ユーフォリア――euphoria―― 第二話
04
雪絵の店は名前を「ヘディキウム」といい、やはりスナックと言うよりバーに近い気が哲史にはしていた。それでも、スナックよ、と雪絵は言う。
「ヘディキウムは、ギリシャ語で「甘い雪」って意味なの」
なかなか官能的でしょう?と笑う雪絵は化粧をして店に出ると、とても美しかった。最初に会ったあのときがどちらかというと例外的で、元気なときは素顔も美しい。
そうなると本当に年齢不詳で、自分も年を誤魔化している分、哲史は雪絵の年を聞いたことはなかった。
スナックと言っても、女の人も気軽に来られるように、と考えているらしく、料理も甘いお酒も充実していた。それを一つ一つ教わりながら、哲史は毎日を過ごしていた。
きっと哲史が未成年だとわかっているのに雇い、家を出たことを知っていても何も聞かない雪絵や店の唯一の他の従業員香夏子に、哲史は感謝していた。話してもどうと言うことはないが、上手く説明できるのかもわからなかったし、気持ちの整理がついていなかった。
父親とのことは、もう諦めていた。話をするたびに、まるで外国語を話しているみたいに通じ合えなかった。それに疲れて、話すことも放棄した。でも、七緒とのことがまだ甘い思い出にはならない。
最後に、一度だけでも抱かれればよかったな、などと考えて、哲史は苦笑する。そうしたら、離れられなかったかもしれない。そんな温もりを、手離せるはずがない。
――あの人とは何もない。
そう叫んだあのとき、ひどく哀しく、可笑しかった。
七緒とのことを持ち出されて、哲史は驚いた。隠していたわけでもないが、父親は自分の進路だけに興味があると思っていたのだ。でも、それがその進路を変更させるための脅しだとわかって、自分の甘さ加減と父親の汚さに嫌気が差した。
着々と準備を進めた。気付かれていないと思った。学校にも真面目に行って、生活態度も問題などなかったはずだ。
所詮、信じられていなかったと言うことだろう。父親からしてみれば、裏切りでしかないことを、確かにしていたけれど。
そんな風に脅されても、二人の関係の決定的な証拠などないことは、自分達が一番良く知っていた。まるで兄弟のように、友人のように。本当にそんな感じだった。ときどき、見詰め合ったりすること以外には。それがこんな風に働くとは思いもしなかったが、その皮肉に笑いがこみ上げた。それでも、このまま一緒にいれば、自分が七緒を大切に思えば思うほど、いつか父は七緒を潰しに掛かるとわかっていた。
利用できるものは、何でも利用する。それが、深海と言う男なのだから。
だいたい、愛し合ってもいないのに子供を産んだ罪と、愛し合っているけれど男同士の自分達の罪と、どちらが重いのだろう、と思う。
七緒がいなかったら、今の哲史はいない。そうやって哲史を生まれ変わらせてくれた七緒に、どんな罪があると言うのだろう。
あと少し。
毎日カレンダーを見つめて、残りの日数を数えていた。
その日がきたら。
いっぱい、抱き合おう。
いっぱい、愛し合おう。
そう考えるだけでも、とても幸せだった。
「泣いてるの?」
二ヶ月も経つと、店の鍵を預けられて、哲史が店を開けるようになっていた。ときどき閉店後も残る客に付き合う雪絵は、明け方眠ることも少なくない。
鍵を開けて、開店前に掃除をしていた哲史は、ぼんやりと外を眺めていたらしい。ふいに雪絵に声をかけられて、びくりと身体を震わせた。
「え、いいえ。すみません。ぼんやりしていて」
そこに涙の後はなく、雪絵はふっと笑った。
「泣いてるのかと思った」
本当に、それほど切ない顔をしていたのだ。真っ直ぐで、強い瞳なのに、ときどきこんな風にひどく切なげに揺れる瞳に、雪絵は自分まで切なくなるのがわかる。
雇ったのは、気まぐれに近かった。なんとなく放って置けないのと、自分の店の雰囲気にきっと合う、と思った危うげなのに凛とした佇まいに、引き止めた。訳ありなのはすぐにわかった。年を誤魔化して、夜の店で働こうとするなんて、何か理由があるに違いなかった。
その理由を全く感じさせずに、哲史は店に溶け込んだ。前のバーテンも楽しそうに教えていて、やめるのをひどく残念がっていたし、従業員の香夏子もすっかり気に入ったようだった。何か背負ってるに違いないのに、暗さを全く感じさせない哲史に、客の中にもだんだんとファンが増えた。特に綺麗で造作の整った顔に、女の客が増えたのは嬉しいような困るような複雑な心境だった。
その哲史が、ときどき見せる切なげな顔。こればかりは客に見せられないわ、と雪絵は苦笑するしかなかった。
「そんな情けない顔してました?」
にっこりと笑う哲史に、もう先刻の切なさはない。この子は、こうしてみんな胸に仕舞っていってしまうんだろうか、と雪絵はそのことに今度は悲しくなった。
「情けないんじゃなくて、それはそれは切ない顔をしてたわよ?」
茶化すように言うと、哲史が苦笑した。
「切ない、かあ。そうかもなあ」
「何?忘れられない人でもいる?」
珍しく話しに乗ってきた哲史に、雪絵は何気なく問い掛けた。でも、哲史は答えずに、ふいっと窓の外を見ただけだった。
まだ少年のはずの哲史の、漂う老成した雰囲気に、雪絵はため息をついた。
「雪絵さんは?もてるのに一人なのは、忘れられない人がいるから?」
「おだてても何も出ないわよー」
からからと笑うと、おだててなんて、と穏やかに哲史は笑った。
「そうね。忘れたくない人が、いるかな」
「忘れたくない、か。そうだね。俺もそうかもしれない。忘れる気、ないから」
穏やかな哲史はでも、またあの切なさを瞳に宿していた。遠くどこか、誰かの面影を探している。
辛い恋だったのだろう、と雪絵は思った。
「私がもう少し若かったら、慰めあったのに」
そう言ったら、駄目ですよ、と言われた。
「俺ね、昔結構無茶やって。愛のないセックスはもうしないって決めたんだ」
「哲史くん……あなたそんなこと言う年じゃないでしょ?」
呆れたように雪絵が言うと、哲史はおかしそうに笑った。
愛のあるセックスがどんなものなのか、哲史は知らない。
七緒に、教えてもらうはずだった。
あの腕が、恋しいと思った。
あの手が、恋しいと思った。
声を聞きたい。
逢いたい。
そう思い始めたら願いは溢れるように出てきて、哲史は笑いながら、泣いてしまいそうだった。
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