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モドル 12-06 * 13-02
遠景涙恋
第十三章 月環
01
幹部にいた二人が旅立ったことは、当然と言うべきかキーファに負担として返って来る。毎日朝早くから、日付が変わるまで自分の部屋には戻ってこない。ときには帰ってきて、そのままばたりと倒れるように眠るときもある。
少し、痩せた気がする。
目の前のキーファの寝顔を見ながら、リーフィウは伸びそうになった手をゆっくりと戻した。無精髭が生えていて、そのざらりとした感触を感じたかったのだが、触ったらキーファは確実に起きてしまう。こうしてリーフィウが起きているだけでも、ときどき目を覚ましてしまうのだ。すっかり抱き込まれて寝ているのだから、身じろぎをする度に起こしてしまっているのかと思うのだが、居ない方が眠れない、とキーファ自身に言われている。
疲れるはずなのだ。国王軍には優秀な人物が多く、新体制となった今も彼らは王を良く支えている。でも、今度こそキーファが王として君臨するためには、キーファ自身が動かなければならないことは多い。そして彼らに従うに足る人間だと示すために、決して弱ったところは見せられない。
執務中の厳しい顔のキーファを思い出して、リーフィウはそっと目を閉じた。ラシッドたちが旅立ったその日から、リーフィウはキーファに言われて彼の傍に仕えている。補佐、というほどの仕事はしていない。政治に一切関わったことのないリーフィウには、そんなことは出来ないのだ。だが、キーファはリーフィウを様々な場に連れ出した。
キーファを支えたいと思っていたリーフィウにとってこれは願ってもないことで、精力的に色々なことを吸収していった。
ただ、そうしてその後、どうやって、どんな立場でキーファを支えていけるのか、リーフィウにはわからなかった。明確な役を与えられていないのだ。
リーフィウは目を閉じた。キーファの腕が温かい。今は、考えないでおこう、と思った。こうして、傍にいるのだから。
出かけよう、と言われて、リーフィウは驚いてその顔を見返した。キーファはふっと笑って、ときには良いだろう、と言う。
「煩いのがついてくるが、まあそれは仕方ないと思って欲しい。……まだ、街をきちんと見たことがなかっただろう?」
外に出ると、晴れた日ざしは随分と暖かくなってきていた。シャリーアたちが旅立ってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。今ごろ、カハラム領は出ている頃だろう。
いちおうのお忍びと言うことで、二人は顔を隠していた。馬に乗ってゆっくりと街の中を見て回る。ときどき、キーファが店や歴史的な建物の説明をしてくれた。
「すごい……」
川沿いの通りに出て、リーフィウは馬を止めた。店構えをしている舟や運び屋の舟がひしめき合い、賑やかで色鮮やかな川面が目の前に広がっていた。もうすぐ一日の商売が終わる。商人達は競い合って声を張り上げていた。
「青の布は酒屋、緑は野菜売り、白は運び屋、それと……赤は渡し舟だ」
ひとついかがですかー?と川面から声を掛けられて、キーファが馬から降りたので、リーフィウもそれに倣った。旗の色は橙色だ。
「何がある?」
「白花茶も香茶も茶茶もありますぜ。ああ、今日は豆粉茶もある。入りたてだ、一つどうです?」
「豆粉茶か……そう言えばしばらく飲んでいない。二つ貰おう」
キーファがあまりに普通に接しているので、リーフィウは驚いた。リーフィウ自身は、ルクで街中の店を見たことはある。でも、こんな風に買い物をしたことなどなかった。馬に乗っている姿は確かに威厳があるのに、こうして見るとすっかり溶け込んでいる。
熱いぞ、と渡されたのは、リーフィウの見たことのない飲み物だった。黒くて、少しとろりとしている感じだ。
「これは……?」
「豆粉茶と呼んでいるが、カハラム東部の原産地ではマカと呼ばれている、豆を挽いた粉から作った飲み物だ。牛乳で溶かしていて、少しばかり甘い」
木の器に入ったその飲み物の香りはいい。ふーっと何度か冷ましてから口に含むと、その芳香と甘さが口中に広がった。
「美味しい」
馬を引いて、川沿いをゆっくりと歩く。舟からは威勢のいい声が飛んでくる。それに負けじと、川沿いの店からも誘う声が聞こえて、リーフィウは圧倒されていた。馬車さえすれ違えそうなその大きな道には、人も溢れている。
「すごい活気ですね」
「ああ。街の人間は強い。国に何があっても、逞しく生きる」
確かに、つい最近内乱に近い騒ぎがあったというのに、ここはひどく活気に溢れている。暗い影がない。
お茶を飲み終わって、再び馬上に落ち着くと、キーファはゆっくりと辺りを眺めた。リーフィウも馬に乗る。目線が高くなる分、人の動きが良く見える。楽しそうに笑って駆け回る子供たちは、追いかけっこでもしているのだろう。するすると器用に人ごみを抜けていく。
「王は、よくこちらに来られるのですか?」
ゆっくりと、店を冷やかしながら馬を歩かせた。先ほどの豆粉茶のおかげで、身体はぽかぽかと温かかった。
「以前はな。今は暇がなくて滅多には来られない。だが、ここは原点なんだ」
「原点?」
「あの宮殿の中にいると、忘れてしまう。国を治めるというのは、この民たちに、こうした生活を保障するということだ。もし戦になるようなことがあったとしても、それは、この民たちを守るためではなくてはならない」
キーファは真っ直ぐに進む道を見ていた。リーフィウはその横顔を、じっと見つめた。この人が、なぜ実権を握れなかったのか、わからない。その横顔は、そう思わせるほど精悍で威厳のある、若き王の顔だった。
「幼くして王となった俺に、そう教えて下さった方がいる。その言葉を役立てるには随分時間を掛けてしまったが、俺は今もそれを忘れていない」
傾きかけた日がその横顔を照らしていた。陰影が、美しい彫刻のようだった。
ゆっくりと馬が進む。ほら最後の一籠だ、持っていけー、と野菜売りが叫んで、白蕪を突き出している。売れ行きが良かったのか、早々に店じまいを始めている店もあった。川に浮かぶ舟も、どことなく帰りの道を急いでいるようだった。
「あなたの、お父上だ」
長い沈黙の後の呟きに、リーフィウは彷徨っていた視線を止めた。キーファが振り向いて、微かに笑っていた。
「あなたの、お父上に教えてもらった。国とは、民のためにあるのだと」
神々しいまでに輝く街並みを見ながら、リーフィウは何も言わなかった。すぐ近くの喧騒がどこか遠く、ただ、真っ直ぐに自分を見ているキーファを見返していた。
父らしい言葉だ、と思った。誰よりも国のことを、国民のことを思った父らしい言葉だと。そして、キーファは言ったことは違えない。だからきっと、これからずっと、その言葉を忘れずに生きていくだろう。そして、カハラムは更に発展するだろう。その下で、ルクも一緒に――。
だが、それがルク民たちの幸せなのだろうか。大国に吸収されることなく繁栄を誇ったことが、ルク民の自慢だった。それなのに、今の状況はその見る影もない。ヤーミンを恐れ、カハラムに庇護されている。
――いつか、必ず復興をしましょう。
――この地を、我々の手に取り戻しましょう。
光を失わずに、そう言ったルク民たちのことを思い出す。リーフィウがカハラムに再び行くと言ったとき、その落胆は大きく、裏切り者とさえ言われた。それでも来たのは、その民たちの願いを叶えたいと思っていたからだ。そのための、力や知識が欲しかった。そして何より、二度とあんな戦いを起こさないためでもあった。
国とは、民のためにあるもの。つまりは、王も民のために在る。そのことは、父に何度も言われていた。何れは自分を継ぐはずだった息子に、ルク王はそれが一番大切なことだと、繰り返した。
一日の労働を終えた者たちが、晴れやかな顔をして飲み屋に消えていく。夕食の話をしながら、女たちは豪快に笑っている。子供は帰る時間だと怒鳴られながら、遊び足りないと言うように駆け回っている。
ルクの人間も、同じ顔をしていたはずだ。ここほど栄えてはいなかったが、同じように、生活をしていたはずだった。そして、言うのだ。
これも国王のおかげさ。あんたの父親は本当に凄いよ。こんなちっぽけな国なのに、大国に対抗しているんだから。大きな国の人間にも負けないだけ、俺たちは幸せなんだから――。
リーフィウは胸から込み上げるものをなんとか押し留め、震える唇を噛んだ。
捨てられない。
あの国を、自分は捨てられない。
例えどれだけ、あの腕の中が心地よかったとしても――。
「ラシッド殿から手紙が届きましたよ。無事、コクスタッドに着いたようですね。シャリーア様も元気なようです。しばらく滞在するようですよ」
彼らの出発から、二ヶ月が経っていた。旅は順調だったようで、ほっと誰もが息を吐いた。草原横断は、それほど過酷なのだと言ってもいい。
ファノークの差し出す書類に印を押して、キーファは顔を上げた。
「しばらくか……。帰ってくるな、と返しておけ」
「え……嫌ですよ。だったらイル・ハムーン隊長を呼び戻して下さい」
ラシッド、イル・ハムーンと国王軍の副隊長と隊長がいなくなった今、軍を束ねているのはファノークだった。本人は、二番手や三番手で誰かの補助に回っているのが一番性に合う、とその地位を嫌っていた。だからこそ、ラシッドやイル・ハムーンの復帰を人一倍望んでいるのもこの男だった。
「しばらくは無理だ。それは、軍の再編をしたおまえが一番わかっているだろう」
国王軍とカハラム軍、その二つを再編し直すのは、確かに厄介だった。事実はどうであれ、イル・ハムーンの所為でタシュラルは死んだのだ。
実際発表をしたときは、実行犯は侍女とした。彼女は死んだことになっており、そのおかげでイル・ハムーンは命を無くさずにすんだ。だが、彼が任務を背負っていたことは、隠せなかった。タシュラルの自害を、少しでも擁護するような余地を与えたくなかった。
「それならば……誰か適当な人物を副隊長にして下さい」
「ふーん。おまえは心当たりがいるのか」
「……だから、適当な人物、なんじゃないですか」
思い浮かぶのは、シャリスかザッハ位だ。だが、シャリスは本格的に医療部隊を作り始めていて、絶対に首を縦には振らない。そして、ザッハは第一部隊が絶対に離してくれない。
「なんか、貧乏くじ引いた気分です」
ファノークの言葉に、キーファはふっと笑った。
「隊の奴らは、そうは思ってないだろ。俺としては、そっちの方が大事だからな」
「誉めたって駄目です。あ、一層のこと空席にしておきましょう」
少なくとも、イル・ハムーンはここに坐るべきなのだ。ラシッドは、キーファの完全な片腕になるとしても。
それはいい案だ、とファノークは一人納得して、頷いた。だが、キーファは頷かない。
「駄目だな。今は大事なときだ。そう言う役割をはっきりさせないのは良くない。特に軍部の上席を空けるなど火種の元だ。それに、まだまだ先の話だろう」
何の話なのかは言わなかったが、ファノークはそれだけで納得した。それが聞ければ、良かったのだ。キーファ王に、イル・ハムーン元第四部隊隊長を呼び戻すつもりがあること。その気持ちが、知りたかった。
話しながらも印を押していたキーファは、その紙の束を揃えてファノークに渡した。なかなかに厚さのあるその紙は、国王軍の兵たちの所属部隊承認証だった。これで、正式な新国王軍が発足する。今度は、第一から第十までの各隊が、大隊、中隊、小隊を要する大所帯となる。さらに、地方分隊、海兵隊などが加わり、それを全てまとめるなど――絶対にやりたくないとファノークは思うのだった。
表面上、隊長はキーファ王だったが、何しろ多忙の身だ。実質、副隊長であるファノークが国王軍の面倒を見なければならない。
俺は面倒を見るほうじゃなくて見られるほうがずっといいのにな……。
ファノークはその分厚い紙の束を受け取りながら、深々とため息を吐いた。
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