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ユーフォリア――euphoria―― 


03

 どうしてこんなことになったのだろう、と七緒は思うが、たぶん、この少年の家庭環境に同情しただけだ、と自分を納得させた。
 同情。それは最も自分が嫌うものだったはずなのに、それで誤魔化そうとするなど、ずい分馬鹿げたことをしている、と七緒は思う。
 哲史を送っていくから、と署を出るときに、朝井に無言で肩を叩かれた七緒は、小さく笑うしかなかった。そうやって、皆を安心させようと思ったのだが、上手くいったのかはわからない。伏見も、呆れたような顔をしながら、何も言ってくることはなかった。情けないことだ、と七緒は自嘲する。
 哲史はすっかり大人しくなって、七緒の運転する車に乗っていた。無言でずっと、窓の外を眺めている。
「――なんで、あんな言いがかり否定しなかったんだ」
 ふと、外を見たまま哲史が呟いて、七緒はちらりと哲史を見た。
「さあね。言いがかりってわかってるならえらいもんだ」
 信号が赤になって、七緒はゆっくりと車を止める。
「薬、いつからやってるんだ」
 七緒は煙草を口に咥えると、火を点ける。それから、大きく紫煙を吐き出した。哲史は答える気がないのか、窓から視線を離さない。
「腕見せろ」
 信号が青になって、するりと車を出すと、七緒がふいにそう言った。哲史は何を言われたのかわからずに、ようやく七緒に視線を移す。
「腕だよ。シャツまくって」
 哲史は、真夏だと言うのに長袖の黒いシャツを着ていた。それに黒いパンツを穿いているが、白く細いからだにそれは、しっくりと似合っていた。まだ少年の面影が残る整った顔立ちで、いやらしさは感じさせないが、少しばかり大人っぽい印象を与えていた。
「何だよ急に」
「つべこべ言わずに腕見せろ」
 七緒は煙草を灰皿に押し付けて消すと、再び信号で車を止める。哲史は不満な顔をしながらも、仕方なさそうに両腕をまくって、ぬっと七緒の前に差し出した。
「注射まではやってないか……今のうちに止めておくんだな。それとも、覚醒剤には手を出してないのか」
 ようやく七緒の意図を汲んで、哲史は小さくため息をつきながら腕を引き込めた。
「スピードはやってない。それに、今回誘われて、ちょっと好奇心であそこにいただけなんだ」
 ふてくされたように哲史がそう言ったが、七緒はそれを信じてはいなかった。そうじゃなければ、お金に不自由などないだろうお坊ちゃまが、売春行為などする必要がない。
「好奇心って言葉は、免罪符じゃないんだぞ。大方、薬を買う金欲しさにこの間みたいなことをしてるんだろ?お前、薬にやられるぞ」
 七緒は真っ直ぐ前を見たまま、そう説教すると、哲史がふいっとまた外を見たのがわかる。この手の説教が効果がないことはわかっていたが、七緒はどうやらこの少年には、世話を焼きたくなるようだった。
「……どうしてだめなのかなあ」
 哲史がまた、外を見たまま呟いた。答えなど期待していないような、独り言のようだったが、七緒は思わず小さなため息をついた。
「お前、薬物中毒者の末期症状見たことあるか?ひどいもんだぞ、あれは。下手すりゃ副作用で頭がおかしくなることだってある。哀れだぞ」
 職業柄、何人もの中毒患者を見てきた七緒は、そう言って顔をしかめた。大の大人が、自分では何も出来なくなって、薬のためだけに生きていくのだ。その姿は哀れとしか言いようがなく、七緒は思い出して気分を悪くする。
「そこまで馬鹿はしないよ。薬に支配されるなんて冗談じゃない。それに」
 哲史はそう言って、ふいに口を噤んだ。それからまた、おもむろに口を開く。
「それに、俺がおかしくなっても別にいいんだよ」
 望まれたことにさえ、答えられるならば。
 哲史はそう、思っていた。初めて薬をやったのは、勉強がはかどるからだった。これを舐めれば眠らなくてすむ、と言われて試したのが最初だった。始めは不快感があったが、すぐに気分が高揚して、眠気など吹き飛んだ。感覚が異様に鋭くなって、自分が違う人間になったような気がした。
 楽しくて仕方がなかった。
 それから、何度か気分が鬱屈したときなどに薬を使用していた。小遣いだけでも買えない値段ではなかったが、それでは他に自由に出来るお金がなくなるため、援交を始めた。それはそれで、哲史に新しい世界を見せてくれたのだ。
 大学に入ったらやめよう、と哲史は思っていた。それまでは、受験勉強のために薬をするだけだ。
 ぽつりと呟くように言ったきり、黙ってしまった哲史を、七緒は横目で見ていた。
 別にいい。
 その言葉が、何度か頭の中で繰り返される。


「なんか七緒先輩、おかしくなかったですか?」
 哲史を送っていく、と言って七緒が出ていった後を見ながら、まさかほんとにやっちゃったのかなあ……と呟いた来生の頭を、朝井がぽかりと叩いた。
「イテッ。何ですか朝井さん。だってほんとに、七緒先輩彼に対して優しすぎますよ」
 普段から、鬼の七緒と言われているのである。来生にしてみれば、あんな言いがかりで簡単に身元引き受けなどをしてしまう七緒が、解せなかった。
「まあ確かに、いつもの七緒じゃないのは確かだがな。まあ……仕方ない」
 朝井はそう言って、隣に立つ伏見に苦笑してみせた。伏見も困ったように、小さなため息をつく。もう見えなくなっているのに、三人は戸口近くに立ったまま、七緒と哲史の歩いていった廊下をなんとなく眺めていた。そこは人の行き来が激しくて、二人の影はすぐに消えてしまう。
「本人は、過去は過去、なんて言ってますけどね」
「そう簡単なもんじゃないだろう」
 どこか困ったような、情けないような顔をしている二人に挟まれて、来生は一人わけがわからず、二人を交互に盗み見た。
「あの……七緒先輩、昔何かあったんですか?」
 その来生に、朝井は答えず、任せた、と言うように伏見の方を見る。伏見は伏見で、来生からは目を逸らした。
「なんですか?もう。どうせ七緒先輩に聞いても教えてくれないだろうし」
 来生がそう言うと、伏見が呆れたように首を横に振った。どうしてこの後輩は、こうも天真爛漫な言葉を吐けるのだろう。まだ、この警察の日常に、毒されていないのか。
「来生くんは本当にしちゃいそうだから怖いわ」
「えー?聞きませんよ、本人には。怖いですから」
 怖い、という問題でもない気がするのだが、来生がこんな風だからこそ、七緒はわりに可愛がっているのかもしれない。
「ほんとになあ。あんな怖い顔になっちまって。昔はあんなじゃなかったのに」
「だから、その昔に、何かあったんですか?」
 来生は朝井のほうを見てそう聞くが、朝井は全く答える気がないらしく、一人何やら考えている。
「伏見先輩っ」
 耐えかねたように来生が叫んで、伏見は大きなため息をついた。どうしてこの子は、噂などに疎いのだろう。七緒の話は有名で、少年課の自分の後輩などは、課が違うのに入署して一ヶ月も経たないうちに聞きつけてきたというのに。
「隠しても仕方ないことでもあるし、というより、どうして来生くんが今まで知らなかったのかちょっと不思議なくらいだわ」
「どう言うことですか?」
「それだけ有名な話なの、この中で」
 たぶん、七緒はもう来生が知っているものと思っているかもしれない、と伏見は思った。そんな風に、自然と耳に入るのがいちばんだったような気もするが、噂は決して事実ばかりではない。それならば、事実をきちんと伝えられる方がいいのかもしれない。伏見はそう思いながら、口を開いた。
「一年前の、集団自殺の事件は覚えてる?」
「え?ええ。あの高校生ばっかりが、なんかカルトみたいなものに嵌って、結局自殺しちゃった、って奴ですよね」
 その噂話レベルなコメントをどうかと思いつつ、伏見は「まあ、大筋はそんなものだったわね」と呆れて言った。
「カルト的、というより、あれはカルトだったんでしょうね。それも、高校生がその中心人物だった」
 それが、この集団の発覚を遅らせ、この事件をよりセンセーショナルにしたのだ。利益の関わらない、ある意味ひどく原始的な「信仰」と言えた。美しい少女を中心に、「どのようにみんなで死ぬか」を考えていた、「死」を祭る信仰。少女はその死へと導く、尊い神だった。
 やりきれないのは、と伏見はこの事件を思い出すたびに思う。
 やりきれないのは、彼らが決して、死後の世界を信じていたわけではないことだ。彼らが望んでいたのは、終焉であって、再生ではない。死によって、全てを終わらせることこそが、彼らの願うところだったのだ。
「それで?それに七緒先輩、何が関係あるんです?あの事件は東北の方でしたよね?ウチとは管轄が全然違うし」
 あくまで無邪気な来生に、伏見は笑みを零しそうにさえなる。
「七緒はもともとこっち、関東の出身なんだけどね、両親を早くに亡くして、東北の親戚の家で育てられたの。でも、七緒が勤め始めてからは、七緒はその家を出てきた。弟を残してね」
「……まさか」
「そう。その集団自殺をした高校生の中に、彼の弟がいたのよ」
 伏見のその言葉に、さすがの来生も黙り込んだ。
 その事件は、全国的にかなり騒がれて、来生もよく覚えている。ちょうど国家試験を控えた夏のことで、凶悪犯罪やら少年犯罪についての本も読んでいた当時、来生にとってもセンセーショナルで考えさせられる事件だったのだ。ある意味、これは犯人のいない、犯罪なのではないか。社会と言う名の、犯罪者がいるのではないか。
 それを、警察はどうすることも出来ない。来生が憧れ、そして現在職としている刑事などはとくに、犯罪者と犠牲者がいることで成り立っているようなものであるし、犯罪が起こらなければ、そしてその犯罪と言われるものが、法律を破るものでなければ、たとえ刑事である自分にも、何も出来ないではないか。そんなことを考えたのを、来生は覚えている。それならば、どうして刑事になったのか。その答えを、来生はまだ見つけていない。
 七緒は、答えられるのだろうか。切れ者で、行動力もある七緒に、来生は少し憧れに似た気持ちを抱いていた。その七緒の、思いもしなかった過去。
 すっかり黙り込んだ来生の肩を、朝井がぽんぽんと叩いた。この署にいる限り、この話題はいつかは来生の耳に入ったはずだった。でも、七緒本人がいるからこそ、刑事課の中ではこの話題は出ない。それでいいと朝井は思っていた。来生はぼんやりとしているが、たぶん繊細な方なのだろう。こういう話題を受け入れるには、時間が必要な気がしていたのだ。
 それに、と朝井は苦笑する。当時この課にいなかったのは、来生だけだ。だから刑事課全体が、何も知らない、のんびりした来生に甘えたのかもしれなかった。あの、七緒さえも。
 七緒が弟の死に、ひどく責任を感じているのは、朝井もよく知っている。それはたぶん、他人が何を言っても無駄なのだ。事実はただただ重く、朝井にとっては不可解とも思える集団自殺をした高校生らの「教義」もまた、ひどく気を重くした。
 ただ、死だけを幸福なものとして崇めている。
 それは、絶望と言うものに、ひどく似ている。
「過去は過去と言っても、そう簡単に割り切れるものじゃない」
 突っ立ったままそう言った朝井に、伏見がふと呟いた。
「それにしては朝井さん、何も言わないんだから」
 その言葉に、伏見くんだって、と朝井は苦笑する。
 わからないのだ、と来生は思う。
 二人とも、どうしていいのかわからないのだ。今の来生が、なんと言っていいか、わからないように。




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