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遠景涙恋
第十二章 送舟
06
――西の国境警備を命ず。
言われた言葉を、最初、イル・ハムーンは理解できなかった。あまりに予想していた言葉とは違って、異国語のように聞こえたのだ。
そもそも、裁きを待っていたのであって、移動の命を待っていたわけではない。
だが、これも処分の一つだが?とキーファは簡単に言った。それでも納得できずにいるイル・ハムーンの前に、皇太后付きの侍女が引き出された。
彼女も、協力者の一人ではあった。イル・ハムーンに一番に連絡をしてきたのは彼女だったし、真実を黙して守ってくれたのも、彼女だった。
いや、とイル・ハムーンはその落ち着いた表情を見上げた。キーファが真実に気付いているのならば、彼女がそれを沈黙する意味はなかったのかもしれない――。
「一つだけ、イル・ハムーン様に話していなかったことがあります」
侍女はそう言って、着ていた服の袖を捲くった。そこには、イル・ハムーンと同じ焼印があった。
ただ、その脇に付け加えられていたのは蜻蛉だった。
「蜻蛉……」
「私の任務こそが、皇太后を監視することであり――時期が来たときには殺害をすることでした」
ああ、とイル・ハムーンは目を閉じた。
「だから皇太后様は、ご自分の最後を知ったのか……」
「私が失敗しても、近いうちに次の刺客が来る。それならば、自分の最後は自分でと……止めることは、敵いませんでした」
蜻蛉の心中が、蜂のイル・ハムーンにはわかる気がした。同じように悩み、迷い、決めたのだろう。
皇太后の死に於いて、おまえが負うべき罪はない、とキーファは言った。
あれは自害であり、イル・ハムーンは何も手を下していない。ただ、三人の中では、いつの間にか約束ができていた。皇太后に何かあった場合、それを利用して、全力でタシュラルに対抗する。イル・ハムーンの焼印と、侍女の協力があれば、それは容易いもののように思えた。
止めなかった罪と言うのは、ないのだろうか。
イル・ハムーンはそう思ったが、その罪を背負ったのは自分ではなくこの目の前の侍女なのだと知った。そうなれば、彼女のことを責めきれない事もイル・ハムーンにはわかっていた。ずっと、死にたかったのだと元王妃は言っていた。意に添わぬ関係をタシュラルと結び、実の息子を苦しめている。それをいつか、終わりにしたいと、それだけが皇太后の希望だった。
そして、自害をしなければ、皇太后は殺されていた。タシュラルの手で、でもその痕跡を残さずに。だが、同時にそれはキーファへの警告となるはずだった。タシュラルは、王が大切なものを手に入れたことをきちんと知っていたのだ。
どうせ命を失うのならば、道連れにしたい。
狂い始めていた皇太后が、ふと正気に戻って言った言葉は、イル・ハムーンの胸を衝いた。正気だったと言うことが、余計に。
そのとき、この侍女も傍らにひっそりと控えていたはずだった。
「ですがキーファ王。私の本当の任務は――」
「おまえの命は」
イル・ハムーンの言葉を遮って、キーファが凛とした声で言った。このときになって、あのときキーファが印の中の命令書を誰にも見せなかったことをイル・ハムーンは思い出した。
「おまえの命は、私が預かっているのだったな」
イル・ハムーンが顔を上げて王を見ると、キーファはにやりと笑っていた。まるで、あの時のように。あの、命を、預けたときのように。
「はい」
「それならば、それをどうしようと私の勝手だ。せいぜい、有意義に使わせてもらう」
イル・ハムーンは何も言わず、ただゆっくりと、ひれ伏した。
西の国境まで、ラシッドとシャリーアの警護をすることも、イル・ハムーンの仕事となった。首都カラムから山越えを含めて二週間ほどの道のりである。
コクスタッドまで行くには、途中草原を突き抜けていかなくてはならない。光の季節には照りつける太陽が、白の季節には一面を埋める雪が旅行者の足を阻むので、ラシッドは季節の一瞬の変わり目を狙っていくことにした。それは本当に短い期間で、一週間ほどしかない。上手く行けば、城壁の開門と同時にコクスタッドに入ることができる。
「どうか、よろしくお願い致します」
散々に、シャリーアに「ラシッド様に迷惑をかけないように、我侭を言わないように、無理をしないように」と言っていたリーフィウは、ラシッドの前でそれだけ言って頭を下げた。本当は、とても心配なのだろう。
「はい」
ラシッドも短く答えて、でも力強く頷いた。
一団は、ラシッド、シャリーア、イル・ハムーン、そしてラシッドたちについていくと聞かなかったリシュとシャーナの五人だった。西の国境までは、イル・ハムーンを送る兵も数人ついている。
「憂鬱そうな顔をしていますね、イル・ハムーン様」
ファノークが笑いながらそう肩を叩く。その顔の理由など、百も承知なのだ。
「何しろ、西の国境にはあの方がいますからねえ」
「言うなよ。何って、それが一番の処罰だと俺は思う」
はあ、と盛大なため息をつくイル・ハムーンは、もう隊長職は解かれていた。だが、第四部隊は見送りをしに全員が集まっている。
「どなたか、お知り合いがいらっしゃるのですか?」
そのイル・ハムーンの後を継いで隊長となったのは副隊長を勤めていたルーカだ。こいつには多大な迷惑を掛けたなあ、とイル・ハムーンは一度も自分を責めなかった元部下を眺めた。
「お知り合い……とも言いたくないな」
「はは。まあ、俺も少し遠慮したいが……」
首を傾げたルーカに、ファノークが説明をする。
「いや、西の国境警備隊長は変わり者で有名でね。シャリスの研究馬鹿なところは実用でいいが、そいつの場合はまるで役に立たないようなことばかりなんだ。で、一人でやっている分にはまだいいんだが、これがまた良く人をこき使う奴で……」
「やっとそれから逃れたんだよな。大体、国境警備も自分の希望だっただろう?何の研究だったんだ」
「俺も詳しくは知らない。ただ確か、あの辺で取れるきのこで媚薬を作るんだとかなんとか……」
媚薬、とがっくりとイル・ハムーンは馬に寄りかかった。それを実験されたら、考えるだに恐ろしい。
「あとはほら、馬を二足歩行させる方法とか、肉を魚の味にする薬とか……」
「それって、どんな意味が……?」
「だからね」
ああ、役に立たないのか、とルーカふむふむと頷いた。
本当に、ろくなもんじゃないんだよなあ、とため息混じりに顔を上げたイル・ハムーンは、ザッハが一人、じっと遠く西の方角を見ているのに気付いた。厚い外套に、毛皮の高帽子を被ったザッハの横顔は、じっと前を見て動かなかった。
「ザッハ」
声を掛けると、ゆっくりと顔を巡らせる。黒い眼帯も、すっかり顔に馴染んだな、とイル・ハムーンはそれをしばらく眺めた。
「何か」
一つになった瞳は、以前より透き通って強い光を発している気がする。それは、畏怖さえ与えるような。
何も言わないイル・ハムーンに、ザッハは顔を戻して、また西の方角をじっと見た。遠くに、薄青く山々が見える。イル・ハムーンが出向くのは、その更に向こう側――。
「待っていろとも、一緒に来いとも、言わないのですね」
呟きは、ぽつりと洩れた。イル・ハムーンはその横顔をただ見つめた。
言えるわけがない。
言える筈が、なかった。そんな風に、この青年の未来を自分が手にして良い訳がなかった。
風もない、穏やかな朝だった。街の中心部から外れた、静かなその場所で、人々は別れを惜しんでいた。ざわざわと、煩いほどではない、心地よいざわめきが辺りを満たしていた。
「いいのです。仕方がないですね。あなたは、最初から何も言ってはくれなかった」
急にきっぱりとザッハがそう言って、それからゆっくりとイル・ハムーンを見て微笑んだ。
「だから、勝手に待つことにしました。それで、もし我慢ならなくなったら――追い掛けていきますから」
ぶるるっと馬の口から吐き出された白い息が漂った。皮の手袋をしたザッハは、そっとその馬の腹を撫でた。
「ザッハ……」
ため息のような、呟きのような声だった。微かな息が、一瞬白く漂って消えた。
「あちらも、随分楽しそうですし」
にっこりと笑われて、イル・ハムーンは言葉がなかった。
いつから、こんなに強くなったのだろう。まだまだ子供のようだと思っていたのに。
揺れているのは自分で、ザッハはもう何もかも決めたような顔をしている。その、一つになってしまった瞳でこちらをまっすぐ見て。
「イル・ハムーン隊長ー!」
後ろから呼ぶ声が聞こえて、イル・ハムーンははっとした。
見惚れていたか……?
自問しても、答えを得るのが怖い。いや、確信してしまうのが怖い。そうやって、ずっと逃げてきたのだ。
「馬鹿やろう。俺はもう隊長じゃないって言ってるだろ」
くるりと振り返って叫ぶと、「つい癖で」と声が返ってくる。
第四部隊の面々が、ぞろぞろと向かって来た。湿っぽい別れは自分には似合わないし、この連中にも似合わない。そう思ってみても、その顔を見ていると目が潤みそうだった。
「ルーカ新隊長だって、今日は隊長の見送りの日だから寝坊しないようにって言ってたんですよ」
上からしてそれでは仕方ないだろう、とイル・ハムーンは呆れた。だいたい、そんなことを注意されているのも情けない。まあ、確かに今朝は早かったから、自分でも同じ事を言ったかも知れないが。
「おまえらなあ、あんまりルーカに苦労掛けんじゃねーぞ」
「はは。隊長に言われたくないなあ」
「だからな」
ため息混じりで言うと、「だって隊長ですから」と明るくでもきっぱりと、言われた。
「俺たちにとっては、イル・ハムーン隊長は、イル・ハムーン隊長なんです。俺たちは全てのことは知らないけれど、でも、あなたが隊長であったことに、誇りを持っているんです」
そうですよ、と周りの連中も頷いて、イル・ハムーンは不覚にも胸を詰まらせた。
「俺も、おまえ達が部下で良かったと思ってるよ。これだけは、胸を張れる」
これだけは、嘘偽りはない。そう自然と笑ったイル・ハムーンに、兵たちはぐっと唇を噛み締めた。
「ずっるいなあ……隊長、こんなときに誉めて」
ずっと鼻を啜ったのは最年少の兵だった。まだ危なっかしくて、でも、人一倍元気だけはあった。
「本当だよ。ザッハ隊長の前だからって優しくしてみせてるんだ」
「ばっ……何言ってるんだよ」
イル・ハムーンは驚いて思わずザッハを見た。でも、ザッハはくすくすと笑っていた。
「隊長も、あんまりザッハ隊長に苦労掛けちゃ駄目ですよ。……すみません、邪魔して。もうすぐ出発みたいですから」
殊勝にそう頭を下げて、兵たちは元の場所に戻って行った。イル・ハムーンはその姿を見ながらはあっと大きなため息を吐いた。
「本当に、あなたは良い部下をお持ちのようだ」
まだ笑ったままで、ザッハが隣に立つ。恨めしそうにその横顔を見たイル・ハムーンは、もう一度だけ、ため息を吐いた。
「ったく、最後まで悪人になり切れなかったじゃねーか……」
「最初から無理なことをするからですよ。でも、次回は是非、私にも優しくしてください」
口調とは違って切なそうな笑顔をして、ザッハは「出発みたいですよ」とイル・ハムーンを促した。
その毛皮の帽子をぐっと掴んで、イル・ハムーンはザッハの頭を引き寄せた。そして、それをぽんぽんっと叩いて、用意していた言葉とは違う言葉を――そもそも、本当は何も言わないつもりだった――呟いた。
「またな」
ザッハがはっとして顔を上げたときには、イル・ハムーンはいつもと変わらぬ姿で、歩いていた。威風堂々と、すっと背筋を伸ばして。
ああ、この後姿に惚れたんだっけ――。
絶対に泣かない、と決めていたのに、開いた片目からぽろりと一筋、涙が零れ落ちた。それは外気にすぐに冷たくなって、ザッハはぐっと唇を噛んだ。
再会を約束する言葉を、貰えるとは思っていなかった。ずっと、追いかけつづけなければならないのだと、思っていた。
「泣かされた……」
もの凄く不本意だとでもいうような口調だった。
でも、俯いた顔のその口元は、僅かに緩んでいた。
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