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遠景涙恋
第十三章 月環


02
「ところで、曖昧なのが良くないというのならば……リーフィウ様はどうするおつもりなのですか?」
 書類を受け取ったファノークは、退出する気配を見せずにそう言った。現国王軍副隊長の嫌なところは、こうしてさらりと人の避けたいところを突いてくるところだ。それも、業となのだから堪らない。キーファは新しい書類に視線を落として、ため息を隠した。
「熟考中、だ」
「でも、そろそろ熟れた実を取らないと、腐りますよ。それに、熟れた果実は一人で勝手に落ちてしまうって、知っていました?」
「知っている」
 ついこの間、嫌と言うほど思い知らされた。イル・ハムーンや母の面影を思い出しながら、キーファはあの実はでも、落ちても潰れなかったんだな、と思った。
「知っていらっしゃると言うのなら、これ以上は言いませんが……」
「もうすぐ、実が落ちそうだとでも?」
「ええ。極私的な、勘ですが」
 極私的な、とキーファは繰り返した。だが、それにはザッハやシャリスの「私的な」勘も入っているのだろう。
 本当のことを言えば、どうするのか、考えていることがある。そうすべきだと、思っている。だからこそ、そのためにリーフィウを傍に置いている。だが、決心がつかない。
 窓の外を、鳥の影が横切る。ふとそちらに顔を向けて、キーファは「そうだな」と何に対しての肯定なのかわからない言葉を、吐いた。


 シアナ河はラヒ山を源流に持つカハラムを流れる最長の河であり、戦略上でも商業上でも重要な航路となっている。支流の川は肥沃な土壌を作っており、人々はシアナ河のことを恵みの河、母なる河、と呼んでいた。
 眼下に見えるそのシアナ河の水面に、ぽつりぽつりと灯りが点り始めた。夜釣りの舟と、乗り合い舟だ。灯りでおびき寄せられる魚は赤い鱗が美しく、少しこくのある味がする。
 そういったことを教えてくれたのはキーファだった。彼は歴史に造詣が深く、庶民の生活にも関心がある。先日街に忍んで行ったとき、あれほどすんなりと溶け込んでいたのは、今までも何度もそうやって街に行っていたからだ。
 リーフィウは開け放した窓から外を眺めながら、腕を撫でた。風はなかった。だが、白の季節の空気は冷たい。
 キーファはきっと良き王になるだろう。国の過去を知り、現在を知り、未来を考える。それは、リーフィウの父親のルク王が常に言っていたことだった。だからこそ、リーフィウがルクの歴史に興味を示したとき、父親はとても喜んだ。
 今やキーファは完全に目覚めたのだ。では、自分は――。
 そのことを考え始めると、リーフィウの思考は止まってしまう。どうしても、すべての願いをかなえるわけにはいかないのだ。それならば、最善の道を選ぶべきだと思うが……それは、リーフィウにとっては一番辛いことでもあった。今、自分はあの腕がなくても生きていけるのか。これからずっと、それを失ったままで。
 舟の灯りがゆらゆらと進んでいく。それを眺めていたら、ふいに温かいものに包まれた。知ったその感触に、一瞬強張りかけた身体の力を抜く。それからたくましい腕が腰を抱いているのを確認して、リーフィウはそっと自分の身を預けた。
「こんなに冷えてしまっている」
 少し不機嫌そうなのは、きっと何度言っても言うことを聞かない自分の所為だ。リーフィウはその険しい顔を思い浮かべながら、その腕に頭をのせた。
 リーフィウは、キーファの言うことを何でも聞くくせに、こと自分の身体のことだけは無頓着だ。何度大事にするように、と言っても、まるでそうする理由がわからないとでも言いたげな表情をする。それをキーファは、いつも苦々しい思いで見ていた。
 風邪をひく、と文句を言いながらも、キーファは一緒に街を眺めてくれた。日が沈むこの時間に、河に灯りが灯っていく様子を見るのがリーフィウは好きだった。キーファも、そのことを知っているのだろう。窓を閉めずに、抱き締めていてくれた。
 ことりと預けられたその頭の重みを腕に感じながら、キーファはぎゅっとリーフィウを抱き締めた。リーフィウは、いつでも消えそうな感じを漂わせている。本当は、輝かんばかりの存在だと知っているキーファは、それが辛く哀しかった。
 そろそろ閉めよう、と言おうとしたところで、吐き出される息の熱さにキーファが気付いた。そう気付けば、腕の中の身体がいつもより温かいような気もした。
 すっと手で顔を触れば、リーフィウが発熱していることはすぐに知れた。
「だから言っているのに……」
「キーファ王?」
「熱がある。横になっていないと……イーザ、シャリスを」
 声を張り上げたところで、リーフィウがぎゅっとその腕を掴んだ。それから、大丈夫ですから、と首を振った。熱に潤んだ目は真剣で、キーファは視界の隅に認めたイーザを、手で止めた。
「わかった。シャリスは呼ばない。だが、横になって……」
「いえ。平気です」
 どこか必死な感じで言うリーフィウに、キーファは眉根を寄せた。
「本当に大丈夫です。ですから」
 ですから、とリーフィウは目を伏せた。口調に不安さが表われていた。
「今晩は、抱いていただけますか」
 小さな、声だった。だが、恥じらいより不安が大きい口調は、キーファの眉根を元に戻すには至らなかった。
「リーフィウ?」
「昨晩も、抱いてくださらなかった。だから今晩は……」
 そこでようやく、キーファはリーフィウの様子がおかしいことに気付いた。宥めるために口付けると、いつもよりずっと積極的に舌を絡めてくる。その稚拙な誘いは愛しくもあったが――切なくもあった。
「キーファ様……」
 はあっと熱い息を吐き出して、リーフィウが潤んだ目をキーファに向けた。キーファはぎゅっと抱き締めるが、それではリーフィウは満足しなかった。再び唇を合わせようと目を閉じ、ゆっくりと顔を近づける。
 リーフィウが、誰かに何かを言われたか、何らかの噂を聞いたかしたのは、間違いないだろう。キーファの傍にいることが多くなることで、リーフィウは外に出る機会が増え、同時に、余計なことを聞かされる機会も増えた。そして、捕虜としてこの国に来た元ルク王子の存在を、不安視する声が上がることは仕方のないことだった。客観的に見れば、リーフィウは警戒するに十分な、危険分子だ。中には、王を誑かしてルクの復興をする気なのだと言う人間もいた。
 このままでは、リーフィウを傷つけ続ける。
 キーファはリーフィウを抱き締めた。
「抱かないのは、あなたの身体を考えてのことだ。何も不安がることはない」
 そう言っては見るものの、リーフィウの目が晴れることはなかった。
「でも、それでは私が生きている意味がありません」
「意味?」
「私にはもう、それくらいしか出来ることがありません」
 あまりのことに、キーファは絶句した。そんな風にリーフィウを抱いたことはなかったし、そう思ったこともなかった。
 最初に周りにそう思わせるように仕向けのは、キーファだ。だが、それがこんな仕打ちで返ってくるとは考えていなかった。
「リーフィウ……」
「ですから、私の身体を心配する必要などありません。キーファ王の、好きになさって下されば」
 思わず噛み付くようにその唇を塞いで、キーファはその先の言葉を言わせなかった。聞きたくなどなかった。リーフィウから、そんな風に自分を蔑む言葉を。
 何度も角度を変えて口付けをして、リーフィウが必死にキーファを誘う。それに哀しさを覚えながら、キーファはリーフィウを落ち着かせるために、それに応えた。
 ひょいっと抱えられて、リーフィウは寝台に横たえられた。唇から首筋に口付けが移り、服を脱がされ始めて、リーフィウはようやく願いが叶うのだとほっとしたように微笑んだ。
 キーファは殊更丁寧に、リーフィウを抱いた。だが、どれだけ気持ちを尽くしてみても、今のリーフィウには届かない。
 ゆっくりと身体をその中に沈めて、キーファは背中の傷を舐めた。キーファを庇って出来た傷は、リーフィウの体温が高くなるとすっと赤く浮かび上がる。キーファはいつも、そこに口付ける。
 ゆっくりと唇が辿るたびに、リーフィウの身体が小さく跳ねた。無意識なのか、その中も伸縮して、キーファは何度も突き上げたい衝動を押さえた。リーフィウも、何度となく襲う快感に、息を荒げていた。
 白い肌に浮かぶ、一筋の赤い太刀傷。すっと流れるように入っているのが、一層憎らしかった。
「あ……んっ……」
 つうっと舐め上げると、リーフィウが反り返った。キーファは腰を掴んで、更に奥へとその身を進めた。
 リーフィウが、悲鳴をあげる。それに構わずに、キーファはゆるりと追い上げた。
「はぁ、はぁ、あぁ……あっ」
 ぐっとリーフィウが駆け抜ける快感を耐えたところで、キーファが繋がったまま、リーフィウの身体を仰向けにする。ぐるりと内壁をなぞられて、リーフィウは声にならない悲鳴をあげて、びくびくと何度も痙攣した。
「んんっ……」
 荒い息が整わないまま、口付けを交わす。そのまま抱き上げられて坐るような形になったリーフィウは、容赦なく下から突き上げられた。
 身体は楽ではないが、リーフィウはこうして抱かれるのが好きだった。目の前に、キーファの顔がある。それで、誰に抱かれているのかしっかり確認できる。
 愛妾だとか、男娼だとか、どんなことを言われようと、自分が身体を開くのはキーファだけだ、とリーフィウは決めていた。その結果の名称がなんであろうと、構わなかった。
 こうして求められ一つになることは、リーフィウの幸せの一つだった。自分と同じように、キーファも求めてくれるのだと思うと、泣きたくなる。
 二人の荒い息が混じり合う。寒いくらいの部屋の中で、二人の肌はしっとりと湿っていた。こんなにぴったりと重ねあっているのだ。寒いはずがない、とリーフィウは思った。
 薄っすらと室内を照らす灯りが、二人の影を映す。それは混じり合って、一つになっていた。
 キーファは優しく抱いていたが、快楽を与えることには容赦をしなかった。達したばかりのリーフィウの腰を掴んで揺らす。突き上げられる衝動とそれに合わせるように落とされる腰は、狂おしいほどの快楽を齎す。その過ぎるほどの快感に、息をすることもままならなくなったリーフィウは、欲望を吐き出して、気を失った。
 一瞬あとに達したキーファは、荒い息を整えながら、ずるりとリーフィウの中から抜け出した。確かに欲望を吐き出したはずなのに、その表情は厳しかった。じっと、リーフィウの白い面を見つめる。額に貼り付いた髪をそっと撫でて払い――そのまま何度か、顔から髪の毛にかけて、優しい手つきで撫でた。それから、その身体を抱き上げて、浴室に向かう。
 抱いた後にリーフィウが気を失うと、いつもキーファはその身体を丁寧に清めていた。だが、リーフィウはそのことを知らない。翌朝すっきりとしていて、誰かに身体を拭かれたりしていることはわかるのだが、すっかり侍女がやってくれているのだと思っている。まさか王自らの手で、湯浴みをしているとは思いも寄らない。
 そのことを知っているイーザは、これは王の子供じみた独占欲なのだと思っていた。いつまでも自分の腕の中にいて欲しくて、その肌も温もりも何もかも自分のものにしたくて――だから、誰にも任せない。今までキーファの寵愛を受けていた女たちも、それを言えばびっくりするだろう。行為が終わるとさっと帰っていた、あの王が、と。
 広い浴室でリーフィウの身体を洗いながら、キーファは先刻の「生きる意味がない」と言ったリーフィウの言葉を思い出していた。
 同じことをしているのかもしれない、と思う。
 籠の中で窮屈に飼われていた自分。生きている意味がわからなくて、気が狂いそうになったときもある。それと、同じ事を。
 リーフィウにもまた、羽ばたける翼があるはずだった。


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