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半夏生

03
 ――あなたが、いたからです。
 夏目はあの後、もう一度コーヒーの礼を言ってから、すっと頭を下げて自分の部署に戻って行った。紙カップをぺこりと潰して、分別ゴミの中に捨てて。
 言葉の意味が、わからなかった。いや、言っていることはわかるが、それが質問の答えであるところが、わからなかった。
 俺がいたから、この会社に入った――?
 鴇田は夏目のすっきりとした顔を思い浮かべる。どこかで会っているとは、思えなかった。夏目という名前にも、覚えがない。そして、誰かに覚えてもらえるような場所に出たこともない。人事のことなら、寺井のほうが余程その機会があったはずだ。設計開発の、実質的な指導者は寺井だ。ときどき若手の人材開発に、大学などに行くことがあると聞いた。
「課長、佐々木鋼鉄のコイルの納期なんですが……」
 昼休みを終えて席につこうとしたところに、田上が何か紙を掴んで立ち上がった。鴇田は「見るよ」と声に出さずに頷いて坐ったのだが、田上は少し首を傾げ「コーヒーお淹れしましょうか」と聞いてきた。お茶酌み制度は廃止したが、田上は気が向くとそうやって、コーヒーやお茶を淹れてくれる。と言っても、相手は選んでいるようだが。
「さっき飲んだんだが」
「コーヒー牛乳ですか?」
 にっこりと笑いながら、田上が近づいてくる。鴇田はそれに頷いた。コーヒー牛乳とコーヒーでは、やはり違うのだろうか。
「眠そうな顔でもしてるか?」
 ひらりと紙を机に置きながら、田上は「いいえ」と微笑んだ。
「でも、疲れた顔をなさってますよ。少し、ぼうっとしていると言うか」
 それは考えごとをしていたからだ。鴇田は「月末だからな」と言った。決済が集中する月末は、殺人的な忙しさになる。今日も昼休みにのんびりした分、残業は免れないだろう。
 鴇田は田上が持ってきた納期対応表を見ながら、彼女の話を聞いた。尋常ではない数のコイルが遅れるとなると、その後工程の工場にも大きな狂いが出てくる。タイトなスケジュールでやっていることは、十分承知していたはずだった。
「……コーヒー、貰おうかな」
 鴇田の呟きに、田上がふっと笑った。わかりました、と頷く。
 鴇田は田上を席に返して、くるりと課内を見渡した。
「市河!」
 佐々木鋼鉄を担当している市河は、ホワイトボードに直帰の予定を書き込んでいるところだった。そんなところに書かなくても、金曜の彼の予定は、課員全員が知っている。サプライヤーのどこかへ顔を出し、そのまま直帰だ。もちろん、夕食に自腹を切っているわけではない。
 購買なんて、こんなことでもしなきゃやってられない。
 市河がそう公言しているのを、鴇田ももちろん知っている。何度か遠まわしに、そしてここ最近は直接的に注意したが、市河はその「習慣」を変える気はないようだった。毎週が、二週に一度になっただけの話だ。そして、公言を避けるようになった。
「なんでしょうか」
 苦虫を潰したような顔をして、市河が近寄ってくる。鴇田はその表情を無視して、「佐々木鋼鉄のことなんだが」と言った。
「あ、今日、様子を見てこようと……」
 鴇田は納期対応表を見ながら、ふーん、と気のなさそうな返事をした。
「それで?納期に間に合うように交渉してくるのか。それならいいけどな。これが遅れたら、何千万って言う被害が出るってお前もわかってるよな」
 決め付けるように言うと、市河の顔が引き攣った。大方、納期のことは融通してやるから、とでも言って、今晩は佐々木鋼鉄の営業に食事を付き合わせるつもりだったのだろう。唇を、ぐっと噛んでいる。
「報告待ってるから。行って来い」
 鴇田がそう言うと、市河は「はい」と低い声で答えて、部屋を出て行った。田上がこっそりこちらを見て、親指を立ててにやりと笑っている。
 市河は購買に向かないのだ。仕事がまったく出来ないわけではない。それどころか課内でも中の上位の成績を残している。だが、そのずる賢さを直す気がないという、決定的な欠点があった。鴇田は、彼を営業に回すつもりでいる。営業部の中でも一番小規模な、第三営業だから出世とは言えない。きっと市河は、また唇を切れそうなほど噛み締めるだろう。
 こう言った形の部下の移動は、上司の不甲斐なさが原因だと鴇田は思っている。使えない部下を上手く使うのが、上司だ。例えば、寺井のように。お坊ちゃまにどれだけ手を焼いても、使っていく。それが上司の役割だ。
「課長、お疲れさまです」
 はいコーヒーです、と田上が砂糖とミルクがたっぷり入ったカップを差し出した。鴇田はそれを、ありがたく頂戴した。
「良かった。市河さん、私が言ったんじゃ全然聞いてくれないんですもの」
 納期管理は、バイヤーと共に田上の仕事でもある。順調に行われる分は、彼女が全ての書類を捌いて行くのだ。だが市河は、それをただの書類処理としか考えていない。
「田上のおかげで助かったよ。最終チェッカーがいないとやっぱり駄目だよな。ありがたいよ」
 理想は、バイヤーが自分の担当したものの納期管理を完璧にこなすことだ。だが、数ある担当の、その全ての納期期限や限度を管理するのはきつい。だからその零れたところを、田上がフォローしているのだ。
 田上は鴇田の言葉に、はにかむように口元を緩めた。
「もしありがたがって頂けるなら、今度お隣の課長さんと有望若手社員とお昼に行くときは、是非誘ってください」
 田上の口調は茶化すようだったが、鴇田はその情報網の早さに舌を巻いた。女子社員の噂好きは、本気で恐ろしい。
「自分で誘ったら良いだろう。寺井課長は喜ぶぞ」
「夏目くんは?」
 知らん、と鴇田は肩を竦めた。田上はすぐに諦めたのか、席に戻ろうと踵を返した。だがふと思い出したことがあって、鴇田は田上を呼び止めた。
「なんですか?」
「夏目なんだけど、下の名前はなんて言うんだ?」
 自分の下の名前を田上たち女子社員が知っているのかは怪しいものだったが、その鴇田の質問に、田上は考え込むことなく答えた。
「夏目浩輔くん。ちなみに寺井課長は寺井誠課長」
 にっこりと笑った田上は「どうかしたんですか?夏目くんの名前なんて」と首を傾げた。
「いや。ところで、田上は俺のフルネームは知ってるのか?」
「知ってますよ、周吾さん」
 ハートマークでもついていそうな口調に、口に含みかけたコーヒーを吹きそうになる。田上はにやにやと、楽しそうに笑っていた。これでは良いおもちゃだな、と鴇田は軽く手を挙げて感謝の印を示しながら、仕事に戻るよう促した。田上はあっさり席に戻った。彼女は息抜きの限度を、市河よりずっと心得ている。
 夏目浩輔。
 やはり、記憶のどこにもない名前だった。


「まだ帰らないのか」
 支払い処理の書類に目を通していた鴇田に声を掛けたのは、寺井だった。終わるようなら、一緒に飯を食いに行こう、と言う。
 昼飯も一緒に食べたし、寺井には待っている奥さんと子供がいるはずだし、仕事もまだ掛かりそうだ。そう言おうと思って、鴇田は顔を上げたが、結局は何も言わずに頷いた。今朝の会話を思い出した。
 きちんと食事をして、真っ直ぐ家に帰れば、このお節介で心配性な同僚も、安心するだろう。それに、今夜は誰かと飲むのもいい。
 手ぶらで帰ってきた市河を怒鳴ったあとの、錆びついたような味が口の中に残っている。二日遅れるはずだったのを、一日に縮めたからと言って、頑張ったな、と鴇田が誉めるはずがない。市河はそれでも、食い下がった。
 ――でも、向こうもぎりぎりで……。次、コスト下げるように交渉してきましたから。
 ――納期とコストを一緒にする馬鹿がいるか!納期が守れないのに、次回の約束なんてしてくるんじゃない。
 早く帰りたい、と市河が思っているのは感じられた。昔はそれに猛烈に腹を立てたが、最近は脱力感の方が大きい。
 ――出来ないなら、他のサプライヤーを探して来い。次からはそっちで行く。
 ――そんな。佐々木鋼鉄は昔から使ってるじゃないですか。品質もいい。
 ――なに馴れ合ってんだ。そんなだから、滞納を簡単にされるんだ。いいか。次のサプライヤーを探して来い。もちろん、今回の納期も守らせろよ。
 市河は、燃えるような目で鴇田を見た。だが、それぐらいで怯むなら、今ごろ鴇田も課長席になんか坐っていない。早く行って来い、と怒鳴って、鴇田は市河を追い出した。その後、市河はなんとか納期を間に合わせる約束を取ってきて、もの凄く不機嫌な顔でそれを報告してきた。根性はあるのだ。もったいないと、正直に鴇田は思う。
 鴇田はゆるゆると頭を振った。
「疲れてるのか。そう言えば、美声が響いてたな」
「ああ。だから酒は飲ませろよ」
 二人とも電車通勤なのは一緒だが、方向は違う。鴇田は駅前の酒も飲めるおでん屋に寺井を誘った。寺井は「食べ治めだな」と言いながら頷いた。そろそろ、おでんと言うには暑い季節になってきた。
「新開発のメンバー、後は誰だ?」
 席についてすぐ、一通り落ち着くまで、二人は無言でおでんを食べた。その後は、ちびちびと酒を呑みながら、互いの好物をつまみにゆっくりする。何も言わなくても、二人の間ではそう言う飲み方が出来上がっていた。
 二杯目のコップ酒が来たところで、鴇田は寺井に問い掛けた。寺井は数人の、鴇田も知っている設計者の名前を上げた。
「そんな中に、良く夏目を入れたな。あいつ、何年目だっけ?」
「二年目」寺井はコップを煽った。
「それはまた随分……周りもよくOKを出したもんだ」
「そんなに反対の声はなかったよ。こっちも必死なんだ。社運が掛かってるとか、まだプロジェクトの発案段階で上が煩い」
 鴇田は寺井の分の新しい酒と、こんにゃくを頼んだ。
「すっかりやる気なくせに、よく言うよ」
 寺井は、ふんっと子供が照れたような顔をした。
「直接関わるのは、最後かもしれないからな」
「そうだな」
 鴇田はこんにゃくにたっぷりの芥子をつけて、器用に切った。
「誤解すんなよ。どっちに転んでもって話だ」
 ごくりと寺井が酒を飲む。いつもより、ピッチが早い。
「上手く行っても行かなくても、俺はあそこから出される。ま、天国か地獄かの違いだ。いや、どっちにしろ地獄なのかもな」
「……そんな話、もう来てるのか」
「直接には来てない。でも、そう言うプレッシャーはわかるもんだろ」
 芥子が思いのほか効いて、鴇田は酒で口の中を漱いだ。
「で、後任のためにも夏目を育てる、か」
「そういう気が、ないわけじゃない。でも、それより必要なんだよ。あいつはきっととんでもない案を出したりする。新開発には、経験より発想が必要だからな」
「随分、買ってるな」
 寺井は、それに答える前に、大根と酒のお代わりを頼んだ。
「飲みすぎじゃないのか」
「おまえに言われたくないな」
 確かに、と鴇田はそれ以上何も言わなかった。その代わり、自分ももう一杯、酒を貰うことにした。
「ねじ込まれてるんだ。あのお坊ちゃまを、入れろって」
「新プロジェクトにか?」
 寺井は頷いて、出てきた酒を音を立てて煽った。いつにない早いペースの理由が、それでわかった。
「夏目もいれるんだから、問題ないだろうときた。どこが問題ないんだ」
 夏目を入れるなら、お坊ちゃまも入れろ。お坊ちゃまを入れないなら、夏目を外せ。大方そんなところだろう。中堅管理職に、役員に反対する権利はない。
「辛いねえ」
 鴇田の声に、寺井の顔が情けなさそうに歪んだ。鴇田は大根に芥子を塗ってやった。
「夏目と比べるのが可哀想なのかもしれないけどな」
 寺井がぽつりと呟いて、苦笑した。それから、芥子つきの大根に眉根を寄せる。
「泣けるぜえ?」
 鴇田が笑うと、寺井はため息をついてそれを几帳面に四等分して、その一欠けらを口に入れた。
「それにしても、夏目っていうのはそれほど凄いのか」
「まあな。あれは二年目のレベルじゃない。普通、どれだけ頭が良くても、机上の理論なんだよ。でも、あいつは現場のずれとかさ、そういう感覚的なところをわかってる」
 ふーん、と鴇田は相槌を打って、ふと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「夏目ってさ、大学どこ。日本の大学も行ってるんだろ?」
「ああ。四年きっちり出てから、一年だけアメリカに行ってる。本人は遊びになんて言ってるけどな。きちんと論文は書いてるはずだ。大学は、泣く子も黙る東大」
 それなら違う。鴇田は「そうか。じゃあ、実家はどこだ?」と続けて質問をした。
「どこだったかな……東京じゃなかったと思ったけど。なんだよ。お前が人に興味持つなんて珍しいな」寺井が赤くなった顔でにやりと笑った。
「そんなじゃない。なんかどこかで会ってるみたいだからな」
「夏目とか?」
 頷いて、鴇田はコップを煽った。
 あなたが、いたから。あの言葉は、以前から鴇田を知っているからこその言葉だろう。
「それこそ、女を口説く第一歩じゃないか」
「あほか。夏目は男だろ。だいたい、夏目から言ってきたんだ」
 酔っ払いやがって、と鴇田が呆れて隣を見ると、そこには思ったより真剣な目をした寺井がいた。
「なんだっていいんだよ。お前も、そろそろ一人じゃなくてもいいだろう」
「日本語、おかしいぞ」
「鴇田。おまえまだ、さっちゃんのこと……」
 かたり、と鴇田が立ち上がって、寺井の赤く濁った目がそれを追った。揺れる頭にくっついている、動かないその目に責められているようで、鴇田はそれからすいっと無意識に目を逸らした。
「酔っ払いめ。送らねーぞ」
 鴇田は二人分の支払いをして、暖簾をくぐった。寺井は「ごちそうさん」と言っただけでそれ以上何も言わず、鴇田の後を追って外に出た。
 晴れた空に、ちかちかと、懸命な様子で星が光っていた。街から見る夜空は、いつでも必死に明かりを届けようとしているように見える。または、諦めきってしまった光。
 パパお酒くさいって怒られそうだ。寺井はそう言いながら、鴇田の肩に腕を回してきた。
「嫌われちまえ、酔っ払い」
 鴇田の悪態に、寺井が腕に力を入れて抗議する。そうやって駅まで、鴇田は酔っ払いを引き摺っていった。

 
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