へ。私たちはシャリス様をお連れしなければなりませんので」
「怪我か?」
 ラシッドが眉根を寄せた。イスファはこくりと頷き「リーフィウ様が」と言った。
 ラシッドはそのまま走り出し、イスファたちもシャリスの部屋を目指した。


 ちちち、と鳥の鳴く声がして、シャリスは目を開けた。それから、はっとして身を起こした。
「起きたか」
「すみません、眠ってしまって……」
 大きな座布団の上に起き上がりかけたシャリスを、キーファが手で制した。
「いや、まだ眠っていろ。昨晩は疲れただろう」
 カハラム軍の兵と戦い、その後は負傷者の手当てと看病に追われていたのだ。襲われたのは幹部だけではなく、所々に配置されていた門番や兵たちも襲撃を受けていた。第二部隊にも召集を掛けたが、重傷者も少なくなく、シャリスは自分の傷も放っておいて治療に走り回っていた。
「リーフィウ殿は?」
「……熱がまだ下がらない。だが、呼吸は少し安定してきた」
 中でもひどかったのが、リーフィウだった。背中をざっくりと切られて、シャリスが駆けつけたときには血の海だった。もちろん、リーフィウだけの血ではなかったのだが。
 シャリスは立ち上がり、リーフィウの傷の様子を見た。顔色は悪いが、確かに呼吸は安定してきている。峠は越えたか、と知らず長い息を吐き出していた。
 シャリスが薬の用意をしていると、扉が叩かれてラシッドが入ってきた。服に隠れて今は見えないが、その腕には白い包帯が巻いてあった。
 キーファは僅かに視線を後ろに置いて、落ち着いた声を出した。
「被害状況は?」
「死者十名、門番と警護兵だ。負傷者は二十名。そのうち三名は重傷、意識が戻っていない」
「幹部は?集中攻撃を受けたのだろう?」
「ああ。だが手薄なのが幸運だったな。無傷とは言えないが、命に関わる怪我はしていない」
「何かわかったことは」
「ザッハとファノークが詳しい状況を探っているが、どうやら今回のことはサルタージの単独行動のようだな」
「ラ・フターハは関与していない、と?」
「ああ、直接にはな。サルタージはもともとタシュラルに忠誠を誓っていた。息子でも、ラ・フターハには忠誠を誓うつもりはなかったんじゃないか、って言うのがファノークの言い分だ」
 サルタージも頭の回転が早い人間だ。確かに、ラ・フターハではタシュラルの代わりは勤まらない。それならば、自分が――そう言うことか、とキーファは小さく息を吐いた。
「その、ラ・フターハは?」
「リシュたちが見張っている。明後日にはカラムにつくだろう」
 明後日、とキーファはリーフィウをちらりと見た。
 ラシッドはその様子を見ながら、やはりキーファは王の器なのだ、と確信していた。リーフィウはキーファの強さにも繋がるが、弱点にもなる。だから彼が大きな怪我を負ったと聞いたとき、思わずこの部屋に駆けつけたのだ。キーファが、暴走しないかと心配して。だが、その心配は杞憂に終わり、こうしてきちんと現在の状況を把握している。
 たぶん、これが自覚なのだ。キーファが王であることを決めた、その覚悟の一端なのだ。
「宮殿内警備を強化しろ。サルタージほどの頭は持っていないが、ラ・フターハもここの住民だったんだ。油断はならない」
 ラシッドはわかりました、と頭を下げて部屋を辞した。
 ぱたりと閉めた扉に背を預けて、ラシッドは深くため息を吐いた。
 キーファが実権を握り、自覚を持ったとしても、リーフィウが諸刃の剣であることに、変わりはなかった。


 リーフィウの目が覚めたのは、翌日の昼頃のことだった。ちょうどキーファが傍らで昼食をとっているところで、何度か瞬きをしたリーフィウは、ぼんやりとした目をしていた。
「キーファ王……?」
「気付いたか」
 手にしていた杯を置いて、キーファがそっと寝台に腰掛ける。うつ伏せているリーフィウは寝心地が悪く、身体を返そうと思ったが痛みに阻まれた。
「背中を切られたんだ。仰向けにはなるな」
「あ……。キーファ王は?お怪我は?」
 ふっと笑ったキーファが、リーフィウの髪を撫でた。温かく、大きな手だ。
「大丈夫だ。おかげで助かった」
 シャリスによれば全治二週間ほどの傷を足に負っているのだが、それぐらいはキーファには怪我に入らないらしい。穏やかな目をしているキーファに、リーフィウもほっとしたようだった。
「だが、あなたは無茶をしすぎだ。あの場に飛び込んでくるなど……。自殺行為だ」
 辛そうなキーファの声に、リーフィウは微笑んだ。
「でも、キーファ王は今のカハラムにとって絶対に必要な方です。失うことは、出来ない。逆に私は、あってもなくても同じ命です」
 何を、とキーファは怒鳴りそうになった。それをしなかったのは、同じ事を昔、自分が言っていたからだ。
 今になって知る。あのときの、様々な人間の辛そうな目や、哀しそうな表情の意味を。憤りにも似た、その気持ちを。
 そっと髪や頬を撫でると、リーフィウは気持ち良さそうに微笑んだ。
「カハラムにとって私が必要だからとその命を大事にするのなら、私にとって必要なものの命もまた、大切にして欲しい」
 キーファがそう言うと、リーフィウは一瞬何を言われているのかわからない、といった表情で見つめてきた。
「あなたを失うかもしれないと思ったとき、俺がどんな気持ちだったか、わからないだろう」
 何度も、大きな手がその髪を撫でる。その優しい仕草にも、包み込まれるようなその目にも、リーフィウは泣きそうになった。
 カハラムのため、などではない。
 自分自身が、失いたくなかった。ただその一心で、飛び込んでしまった。それと同じ気持ちを、持ってくれるのだろうか。
 大きな手に自分の手を重ねると、リーフィウはそれを胸に抱いてそっと握り締めた。
「ごめんなさい」
 零れた言葉は、自然と出てきたものだった。キーファもわかっているのか、それ以上何も言わなかった。ただ、ごつごつとしたその手を、いつまでも抱いているリーフィウを、じっと見つめていた。


 その夜、リーフィウは当初の予定通りイーザの家に行くことになった。ラ・フターハが明日にも都に帰ってくるというときで、再び同じようなことが起きないかと心配した結果だった。イーザの実家は都から小一時間ほど馬を走らせた場所にある。警備体制は布かれているがいつ襲撃を受けるかわからない宮殿内と、警備は薄いがラ・フターハたちの手が届きにくいと思われるイーザの家と。どちらがより安全なのかはわからなかった。だがその父親は武力もあったし、キーファの父王とも懇意にしていた。
 イーザの実家は町の中心部から東にしばらく馬で走ったところにあり、静かな村の中の一軒家だった。貴族の館に比べれば小さいものだが、村の中では豪邸だ。やはり木で出来ており、濡れたような石の屋根もまた、ルクとは全く違う。
 護衛についてきたハリーファは二人が無事に家に入ったのを確認して、そのまま王宮へと戻った。道中、リーフィウがハリーファに遠慮がちに聞いた所に寄れば、キーファたちは本当ならばラ・フターハたちと戦いたくはないのだと言っていた。国王軍とカハラム軍が衝突するとなれば、市井の人間達にまで危険が及ぶ。それを避けるために、王宮内で片付けたいというのが国王軍の願いで、だが、それには根回しがどうしても必要だった。王宮や首都に残っているカハラム軍の兵にキーファ王への忠誠を誓わせ、取り込む。最初はタシュラル逮捕に動揺を見せていたカハラム軍は、それが自ら命を絶ったという情報に代わると、危機感に今にも暴れそうだった。事実、大臣達のように逃げ出した兵もいたはずだ。とくに、上位の兵の中には。
 キーファはすぐに、自分に忠誠を誓えばそのまま兵として登用するとお触れを出したが、兵たちは混乱のさなかでまともな判断など出来そうになかった。だが、以前から密かにカハラム軍に潜り込んでいたキーファ配下の兵が誘うように王へ寝返ると、それに続くものが現れた。その兵たちの整理も大変だが、もちろんラ・フターハへの対処もしなければならず、しばらくそれに忙殺されるだろう、とハリーファは言った。
 質素だが清潔な寝台に横になって、リーフィウはじっと窓から見える夜空を眺めた。イーザの家族は優しくて、温かかった。大陸系の顔ではないことをわかっているだろうが、何も聞かなかったし、だからと言って邪険にもされなかった。ここにはイーザの両親と姉夫婦が住んでいて、イーザの甥っ子になる三歳の子供も、無邪気にリーフィウを遊びに誘った。
 シャリーアは、どうしただろう。
 王宮を出る前に、キーファが会いに来てくれた。そっと抱き締めて口付けをし、大丈夫だと僅かであったが笑ってくれた。それから、シャリーアはやはり侍女のシャーナの家に行くと教えてくれた。
 そっと撫でた顎には、薄っすらと髭が生えていた。そのざらりとした感触を思い出して、リーフィウはその掌を眺めた。それから、そこに続く腕を見た。
 細い腕だ。何も、できない。
 だが、キーファはその手をそっと握って、指先に口付けてくれた。そして、何度でも言ってくれるのだ。
 大丈夫だから、と。
 早く会いたい、とリーフィウは思った。今朝別れてきたばかりなのに、早くあの顔を見たいと思った。そして、この隣で眠って欲しかった。
 そうしたら、抱き締めるのに、と思う。何も出来ないこの腕で、でも、抱き締めて頭を撫でてあげるのに。
 どこかずっと、痛みを耐えたようなキーファに、少しでも安らぎを与えられたらいいのにと思った。


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