夕景
02
お開きという段になって、夏目が酔っ払った石村を引き受けたのは、少なからず計算が合った。飲み屋から夏目の家に帰るのでは、鴇田の部屋とは反対方向の電車に乗らなければならない。だが、石村を送っていけば、鴇田のマンションと同じ方角だ。
夏目は石村をアパートの部屋に放り投げてから、携帯を取り出した。光る画面に映る時計は、深夜を既に回っていた。
コール五回で、鴇田は出た。いつもなら、こんな時間に夏目から電話をすることなどない。
「どうした」
素っ気ない声だった。いつものことだ。それなのに、ひどく気に触った。夏目は挨拶もなしに、これから行ってもいいですか、と言った。遠慮の欠片もない言い方だった。
「構わないが」
これもいつもと同じ返答だった。行ってもいいかと訊けば、どうぞ、と言われる。滅多なことでは断られない。
夏目は「じゃあすぐに」と言って電話を切った。それから、待たせてあったタクシーに乗って、鴇田のマンションまでの道のりを説明した。
右肩をドアに押し付けて、窓の外を眺める。住宅街に点々と灯る街灯が窓の外を流れていった。
――それが、なんでも結婚寸前までいってた人、亡くしたらしいのよ。
あの後、ひとしきり上司の噂話に花が咲いた。その中でも多くの人間が疑問に思っていたのが、鴇田が独身のままでいる、ということだった。それに答えたのは総務で一番古株の女性社員だった。彼女も詳しい話は知らないと言って、それ以上は何も話さなかったが、見かけに寄らず一途なのだと、鴇田の株は再び急上昇していた。
なぜ結婚をしないのか。
そのことを鴇田に問うたことはない。以前石村から、色々あったみたいだぞ、とは聞いていたが、結婚寸前までいった人の話は、知らなかった。
同情でもなく、性癖もノーマルだと言うのなら、なぜ鴇田は自分に抱かれたのだろう。
鴇田は仕事以外のことには、ひどく頓着がない。食事にしても服装などにしても、食べられればいい、着られればいいと言った感じで、まるで気にしない。それの延長線上にセックスというものがあると考えたら――飛躍しすぎか。
でも、そう言った道徳観念が希薄なのは確かだろう。初めて抱くことになったとき、あっさりと頷いた鴇田に、夏目はひどく驚いた。色々勝手に切羽詰っていたときで、思わず零した言葉だったというのに、鴇田は簡単に首を縦に振った。セックスをしたいと言った、夏目に。
タクシーが信号で止まって、夏目はずるりとシートに寄りかかった。顔はまだ、外へ向けたままだ。
鴇田を初めて見たのは、まだ小学生のときだった。あれは二年生か三年生の頃か。鴇田はまだ二十代だったはずで、夏目にとっては十分大人だったが、おじさんではなくお兄さんだった。あの頃の鴇田は、きちんと皺のない、スーツを着ていた。作業着で応対している父親が、ひどくみすぼらしく見えたものだ。
夏目の父――現在のではなく、生みの親――は、石頭に鉄の覆いをつけたような頑固な人間で、その上家庭では常に威張っていた。確かに父親のおかげで飯を食わせてもらっていたのだが、少なからず、少年だった夏目はその父に反発していた。ときには母に手を上げることさえあったからだ。
その父親が、まだ若い鴇田に頭を下げているのを見たとき、だから夏目は父親をひどく憎らしく思った。馬鹿にもした。結局は、弱い人間に威張り散らすことしか出来ないのだと。
今考えれば、父親がそれなりに苦労したこともわかる。社長と呼ばれ、その威厳を保つ方法を間違えたのだとも思う。そして、自分自身もまた、父親に畏怖の念を抱いていたのだとも思う。だからこそ、年下の若い人間に腰を低くして接しているのを見て、失望と共に憎しみが湧いたのだ。だが、当時の夏目はそんなことは露とも思わなかった。
父親が自殺したと聞いたときも、沸き起こったのは怒りだった。逃げたのだ。そう、思った。
その自殺の原因に鴇田が関わっているとは、夏目は当時も今も思っていない。確かに取引先の営業の一人であり、大きな借金を作ることとなった新型機械の導入に深く関わる企業だったが、だからといって、その後立ち行かなくなったことまで鴇田のせいにするほど、夏目は馬鹿ではない。
だが、鴇田がどう考えているのか、夏目にはわからなかった。
まるで蜃気楼でも見えそうだった、あの夏の日。鴇田はやはりぴしっと喪服を着て、父親の遺影に手を合わせていた。震える唇も、つっと一筋だけ流れた涙も、夏目は見ていた。それはしっかりと、脳裏に焼き付いた。
鴇田のことをずっと忘れられなかったのは、その横顔のせいだった。今の会社を第一志望としたのは、鴇田がいたからだ。もちろん、職種がそれを許したせいもある。
当たり前のことだが、鴇田は変わっていた。若造は立派な役付きとなり、ひどく疲れたような顔をしていた。
そんな男のどこに惹かれたのかと訊かれれば、わからない、と答えるしかない。だが、欲しいと思った。それはひどく凶暴な想いで、叶ったときにはひどく安堵した。目覚めてすぐ、隣に鴇田の顔があった朝、夏目は失った何かを再び手にしたような気分だった。
それは一時の安堵だったが、夏目が自分の気持ちを確認するには十分だった。
「お客さん、ここを右でいいのかな」
いつの間にか、タクシーは鴇田のマンションのすぐ近くまで来ていた。夏目は「はい」と答えて、きちんと坐り直した。タクシーは滑らかに大きく、右へ曲がる。身体の中で、アルコールが同じように揺れた。
チャイムを鳴らしてすぐ、ドアは開いた。鴇田はすでに寝間着を着ていた。深夜の訪問を怒るわけでも迷惑がるわけでもない表情に、夏目はなぜか泣きたくなる。鴇田と会ってから、そんな気持ちになることが多い。
情けないにもほどがある。
「怒らないんですね」
スーツの上着を脱いで、緩ませていたネクタイも取る。夏目はそれをソファーにばさりと無造作に置いた。
「もう飲まないよな。コーヒーか茶でも飲むか? で、何だって?」
「水をもらえますか。――だから、怒らないんですね」
鴇田がミネラルウオーターをボトルごと渡す。残り少ないそれを、夏目はごくごくと飲んだ。
「怒る? なんで?」
「こんな遅くに押しかけた」
「もともと来る予定だっただろ」
鴇田は坐る気がないのか、立ったまま肩を竦めた。
「その予定だって、直前でキャンセルしたのに」
石村たちと飲みに行くことになった、と書いたメールに返って来たのは、楽しんで来い、といういかにも年上然としたものだった。
鴇田が小さくため息を吐く。夏目は途端に、居たたまれなくなった。
「偶には若いものだけで飲みに行くのも大事だろう? 情報収集も出世の必須事項だしな。横の繋がりも無駄じゃない」
そこでどんな情報を仕入れてきたのか、夏目はぶちまけてやりたい気分だった。
今でも、あなたは亡くなった人を想っているのか――。
なんとか思いとどまったのは、鴇田の手が伸びてきて、ペットボトルを掴んだからだった。無意識にその手を視線で追う。鴇田は、残っていた水を一気に飲み干した。
晒された喉がいやに白く見える。
「――でも、鴇田課長は寺井課長くらいしか飲みに行かないでしょう? 他に横の繋がりなんてあるんですか」
「あ? 俺は別に出世しようとか思ってないからな。今ぐらいで十分」
がさがさと音がした。ペットボトルを鴇田が捨てたのだろう。
「俺だって、別に出世なんて考えてません」
その背中に向けて言うと、若いうちからそれじゃ駄目だろ、と呆れた声が返って来た。
「俺は、一生図面描きでいいんです」
まるで子供みたいな、不貞腐れた口調だった。やっぱり、酔っているのかもしれない。夏目はふらりと立ち上がった。水をもっと飲みたかった。
キッチンに身体を向けたところで、鴇田の笑っている顔が真正面にあった。とても、楽しそうに笑っている。
「図面馬鹿は本当なんだな」
以前、そう言ったことがある。信じていなかったのか。夏目はそのまま鴇田に向かって足を踏み出した。
「どうした、夏目。酔ってるのか? 珍しいな」
ふらりと身体が揺れたところで、鴇田の両肩を掴む。「水、もう少し飲むか」と言った口を塞いだ。
セックスのとき以外に、口付けることはない。ただ話をしているだけなら、上司と部下でしかないのだ。
一体、自分たちの関係は何なのだろう。
夏目は思う存分に鴇田の口腔を貪った。肩に置いていた手をゆっくりと腰に滑らせる。布が邪魔で素肌を求めると、鴇田の背が軽くしなった。
会う度に、ここに来る度に、抱き合わなくてはならないような気分になる。夏目は決してそれだけを求めているわけではないのに、どうしても。
「何か、あったのか」
鴇田の手は、所在無さそうに夏目の肩を柔らかく掴んでいた。
「何も。ただ、あんたが冷たいだけだ」
冷たい? と反復される。全く自覚などない声だった。
「約束を反故にしても怒らない。深夜の突然の訪問を怒らない。こんな子供じみた言葉にも――怒らないんでしょう」
夏目は鴇田から身を剥がして、ソファーにふらふらと歩いていった。どさりと、そこに身体を投げ出す。
「怒らないことを冷たいって言われてもな……」
鴇田は困惑した表情で立っていた。
「結局、無関心なんでしょう? だから怒らないんだ。今日、俺がここに来たって来なくたって、あんたにはどっちだって大した違いはないんだ」
酔ってる。夏目はそう思っても、この思考の垂れ流しが気持ち良かった。もう、どうとでもなれと大きな気持ちになっていた。
「夏目……」
「あんたは同情じゃないって言ったけど。だったら、なんで抱かれるわけ?」
重たい頭を上げる。鴇田はその夏目をじっと見ていた。薄い唇が僅かに開く。だが、そこから零れたのはため息だった。それは、盛大な。
鴇田はどうしたものかと考えるように、横を向いた。しばらく、沈黙が続いた。
来るんじゃなかった。夏目は突然ひどい後悔の念に襲われた。
大人しく帰って、一人眠ればよかった。
静かな部屋は、それだけで夏目を責めるようだった。
鴇田はもう一度吐息を吐き出すと、僅かに俯いた。
「あのなあ、夏目。俺が若くないことは知ってるだろう? 今更惚れた腫れたなんて言える年じゃないんだよ。わかれよ、それくらい」
夏目は、まるで不貞腐れるように沈んでいたソファーから、ゆっくりと身を起こした。
「鴇田さん……」
「だいたい、この年まで男になんか抱かれたことなかったんだ。それなのに、毎週毎週、下手すりゃ週に二三回。俺が嫌がってるかどうか、おまえが一番わかってるだろうが。――ちくしょう。こんなこと言わせるな、阿呆」
言っているうちに恥かしくなったのか、鴇田の目許が赤くなる。そんな姿は、初めて見た。
「でも、最初も全然抵抗しなかった……」
夏目の少し非難がましい声に、鴇田はため息をついて髪をくしゃりとかき混ぜた。
「まあ、最初は色々考えたさ」
「あれで?」
「あのな……。ああなる前だよ。おまえが青木さんの息子だってわかったのはもっと前だから」
「それで同情じゃないって言うんだ」
夏目はじっと組んだ手を見た。
すっと上げられた横顔を、忘れることはない。そこに一筋流れた、涙のことも。この人は、何故泣いているのか。あのとき、そればかり考えていた。
鴇田はまた小さなため息をついて、髪を掻き回した。風呂上りの髪が、さらにぼさぼさになった。
「……違う、と言っても信じないんだろうが。少なくとも、同情は俺がすべきもんじゃないと思ってる」
髪に手を入れたまま完全に下を向いてしまった鴇田の表情は、夏目には見えなくなってしまった。
「じゃあ――じゃあ、どうして」
「だからさ……まあ、どうとでも考えろよ」
その突き放した言い方に、夏目は思わず立ち上がった。鴇田はまだ、顔を上げない。
「なんですかそれ。じゃあ、ただ憐れんだだけとか、実は欲求不満で、やってみたら男とするのも悪くなかったとか」
「夏目」咎めるように呼ばれて、夏目ははっとして口を噤んだ。それから片手で額の辺りを撫でて、すみません、と肩を落とした。
「まあ、どうとでも考えろと言ったのは俺だからな。別に良いが……」
「良くないです。すみません」
「いいんだよ。――たぶん、理由が欲しいのは俺だから」
え? と顔を上げると、苦笑した顔の鴇田がいた。
「だから、さっき言っただろう? 今更男に抱かれることになるとは思ってなかった。抱くことになっても、驚いただろう。そもそも、こうして誰かと体温を分け合うことは、もうないと思っていたんだ、ま、俺も聖人君子じゃないから、一晩だけの関係ならあったかもしれないが」
話しながら、鴇田はグラスと氷、ウイスキーをテーブルに並べた。夏目は突っ立ったままだった。
肩を叩かれ、ソファーに坐る。鴇田もその隣に、どさりと腰をおろした。
グラスに氷を入れて、なみなみとウイスキーを注ぐ。渡されて、夏目はごくりと勢い良くそれを煽った。かっと喉から胸が焼かれて、くらりと頭が揺れる。
「おいおい、ゆっくり、落ち着いて飲めよ。ここに来るまでに、結構飲んだんだろ?」
「酒に関して鴇田さんに注意されるなんて、思わなかった」
ふっと鴇田が笑う。
「最近は、煩い同僚も、飲み屋のママも、俺をまるで更生したガキのように誉めるが」
確かに、酒量は減った。夏目はグラスをテーブルにことりと置いた。
「一体、どんな女を見つけたんだって、寺井がしつこいくらいだ」
小姑は直りゃしない。鴇田はやれやれと首を横に振る。夏目はその横顔をじっと見詰めた。
「心配するな。寺井は気付いちゃいない。例え知っても、あいつなら大丈夫だろ」
あっさりと言う鴇田は、きっとそれを聞く相手の気持ちなどわからないに違いない。結局夏目は、再びグラスを手に取って煽る羽目になった。
「寺井課長とは、同期なんですよね? その前からお知り合いだったんですか」
「いや。入社式が最初だよ。その後研修で同室になって、ビール何杯かでべろべろに酔っ払ったあいつを介抱したのが、俺」
鴇田がひどく懐かしそうな目をした。夏目はぐいっとウイスキーを飲む。
「でも、俺があいつの面倒をみたのはそれが最後だな。それからは、俺のほうが面倒ばかりかけてる」
鴇田はゆっくりとグラスを口に運びながら、自らの過去を語った。
寺井のことも。そして、噂に出た、婚約者だった女性のことも――。
それは鴇田自身のためではなく、夏目のために語られたものだった。長い言い訳にも似た、だが素直な告白だった。
普段は多くを語らない口から出る、早智子と言う言葉は、夏目に嫉妬を教えた。だが、彼女のことにしても、自分の父親のことにしても、こうしていつまでも忘れられずにひっそりと祈るように彼らを思う鴇田の優しさに、夏目は何も言わなかった。
「あれから、誰かとこうして過ごすことも、一緒に生きていこうと思うこともなかった。いつまで過去に囚われたままでいるつもりか、そう寺井は言ったが、俺にはもちろんそんなつもりはなかった」
鴇田はテーブルに放り出されていた煙草に手を伸ばした。それに火をつけると、ゆっくりと吸う。
「ただ、本当に一人で構わなかったんだ」
ふうっと煙を吐き出しながら、鴇田は夏目の肩に背中を預けた。ぴくりと肩を揺らした夏目の戸惑いは、すっぱりと無視している。その上、もぞもぞと動いて足を肘掛に乗せると、すっかり居座るような格好になった。
「今でも、そう思っているんですか」
いや、と鴇田が言う。
「いや、やっぱり誰かがいるってのはいいもんだと思い出した」
肩に背中を預けられているから、鴇田の顔は見えない。夏目はその頭の天辺を見ながら、泣きそうな気分になった。
「そもそもさ」鴇田はとんとん、と煙草の灰を灰皿に落とした。
「そもそも、俺の気持ちがどうこうより、お前がどうして俺を気に入ったのかって方が不思議だろ。女より男がいいとしても、だ。よりによって俺じゃなくても」
「もともと男に興味がない人間が、受け入れたって事の方が不思議ですよ」
「それにしたって」
鴇田はなぜか引き下がらない。ついでに、寄りかかったままだ。鴇田が煙草を吸い終わって、グラスを手にするのを見ながら、夏目は口を開いた。
「どこがどう好きだとか、どんなところに惹かれたとか、欲情するとか、事細かに聞きたいですか?」
ごほごほと、鴇田がウイスキーに咽た。反動で、背中が離れていく。
「あのな……」
「訊いたのは鴇田さんでしょう?」
だからって、欲情ってのはなんだ、と鴇田は呆れた声を出す。それから、俺相手に欲情ってのもわかんねえ、と呟いた。
「それこそ、鴇田さんが一番わかってると思うんですけど」
わからないなんて心外だ、とでも言うような口調で夏目が言う。
鴇田はしばらく困惑したような、呆れたような視線を向けていたが、やがて諦めたようなため息を吐いた。
「ま、お互い様ってことか」言いながら、立ち上がる。それから、寝室へ入っていくと、中からハンガーを持って来た。それを夏目に向かって、ぽいっと投げる。
「スーツ、ちゃんとハンガーに掛けとけよ」
ずい分遠まわしなお誘いだ。だが、それが泊まりの許可だと、夏目はきちんと理解した。
言葉はいらないのかもしれない。そう、思った。
もちろん、すぐにまた不安になることはあるだろう。それでも、前よりは鴇田を信じられる気がした。
寝室の扉は、開け放たれていた。夏目はゆっくりとその中に進み、そっと、扉を閉めた。
(了)