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gravity

03
 それから二週間後、陽は深住から再び電話を貰った。自分がオーナーをしているレストランの定期訪問をするから、一緒に来ないか、というものだった。訪問の際、食事をするのだと言う。
 でも、お邪魔でしょう? 驚いた後、ようやくそう言った陽に、深住は「全然」と答えた。どちらかと言うと、仕事の一環に近いものに付き合ってもらってしまう形になるのだから、牧谷さんに失礼かも、とまで言う。
――今回はカフェ・バーなんだ。木室のところほどしっかりと食べられるところではないけれど、食事は美味しいぞ。手前味噌だけどね。
 どうかな、と言われれば、陽は「はい」と答えてしまう。条件反射のようなものだ。にもかかわらず、深住は嬉しそうに「良かった」と言った。
 それからも、深住は何度も陽を誘った。同じように定期訪問のときもあれば、ただ美味しいところを見つけたんだ、と食べに行くこともある。飲みに行こう、と誘われることもあって、二人はほぼ二週間に一度、短いときは一週間に二度ほどの割合で、会っていた。
 深住がなぜ自分を誘うのか、陽にはわからない。食事を美味しそうに食べるから、というのがどうやら主要な理由のようだったが、本人にしてみればそれさえ頷けなかった。
 深住と一緒に食事をしたり飲んだりするのは、陽にとっては楽しいものだった。最初こそは緊張しっぱなしだったものの、慣れて来た今は、楽しみにさえしている。
 その日二人が行ったレストランは、小さなイタリア料理店だった。昔、深住がオーナーをしていた店なのだと言う。
 かなりの昔馴染みなのか、深住は訪問と同時にシェフに大歓迎されていた。初老のそのシェフは、深住の背をばしばしと叩き、にこにこと笑って自ら席に案内をした。深住は苦笑している。
 小さな店内は、木の温もりが感じられる家庭的な雰囲気だった。少し、今までの深住のレストランと違う。ヨーロッパの田舎町にありそうな、素朴な店だった。白いテーブルクロスが掛けられたテーブルの上に、一輪の薔薇が飾ってある。くすんだピンク色の花びらが、薔薇の派手さよりも可愛らしさを演出していた。
 メニューは任せろ、とシェフに言われて、二人は大人しくそれに従った。シェフが独立して三年が経つらしいが、未だに定期訪問の扱いなのだと深住が笑う。
「ここは俺が最初に手がけた店なんだ。あの親父が頑固で苦労したなあ。店の雰囲気は任されっぱなしだったけど、食材にうるさくて、一年目は赤字覚悟だった。とにかく新鮮なものを欲しいって仕入れ値なんか度外視だった。農家に直に仕入れをお願いしたりして――いい勉強だったよ」
 陽は、深住が仕事の話をするときが好きだ。口では迷惑そうなことを言っても、その目は楽しそうで、陽まで微笑んでしまう。完璧主義者のようだが、失敗談も惜しげなく晒して、笑いを誘うこともある。自分とは全く違う世界の話が、陽には面白くてならなかった。
 シェフが素材に拘る理由は、料理を食べてわかった。とてもシンプルな料理だったのだ。例えば、トマトとバジルのパスタ。四つのチーズのピザ。ズッキーニのオリーブオイル炒め。どれもが、少しも凝ったところのない、でも素材を味わうような料理だった。
「なんか、身体にいいものをすごく美味しく食べてる気がする」
 陽がそう言うと、深住が嬉しそうに頷いた。
「俺もこの味に惚れてプロデュースをしようと思ったからね、食材探しは大変でも文句は言えなかった」
 そのとき開拓したルートは今も役立っているしね、と微笑む。深住がゆっくりと微笑むときが、陽は好きだった。精悍な顔が僅かに柔らかくなる。その瞬間、陽はいつも耳の先辺りが熱くなる。
 誤魔化すように飲んだ白ワインは、きりりと辛く冷たかった。


「あら、久しぶり」
 ふいに華やかな声が聞こえて、陽がパスタを絡めていたフォークを止めて顔を上げると、テーブルの脇に美しい女性が立っていた。もちろん、陽の知り合いではない。女は深住に微笑みかけていた。それからちらりと陽を見て、小さく会釈した。陽もぎこちなく、頭を下げる。
「元気そうね。お噂はかねがね。青山にまた新しいお店を作ったんですって? 相変わらず仕事好きなのね」
 少し呆れたような女の声はだが、心配そうでもあった。バッグを持つ手の赤い爪先が目を引いた。整った形のよい爪だ。
「そっちこそ、新しいブランドを立ち上げると聞いてるよ。ご活躍、なによりだ」
 深住が懐かしそうな目で答える。女はそれに微笑んで、じゃあまた、と離れていった。
 思わず問い掛けるように深住を見ると、苦笑をしながら答えてくれた。
「元妻だ。別れて……もう四年になるのか」
 深住の視線が、女の背中を追う。陽は小さく「すみません」と謝った。
「いや、揉めたわけでもないし、円満離婚だったからな。こっちこそ、すまん」
 陽が首を振ると、深住が空になったグラスにワインを注ぎ足してくれた。
「そもそも、結婚そのものが間違いだった――そう言うと彼女に失礼だけど、多分彼女も同じこと感じてると思う。若気の至りとでもいうのかな。でも、それを良い形に変えることが出来なかったのは、俺の責任だ。少なくとも、彼女は努力していたからな。そう考えると、彼女には可哀想なことをした」
 少し伏せられた目には、後悔と言うより慈しむようなものがあった。無骨だが長い指が、そっとグラスの足を撫でる。
 ああ、愛していたのだ、と陽は思った。結果は別れることになったとしても、深住は彼女を確かに愛していたのだ。――もしかしたら、今も。
「まあでも、あいつもかなり強気な女だったし、俺もこんなだからな。そう長く続くものではなかったのかもしれない。実際喧嘩ばかりで、周りには良く呆れられていたしな」
「そんなものですか?」
「そんなもんだよ。ああ、陽は性格的に正反対に近いから、わからないかもしれないけど」
 何度か会った後、深住は「牧谷さん」という呼称から突然「陽」と名前を呼び捨てるまでに一気に色々と飛び越した。それが嫌でもなかったから、陽も抗議はしていない。だが、呼んでいるほうは何でもない顔をしているというのに、陽は未だに慣れずに、それを聞くたびにどきりとしてしまう。その上性質の悪いことに、深住はそれを楽しんでいる風なところがある。
「それにしても驚いた。鞠絵がここに来てるとはな。ここを手がけているとき、随分放ったらかしにして拗ねられたもんだったのに」
 斜め右の深住の視線の先には、何か楽しそうに笑う「元妻」がいた。陽が好きな、温かくて柔らかい、あの目で、深住は彼女を見ている。
 良いにしろ悪いにしろ、ここは二人の思い出の場所なのだろう。「若気の至り」と深住が言ったその時代、最初は赤字も覚悟だったと言うこのレストラン経営を支えた中の一人に、鞠絵もいたに違いないのだから。
 陽は小さなボールに入っているオリーブをぱくりと食べてから、ワインを飲んだ。辛くて冷たい白ワイン。深住と食事をするようになる前は、ワインなんて滅多に飲まなかった。味の違いを楽しむなど、したこともなかった。
 鞠絵の華奢で整った赤い爪を持つ指が、グラスを掴む様子が瞼に浮かぶ。本を触っていることもあって、荒れた手先の自分とは程遠い、美しい指先。
 なんだか無性に飲みたい気分になって、その夜、陽はいつになく深酒をした。


 酔っているだろう、と訊かれて、素直に「はい」と言う酔っ払いなんているのか。深住に笑いながら言われた陽は、そう思いながら「酔ってません」と真面目に答えてみた。だが、直立不動で動かない陽に、深住は苦笑したまま近づいてきた。
 ふいに腕を掴まれて、少し上の顔を見る。ふらふらと頭が揺れたが、意識は腕にばかり集中していた。
 あの大きな手に掴まれている。肌寒い秋の夜に、そこだけ温かい。
「深住さん、手」
 温度を感じたら、心臓がドキドキしてきた。陽は離して欲しいのかこのまま掴んでいて欲しいのかわからなくて、小さな声で呟いた。
「ん? 離したらふらふらどこに行くかわからないじゃないか。これじゃあ電車も乗れないな」
「乗れますよ」
「乗るだけならな。家までは帰れないだろう」
「帰れます」
 馬鹿みたいな反論をしている。陽はそう思いながら、身体の力が抜けていくのがわかった。
 深住が悪いのだ。なんだってこんなにしっかりと腕を掴んでくれているんだろう。なんだって、この手はこんなに力強くて温かいんだろう。
 足の力が入らなくて、腕だけ引っ張られた陽は、ふらりと横に倒れかけた。深住が慌てて腰に腕を回す。
 ずいぶん慣れている。迷惑を掛けておきながら、陽は心の中で深住に理不尽な文句をぶつけた。
 元妻ってなんですか。
 なんだってこんな俺を放っておかないんですか。
 そもそもなんで、間違い電話なんか掛けたんですか。
 抱きかかえられるような格好のまま、陽は自分の靴先を見つめた。背中がなんだか暖かい。
 深住は短いため息を吐いて、陽を引きずりながら歩き出した。こんな酔っ払い、捨てていけばいいのに。陽はそう思ってからすぐ、だめだめ、と首を振った。
 置いていかれたら、泣くかもしれない。いい大人なのに、子供みたいだ。酔っ払うと子供になるなんて、知らなかった。だから大人にはアルコールが必要で、子供は必要ないのだ。そんなこと、今まで知らなかった。
「ねえ深住さん、星が見える」
「陽、星なんて見てないで、ちゃんと歩け」
「だってここで星が見えるなんて知らなかった」
 深住は今度は大きく息を吐いて、立ち止まった。
「俺はおまえがこんな風に酔っ払うとは知らなかった」
「うん、俺も知らなかった。深住さんに元妻たる存在がいるなんて、知らなかった」
 どんな飛躍だと深住が呟く。
「だから酔っ払ったのか?」
「違う。オリーブとワインが美味しかった。ねえ深住さん、耳元で話さないで」
「だったら自分で立って歩け」
 そうしたら、この腕は離されてしまう。腰に回された腕を撫でたら、深住がぎゅっと力を入れた。
「離してもいいか?」
「なんでそんなこと訊くんですか」
「酔っ払いにはお伺いを立てることにしているんだ」
「さっきはお伺いなんて立てなかった」
「さっき?」
「さっきです」
 この状態にしたのは深住だ。それなのに、離してもいいかと訊くなんて、どういうことだろう。
「離して欲しくなかったら、そう言えばいい」
 少しだけ首を捻って陽が後ろを見ると、深住は思ったより真剣な顔をしていた。にやりと笑っていると思ったのに。
「淋しいなら淋しいって言わないと、気付いてもらえないぞ」
 陽はじっと、深住の目を見た。こんなに近くで見るのは初めてで、近くのネオンが反射する瞳の中を覗いた。
「淋しくなんかないです」
 まるで、酔ってないです、と答えたときと同じように陽の声は響いた。
「淋しくなんかない」
 淋しい、と言ってしまったら終わりなのだ。そう思ってしまったら、きっとあっという間にその思いに囚われるに決まっている。ポテトチップスが食べたい、と思ったら最後、夜中でもコンビニエンス・ストアに買いに行ってしまうように、満たされるまで求めてしまうに違いない。ポテトチップスは買ってくれば良いが、淋しさを癒すものは、コンビニといえども売っているのは見たことがない。少なくとも陽は、見たことがない。
 深住は深々と吐息を吐き出して、ほら立って、と陽を真っ直ぐに立たせた。腰から腕が離れていく。すーっと突然寒くなって、陽は僅かに身震いした。
 深住がタクシーを拾う。陽はまた空を見上げて、星を探した。数えられるほどしか見えない星が、ちかちかと瞬いていた。


 翌朝、陽は頭を抱えた。初めてと言って良い二日酔いの所為でもあり、そこまで飲んだ酒が、記憶を飛ばしている所為でもあった。
 深住の元妻と言う鞠絵と会ったのは覚えている。その後、伊勢海老のガーリックソースを食べながら、ワインをやたら飲んだ。その辺りから、ときどき記憶が飛んでいる。店を出た後のことは、全く覚えてない。家までどうやって辿り着いたのかさえ、わからなかった。
 こんな醜態は、今まで一度も晒したことはない。どちらかと言えば、いつも酔っ払いを介抱する役目ばかりだったから、酔った人間がどれだけ厄介なのか、陽は身に沁みて知っていた。
 落ち葉が増えた玄関を、いつもより時間を掛けて掃いてから、陽は館内も少し掃除することにした。頭も痛いが、動いていないと昨晩のことを色々考えてしまう。冷たい水で雑巾を絞り、カウンターを拭く。それから館内のテーブルや椅子を全て丁寧に拭いた。そんなことをしているうちに、午前中は過ぎた。
 午後のお昼近くになって、その日初めての利用者が訪れた。
 重いガラスの扉を開けて入ってきたのは、深住だった。陽はあまりに驚いて、カウンターの中でぽかりと口を開けて立ち竦んだ。
「どうして……」
「陽のお城を拝見しに」
「お城?」
 眉根を寄せると、深住が微かに笑った。
「前に言っただろう? 建築に興味があるって」
 深住は言いながら、ゆったりと周りを見渡した。それから、雰囲気のある、とてもいい建物だ、と頷いた。
 昨晩の記憶の一部をなくしている陽は、どうしていいのかわからなかった。一体自分が何をしてしまったのか、訊きたいが怖くもある。どんな顔をしていいのかさえわからなくて、陽はただ突っ立っていた。
「み、深住さん」
 ようやく覚悟して叫んだところで、小さなロビーで窓を見ていた深住が振り返った。だが、にっこりと笑顔で「どうした」と言われて、陽は言葉を呑み込んだ。
「陽、昼食はどうしてるんだ? どこかに食べに行かないか?」
 深住は憎らしいほど、いつも通りだ。もしかしたら、記憶がない部分なんて大したことしていないのかもしれない、と思うほどに。
 昼休みは交代制で、いつも陽から先に昼食をとる。奥の部屋で事務仕事をしている花江をちらりと見たら、顔を突き出してきて、いってらっしゃい、と言われてしまった。
 住宅街の中には、選べるほど食べ物屋はない。陽は近くの蕎麦屋に深住を案内した。ときどき蕎麦好きの大学教授が来ると、誘われて一緒に食べに来ることがある。どこかこの辺で、と言われて思い出したのはここだけだ。
 深住は決して贅沢な性質ではない。だが、舌が肥えているのは確かだった。
「ん、美味い」
 だから、つるりと蕎麦を食べた深住のその言葉に、陽はほっとした。いつも自分は感激するほど美味しいところに連れて行ってもらっているのに、その自分が連れてきたところで満足してもらえないのは悔しい。
「あの、昨日はすみませんでした」
 深住が二枚目のざる蕎麦を食べ終わったところで、陽は思い切って頭を下げた。何をしたのか覚えていないが、そこまで酒を飲んでしまったことは無礼に違いない。
「いや、楽しかったよ」
 深住はゆったりと笑う。だが、今回ばかりはその笑顔にも、陽は緊張した。
 楽しかった、とは、自分は一体何をしたのか。
 戦々恐々で伺うような陽をちらりと見ながら、深住は残りのつゆに蕎麦湯を注ぐ。陽もどう? と優雅なまでの仕草で勧められて、陽はぎこちなく頷いた。
「あの……俺、何かしましたか」
 どうやら訊かない限り何も言ってくれないらしい。そう悟った陽が口を開くと、深住は面白そうに片眉を上げた。
「なんだ、覚えてないのか」
 深住は時々ひどく意地が悪い。にやりと笑ったその顔は、とても楽しそうだった。
「俺も店を出るまでは気付かなかったくらいだから、大したことはないよ。いつもより喋るなって思ったけどね」
 一体、何を喋ったのだろう。陽は頭を抱えたい思いだった。
 そんな陽を眺めながら、深住はこくりと蕎麦湯を飲んで、ふいに何か思い出したようにくすりと笑った。
 本当に、意地が悪い。
「何ですか。やっぱり俺……」
「いや。また是非飲もうな」
 深住はそう、にっこりと笑った。


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