夕景
01
――六時予定。
ひどく簡素なメールを見て、夏目は他人にはわからないほど僅かに、口元を緩めた。同じく簡潔に「待っています」と返信すると、もう携帯は震えない。それが了承の印だった。
自分が遅くなるときは、もう一度やり取りがある。夏目の退社予定時刻を送り、鴇田がそれに対してどうするのか返してくる。大概は、近くの居酒屋で待っている、という返事だ。ひどく時間があるときは、帰ってしまうときもある。そのときはまた、夏目が行ってもいいかどうか、伺いを立てることになる。
鴇田はほとんど、拒否しない。もちろん夏目も、無茶なことは言わないし、しない。だから鴇田は断ってこない。
鴇田が自分のことをどう考えているのか、夏目にはわからない。嫌なことは嫌だと言うし、他人に遠慮をするような人間ではないと知っているが、自分についてはその点も怪しいと思っていた。
同情なんかじゃない。
鴇田は、そう言った。だからといって、鴇田が自分にただの好意以上の気持ちを抱いているとは思えなかった。そもそも、鴇田はそれについては何も言わない。夏目をどう思っているのか。一言だって言ったことはなかった。
夏目は小さくため息を吐いた。
先刻から、パソコンの画面は少しも変わらない。どうにもしっくりこない設計図なのだが、どこをどうしたらいいのか良い案が浮かばない。
夏目はコーヒーを飲みに行こうと立ち上がった。
喫煙所には、隣の課の石村がいた。元気だけがとりえだと言う同じ年のこの先輩は、珍しく肩を落として悄然と坐っていた。
「どうしたんだ?」
夏目はコーヒーを手に、隣に坐った。それを一口飲んでから、煙草に火をつけるとようやく、石村が顔を上げた。
「あー。夏目か。いや、別にどうってわけじゃないんだけど。自分の仕事の出来なさに、ちょっとへこんでるところなだけ」
言いながら、テーブルの上に放り投げられていた夏目の煙草に手を伸ばす。とんとんと膝でそのパッケージを叩いて中から一本取り出すと、いただきます、と頭を下げた。夏目は苦笑しつつ、ライターをテーブルに滑らせる。石村の調子のいいところは、夏目が常々羨ましいと思っているところだ。
調子もいいが、真面目で努力を惜しまない人間でもある。直属の上司である鴇田もそこを高く評価しているし、夏目自身も石村の勉強熱心な姿勢を尊敬していた。
「そりゃあ、隣は静かになって良かったと思ってるだろうな」
「夏目え……慰めてやろうとか思わないわけ? そんなことないですよ先輩、ぐらい言えないのか」
「仕事が出来ないなんて、そんなことないですよ、先輩」
セリフの最初だけ力を込めて言うと、石村は情けない顔をして「うーあー」と寄りかかってきた。
石村のことを「石村さん」と呼び、敬語を使っていたのは最初の数ヶ月だった。彼が夏目に、基本設計やら設計図やらの知識を教えて欲しいと請うようになってからは、一週間もしないうちに友人のように話すようになった。石村が「変だろ、なんか」と言ったからだ。
「別にさあ、課長みたいに出来るとは思ってないけど。でも俺、誉められたことないんだよなあ……」
「誉められたいわけ? ガキじゃないんだから」
「あー? 夏目だって寺井課長に誉められたら嬉しいだろ? ん?」
「別にそのために仕事するわけじゃないし」
そうだけどさあ、と石村が煙草の煙を吐き出した。
「なんつうの? 認められたいっつうの ?――いや、おまえは期待されてるからなあ。そんなこと考えないか」
石村の口調には妬みも皮肉も感じられない。夏目が新エンジンの開発メンバーに選ばれたと聞いたときも、石村は自分のことのように喜んで祝ってくれた。夏目が仕事を離れても彼と付き合っていけるのは、石村のこの性格が大きい。
――あいつは向上心も虚栄心もあるような気がするのに、他人と自分を比べないから偉い。
鴇田はそう言っていた。夏目もそれには同意した。
「いや、俺だってまあ、認められたいとは思ってる」
「誰に? 寺井課長は十分認めてると思うぞ」
「そんなことは言われたことないけどな。こんなものが作れると思ってるのか! って怒鳴られてばっかりだけど」
夏目と石村は、思わず顔を見合わせてため息を吐いた。お互い、優秀な上司を持って運が良いというか悪いというか。もちろん、良いことだとは思っている。
「間違いでもなければ理不尽でもないところが、痛いところだよなあ」
ふうっと煙を吐き出す石村に、夏目は頷いて同意を示した。
鴇田の仕事振りについて、夏目は多くを知らない。石村や寺井から聞く情報ばかりだからだが、それでも鴇田が優秀なのはわかる。そもそも寺井は滅多に他人を誉めないが、鴇田に関しては無条件に信頼している感がある。鴇田が承認した材料変更に「無茶言いやがって」と文句を言うことはあっても、付き返すことはない。
あいつが出来ると言うんだから出来るだろ。
言葉にはしないが、寺井がそう思っているのは明白だ。
「石村、残業?」
時計はもうすぐ五時になる。待っていると返したが、夏目も一時間だけ残業しようと決めた。
「うーん。今日はもう何しても駄目な気がする。帰ったほうが良いと思うんだよな。うん。夏目、飲みに行こう」
「なんでそうなるんだよ」
「だから、俺を慰める会。どうしても残業しなきゃならない仕事でもあるわけ?」
「――ちょっと片付けておこうと思った書類があるんだけど」
「急ぎじゃないな。よし、決まりだ」
そんな勝手に、と言おうとしたところで、「いいなあ」と言う声がした。夏目はすっと目を細めて、石村を恨みがましく見た。だが、石村はそんな夏目の視線など気にもせず、さっきまでの鬱陶しい顔が嘘のように、目を輝かせた。
「田上さん! あ、どうですか、一緒に」
「あら、いいの?」
「いいですよー。な、夏目」
「そもそも、俺は飲みに行くなんて言ってないのに」
「どうせ帰っても一人淋しく飯食うだけだろ? いいじゃないか」
「夏目君が来るなら、他の女の子も来たがるかも」
「あのー。俺を慰める会、なんですけど」
「だったら、女の子が多いほうがいいでしょう? 夏目君のご協力に感謝しないと」
逃げられなくなった、と夏目は冷めたコーヒーを飲んでため息を我慢した。
一人淋しく飯を食うわけじゃないんだけど。
そう胸の内で反論してみても、それを言うわけにはいかない。
仕方がない。鴇田にはメールをしよう。
夏目は弾む声を出して仕事場に戻る石村を横目で睨みながら、部署へと向かった。
一体、あれから一時間でどうやってこの人数を集めたんだ、と思うほど、飲み会のメンバーは大勢いた。夏目が知らない顔も多い。ざっと見ただけでも二十人はいるのではないかと思った。金曜の夜なのに、この大人数を収容できる場所を探したのもすごいと思う。どうやら先頭切って仕切ったのは、田上のようだった。彼女を鴇田がとても買っていることは話の端々から伺えて、夏目は僅かに彼女が苦手だった。
もちろん、彼女に非は一切ない。ただ、自分が落ち着かない気持ちになるだけだ。それを嫉妬と言うのか――夏目はあえて考えようとはしなかった。
田上が選んだ店は大衆居酒屋だがカクテルも料理も豊富で、騒いでも少しも気にならない店だった。その上、個室の座敷だ。若手ばかりの今夜の飲み会は、日頃の鬱憤晴らしとばかりにひどく賑やかだった。
「わかってるんだよー。俺が駄目なのは。でも、これなら誰でも出来るんだよ! って、課長きついと思わねえ?」
乾杯の音頭でビールを一気に飲んだ石村は、二杯目で既に酔ったようだった。夏目の肩に肘を乗せて、さっきからくだを巻いている。おかげでそちら側には女の子が寄って来ないので、夏目は正直助かっていた。
今夜の飲み会に女性率が高いのは、田上が先に言った通りなのか。客寄せパンダを演じることについては、夏目はどうとも思っていない。だが、それなら客寄せと言う役割以上は求めて欲しくない。入れ代わり立ち代わり酒を注ぎに来る女の子たちに、夏目は少々辟易していた。
本当なら、今ごろ鴇田と静かに飲んでいたはずなのに――。
「別に、鴇田課長はおまえのこと駄目だとは思ってないだろ。きついことを言うのは、期待してるからだろうが」
「そうかあ? だってさあ、馬鹿、って言われるんだぜ? なんかすげえ冷静に。馬鹿だなあとかじゃなくてっさ。馬鹿、こんなのもわからないのか! って。あのすぱっと言われる馬鹿の一言、堪えるんだよう」
その口調が想像できて、夏目は思わず口元を緩めた。
「まあでも、おまえはきっと良いバイヤーになるって言ってたぞ?」
滅多に出ない同情心が湧いて、夏目がそう言うと、石村がばっと顔を上げた。
「まじで?! いや、でも、そんなこと言うわけないだろ、あの鴇田課長が」
まあ、本人には決して言わないだろう。そう言うところは、寺井と鴇田は似ている。見込みのある人間には厳しく、甘えを許さない。ただし、寺井は「気に入った人間には厳しいんだ、俺は」とフォローを忘れない。だから、夏目も少しは自惚れてもいいかと思うのだ。
大いに自惚れても良いだろ。
鴇田には、そう言われたことがある。自分の部下ではない夏目には、甘いのだ。
――誰に認められたいんだよ。
石村のその問いに夏目は答えなかったが、心の底から願っているのは、寺井はもちろん、鴇田に認められることだった。
寺井と張り合うなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるのだが。
「鴇田課長って言えば、最近変わりましたよねー」
隣の女の子に急に言われて、夏目は思わず横を見てしまった。女の子はすかさずにっこりと笑う。可愛らしい子だ。夏目は記憶を探って、受付嬢だと思い出した。
「あ、私も思った。誰か出来たのかなあって」
テーブルを挟んで向かい側の女の子も話しに加わる。そうなると、辺り一帯の女子社員たちが、身を乗り出した。
「私もー。なんか、小奇麗になったって言うの? 前はもうちょっとだらしない感じだったよね」
髪の長い子がそう言うと、そうそう、と周りが頷く。
「まあそれはそれで、母性本能がくすぐられるって言うか。良かったんだけどねえ」
「私がお世話しますって感じですか、先輩」
「そうそう。ちょっとくたびれたおじさんの色気って言うの? 漂ってたじゃない?」
きゃーと悲鳴が上がって、笑いが起きた。
「それが最近、スーツもきちんとプレスされてるし、よれよれのネクタイじゃなくなったし。顔色も良くなった気がするのよね。ああ、ちゃんと食べさせてもらってるのかなって言うか」
くすくすと笑いが起きて、夏目はビールを煽った。どうにも居心地が悪かった。
鴇田のスーツやネクタイをクリーニングに出しているのは夏目だ。自分が出すからついでなのだが、こんな風にチェックされているとは思っていなかった。
ちゃんと食べさせてもらっている――その辺りは、自分が食べさせているわけではない。ただ、酒量が減ったのは確かだ。それに、前より確実に睡眠時間が長くなっているはずだ。
「私は寺井課長派だなあ」
「そりゃあ、寺井課長もかっこいいけど。でも、結婚なさってるじゃない? やっぱり不倫は良くないでしょ、不倫は。と言うことで、私は鴇田課長派だなあ」
私は寺井課長、私は鴇田課長、と次々に声が上がる。
派閥なんてあるのか。夏目は呆れて何も言えなかった。
「ちょっとさあ、ここにまだ若い青年達がいるのを忘れてない?」
男性社員の声には、やっぱり出来る男は違うじゃない? と返って来る。
「それに、鴇田課長は優しいもの。あのさり気ないところが大人よね」
田上の言葉には、購買課の女性達が頷いた。隣で石村が「俺は苛められるのにー」と泣く真似をしている。
「あら。あれは愛のムチでしょう。期待してるから、厳しいんじゃない。まあ、鴇田課長の場合は、駄目な社員もちゃんとフォローして育てようとしちゃうから、大変なんだろうけど」
「えーと、それは俺は駄目社員かも知れないってこと?」
「だからー。それくらい、自分でわかりなさい」
田上はそう笑う。
「そうかあ。鴇田課長って優しいんだ。怖そうって思ってたけど」
「怖いわよ。しちゃいけないミスしたときとか、何度もミス重ねたりしたときとか。でも、肩身の狭い私たちの味方だなあ、とは思う」
「そうそう。スケベ心満載のくせに、「いつも世話になってるから」とかって飲みに誘うんじゃなくて、ちゃんとごくろうさまって意味で奢ってくれたりね。あれはポイント高いわ。旦那になっても、主婦業とかきちんと労わってくれそう」
「文句とか提案もちゃんと聞いてくれるし。駄目なものはあっさり駄目って言われちゃうけど」
へえ、いいなあ。総務課の女子社員は、羨ましそうにため息を吐いた。
「まあ、あのだらしなさはそれを隠すほどにひどかったけど」
田上の盛大なため息に、くすくすと笑いがさざめく。
夏目はごくごくとビールを飲んだ。
自分の知らない鴇田の一面を知れたことは嬉しい。だが、なんだかひどく、面白くなかった。