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遠景涙恋
第十一章 密約


06
 イル・ハムーンの本来の命(めい)は、皇太后の暗殺ではない。キーファ王、その人の暗殺だった。
 それを、キーファは薄々わかっていたはずだ。元々、イル・ハムーンの正体を知っていながら、キーファは忠誠を誓わせた。彼が「あちら側」の人間とわかっていながら、酔って揺れながら、言ったのだ。俺に命を預けるか、と。
 当時、国王軍はその構想が練られているところだった。そのために集められた兵の中の一人に、イル・ハムーンは潜り込んでいた。もちろん、キーファを暗殺するためだった。
 すぐに遂行できることではないことは、タシュラルにもわかっていた。だから、慎重を期して欲しいことは言われていたし、失敗も認められていなかった。まずは国王軍に入り、王に近づく。そして、それから暗殺する。そんな長い筋書きだったのだ。だが、その長期に渡る計画が、イル・ハムーンを迷わせた。
 キーファに近づけば近づくほど、殺す理由を見出せなくなっていったのだ。イル・ハムーンは暗殺者であったが、いつも辛さと苦しみを抱えていた。だが、今までは命を受け、その人間を知りもしないうちに暗殺することが多かった。その鮮やかな腕前を買われたのだが――結局、イル・ハムーンは完璧な暗殺者ではなかった。
 ただ、今の国の王に憎しみに近い思いを抱いていた。彼が幼少期に遭遇した悲惨な出来事は、前王の時代だったとしても――その息子を恨まずにいられなかったし、中枢部が腐敗していることはタシュラルに近づいたときからわかっていた。
 キーファを知る前までは、それを野放しにしている王に怒りさえあった。
 だが、キーファも苦しんでいるのだと、見えてきた。そして、彼が本来は慈悲深き立派な王であることもまた、直感のようにしてわかった。同じ戦で戦えば、優れた軍人ならばその長の器はわかる。
 そこで、迷いが生じた。もし、タシュラルを排せたら、そしてキーファが真の王として国を率いたならば、どうなるのか、と。
 それをこの目で見られないだろうことが、イル・ハムーンには心残りだった。
 じじっとまた油の燃える音がして、思考をゆるりと戻す。イル・ハムーンが瞬きをすると、キーファと目があった。何も語らない、ただ真っ直ぐなだけの目。
 キーファはその紙を誰にも見せずに、再び印の中に仕舞った。そして、イル・ハムーンを見た。
「今回のことで、何か言いたいことは」
 それは、最後に引っ立てられた人間に聞く型どおりの質問だった。そこで、ようやくこの芝居の幕が下りるのだとイル・ハムーンは何度目かの安堵のため息を吐いた。
「何も。どんな刑であろうと、受ける覚悟でございます……私は、王を裏切った身にて」
 キーファはすっと立ち、処罰は追って知らせる、とだけ言って身を翻した。
 最後まで、自分を裏切らずにいてくれたその王に、イル・ハムーンは頭を下げた。


 「王を裏切った」というその本当の意味を、キーファ王は理解しただろう。
 イル・ハムーンは地下の暗く湿り気さえ感じる床に坐って、大きく息を吐いた。後のことは、キーファや元の同僚達を信じるしかない。だが、きっと上手くやってくれると確信があった。
 裏切ったのは、王の期待だ。あの昏くぞっとするような、期待。キーファは、あの命令書の中身を知っていたに違いなかった。
 その、自分の命を狙っている男を何故、傍に置いたのか。
 その答えが、王の「期待」だった。
 きっと、殺されてもいいと、思っていたのだ。
 だが、キーファ王がそう思ってイル・ハムーンを登用したとき、本人はそこに揺らぎを感じている最中で、その一言で、決めてしまった。そして、キーファに心からの忠誠を誓った。
 諜報の仕事につくことになったとき、その師から「何も考えてはいけない」とイル・ハムーンは教わっていた。任務だから実行する。ただ、それだけだと。
 キーファのことで迷いが生じたとき、イル・ハムーンはキーファについて色々と調べた。任務をこなすためではなく調査をしたことが、既にイル・ハムーンの迷いを表している。
 当初の最大の疑問は、キーファがなぜそこまで今の待遇に甘んじているのか、ということだった。だが、そこは諜報を生業とするイル・ハムーンだ。すぐに皇太后に突き当たった。
 タシュラルが屈辱を負わせていることはすぐにわかった。その上、別の人質を取っていることも。それは大きな秘密であり、さすがのイル・ハムーンも知ったときは言葉がなかった。
 キーファには、姉がいた。
 だが、生まれつき、目が見えなかった。正確には、瞳の色素が極端に薄かったのだと言う。そのために、前王と皇后は、田舎でしばらく様子を見ることにした。もし、目が見えるようであれば引き取るつもりだったらしい。だが、その願いは叶えられず、子供は何週間経っても目が見えるような反応はしなかった。そこで、彼女は病気で死したこととなり――その存在は消された。それはかなりの密やかさで、イル・ハムーンもその情報を掴めたのは運だったのだと思っている。
 前王たちの苦悩はわからない。だが、それにかなり胸を痛めていたことは、皇太后の態度でわかった。本当は、目が見えなくとも引き取りたかったのだ、と言っていた。だが、彼女にとって王宮はあまりに辛い場所だと二人にはわかっていた。
 だから、ただひっそりと幸せに暮らせればいいと願った。
 その存在を、タシュラルがどのように知ったのかはわからない。だが、当時王宮のかなりの深部までその触手を伸ばしていたタシュラルは、どこかでその死した王女の話を聞いたのだろう。そして、だが生きているかもしれない、という話も。
 彼女を楯に、タシュラルは皇太后を脅した。関係を強要されても断れなかったのはその所為だ。そして、キーファが成長するにつれ、皇太后と姉の二人を楯に王を脅した。
 幼いキーファ王に、その母親は何度も言った。
 タシュラルの言うことを聞くように。逆らわないように。
 それらのことを知る度に、イル・ハムーンの心は揺れた。本当に消すべきなのは、タシュラルなのではないかと。
 タシュラルの巧みさは、イル・ハムーンも身をもって知っている。焼印を押されるまでの経過は人づてだが、互いに顔を見せぬままの会話で、イル・ハムーンの心の闇を見事に出させたのはタシュラルだった。幼い頃のことは、仲介人に聞いたのだろう。その気持ちを忘れたはずのイル・ハムーンに思い出させ、その憎しみを再燃させたのは。
 ――結局、弱肉強食なのだ。だが、だからと言って兎がライオンに黙って喰われる謂われもないだろう。兎にも、抵抗する権利がある。だが、真っ向から戦って勝てるはずがない。兎は兎なりの、抵抗の仕方というものがある。
 抵抗する権利。その言葉に、惹かれた。まだ若かったイル・ハムーンには、真っ当な主張のように聞こえた。タシュラルの成していることをきちんと把握すれば、それがどれだけ馬鹿らしい主張なのかわかったのだが。
 まだ幼く、ただ無くなっていく隣の体温に震えていたとき。イル・ハムーンは何も出来なかった。でも、今なら、できるのかもしれないと思った。
 弱者なりの、抵抗が。
 調べて行くうちに、キーファ王もまた、その弱者なのだとイル・ハムーンは気付いた。そして、それなりの、精一杯の抵抗をしている。他の誰も、傷つけないようにしながら。傷つくのは、自分だけで良いという風に。
 そう思ったとき、焼印も命もただの重荷でしかなくなった。抜け出すことは死を意味する。でも、このままここにいれば、何れは任務を遂行するか殺されるか、どちらかなのだ。だが、弱者が強者のために弱者を殺して、何になるというのだろう。
 殺すか死ぬか――その選択に気が狂ってしまいそうになるほど神経をすり減らしたとき、キーファが言ったのだ。
 その命、俺に預けるか、と。
 イル・ハムーンは、頷いた。もう、それしか道はないように思えた。
 死ぬにしても、少しは誇らしく死ねるかもしれないと。
 結局、そのときにイル・ハムーンはキーファの期待を裏切ったのだが、王はイル・ハムーンが本気で寝返ることを決めたとわかると、すぐに行動を起こしてくれた。腕の焼印と同じ物を作らせ、彼に似た背格好の死体を手に入れ、その焼印を押した。印のほうは、川に捨てられることを考えれば、見つからなくても不自然ではないとイル・ハムーンが持っていることになった。これは、雇われた人間にとっての保身だからだ。
 それから一度も、イル・ハムーンがキーファ王への忠誠を揺らがせることはなかった。
 そう、一度も。


 イル・ハムーンへの尋問を終わらせたキーファたちが向かったのは、隣の部屋だった。そこには、タシュラルが同じように両手両足に枷をさせられて、蹲っていた。キーファたちが入ってくると、ゆらりと身体を起こしたが、その目は狂気に血走っているようで、決して敬意を払おうとしたのではないことはすぐにわかった。
 キーファはそれをちらりと見ただけで、椅子に坐った。ラシッドが、先刻と同じように、今日の証人に宣誓を促す。今回は、第四部隊の副隊長の代わりに、法務大臣が証人になっていた。ただし、宣誓も覚束ないほどの緊張と恐怖に見舞われていたが。彼はタシュラル配下の人間であり、その力だけを頼りにして来た人間だった。
「さて、隣の尋問は聞いていただろう」
 キーファはイル・ハムーンのときのような事務的な口調ではなく、気を解いたような口ぶりだった。
「あんな男など、私は知らない」
「ああ。顔は見せない決まりだったそうだな。それは知らないだろう。だからこその、焼印なんだろう?」
 タシュラルの、恐ろしいほどの目がキーファを睨んだ。
「焼印など……いくらでも……」
「なんのために?おまえを陥れるためか?それにしては、凝ったことをする。その上、こんな印まで作っている」
 ころりと転がされた、銀色の印にタシュラルは大きく目を見開いた。ころころと転がって、目の前で止まった印の表面には、蜂の模様が施してあった。
「馬鹿な……この男は、死んだはず……」
 諜報員は、常に数が決められていて、誰かが死ぬと補充される。そして、顔を見せないことから、印の表面にはそれぞれ違った模様が彫ってあり、誰であるのか区別していた。腕の焼印にも同じ模様が追加される。
 蜂の印は、男が川で水死体で見つかったとき、その男の腕にあったものだ。あのときほど、ひやりとしたことはないから覚えていた。あの焼印を見られるなど、言語道断のことで、結局見つけた役人も殺すことになったほどだった。もちろん、その焼印のことをしっかり承知した男が、欲を出したからなのだが。そして、印は、見つからないままだったのだ。あの印だけならばそれほど恐ろしくはない。だから、あのときは川にでも落ちたのだろうと思って終わりだった。以来、蜂の印を持つ諜報員は補充されていない。適当な人材が見つからなかったのだ。
 それが、今になって。
 タシュラルは、自分が呟いた言葉の意味を少しも考えていなかった。法務大臣が「あ、あ……」と訳のわからない声を上げ、キーファがふっと笑ってようやく、その意味に気付いた。
 そもそも、焼印を持つ者が裏切ることなど、考えていなかったのだ。
 もう駄目だ、と悟ったタシュラルは、迷わずぐっと舌を噛んだ。キーファやラシッドたちががはっとして立ち上がったが、間に合わなかった。
 この愚王に裁かれるなど、どうしてもタシュラルには許せなかった。
 カハラム王を、愚王たらしめてきたのが自分だとしても。
 いや、だからこそ。


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