春の夜を疾走し 03
春の夜を疾走し
03
倉庫での出来事を、結局高居は誰にも言わなかった。もちろん古柴たちも何も言わなかったし、梅野も話すつもりはなかった。二人の怪我を見れば簡単に想像できることでもあったが、互いに関係ないと言い張ったために、教師もなんとか見逃してくれたようだった。ただし、二度目はないと釘をさされた。
「高居? 何してんだよ」
夜中に喉が渇いてキッチンに向かった梅野は、電気も点けずに窓際のソファーに坐っている高居を見て驚いた。
月明かりに照らされたテーブルにはビール缶が乗っていて、外を見ている高居の口からは、煙が吐き出されていた。とてもじゃないが、運動選手として将来有望な高校生のすることではない。それに、今まで一度も、高居が煙草を吸っている様子はなかった。古柴はときどき、吸っているときがあったが。
「おい、そんな……」
梅野のことなど一切気にせず、高居はビールを煽っていた。どうやら二缶目のようで、空缶を灰皿代わりにしている。
「何やってるんだよ」
思わず梅野が腕を掴むと、ひどく面倒そうな顔を向けられた。一瞬、怯んですぐに手を離してしまった。
「梅野には関係ないだろ」
「関係ないって……一応同室だし」
高居は再び外に視線を移して、煙草を吸った。満月なのか、明るい月光が高居のくっきりとした顔を照らしている。整った顔なんだ、と梅野は初めてその顔を意識した。運動選手らしく無駄な肉のない、精悍で少し厳しい顔だった。
「見なかったことにしとけよ。共犯にはならないようにするから」
そういうことじゃない。梅野は軽く唇を噛んだ。運動選手だというのに、そんな身体に悪そうなことばかりしているのがわからないのだ。特に高居は、走ることに対して恐ろしいまでに真剣だった。それぐらいは、梅野も知っている。自分は食堂が開かないときはカップラーメンなどで済ませてしまうが、高居は必ず何か作っていた。最悪でも、弁当だ。
「別に、そんな心配してるんじゃない。ただ、高居、陸上選手なのに……」
高居がどんっとテーブルを拳で叩いて、梅野は口を閉じた。月明かりに濡れたような目が、梅野を睨んでいた。
「関係ないって言っただろ。俺だっておまえの夜中の抜け出しは見ない振りしてるんだ。おまえも放って置けよ」
「高居、気付いてたんだ……」
「週に何度かあれば気付くだろ、普通。お前が夜中に何してようと別にいいけどな。だから、俺のことにも口出さないでくれ」
ショックだった。何かわからないが、ひどく哀しいような気持ちになって、梅野は高居の頭の上を見つめた。まるで泣きたいような気持ちだった。
梅野は水を飲みに来たことも忘れて、くるりと踵を返すと自分のベッドに戻った。ぼすりとその上にうつ伏せる。
何に対してショックだったのか、梅野にはわからなかった。今までだって二人は最低限の接触しかしてこなかったし、無関心を貫いていた。関係ないと言われて、こんなに胸が引き絞られるような気持ちになる理由がない。
ただ、ほのかな憧れを抱いていた。真っ直ぐに走る高居が、眩しくて仕方がなかった。それを、汚されたくなかった。まして、高居自身に。
その夜以来、高居が夜中に飲酒や喫煙をしている姿を見ることが多くなった。梅野は元々宵っ張りの方だったが、高居は朝練をしていることもあって、いつも十二時前には寝ていたのに、日付が変わっても寝ないことが多い。時にはそのまま寝入っていて、梅野は何度か布団を掛けたことがあった。
少しやつれた気がする。
梅野はそっと布団を掛けながら、その顔を眺めた。ソファーに埋もれるように寝ている高居は、身長も高いしガタイもいいので、とても窮屈そうだ。その所為なのか、他の理由があるのか――表情はとても安らかとは言えなかった。
高居が抱えているものはわからない。でも、とても辛そうだった。あの日、喧嘩がしたかった、と言った高居の言葉も、嘘ではなかったのかもしれない。
梅野は軽くため息をついて、重い身体を引き摺りながら自分のベッドに向かった。古柴は相変わらず、梅野の身体を好きなだけ貪る。倉庫での出来事を責めても良かったのに、梅野は結局、それについて古柴と話をしていなかった。二人で会うと、ひどく重くて緊迫した雰囲気になる。口を開けばお互いを傷つけ合ってしまいそうで、結局いつも、何も言わない。
狂っている。この関係は、歪みすぎている。だが、それは今更のことだった。
最近は、そんなことばかり考えて、高居のことも気になって、梅野はあまり眠れていなかった。それが続けば体力がもたなくなるのも当たり前の話で、体育の時間、とうとう梅野はあまりの顔色の悪さに、保健室に強制的に行かされることになった。
一階にある保健室は外からも入れるドアがあり、梅野は一度校舎に入ってから行くのが面倒になって、その入り口に向かった。
からりと引き戸を開けて声を掛けようとしたとき、梅野は話し声がすることに気付いた。それで遠慮がちに頭をのぞかせようとした。
「だから、もう走れないんです」
きっぱりと響いた声は、高居の声だった。梅野は戸に手を掛けたまま、動きを止めた。
――走れない? 高居が?
「高居……それだけじゃ、わからないんだが」
困惑した保健医の声がした。いつも飄々とした感のある原澤にしては、珍しい声色だった。
「とにかく、医者に止められてるんで。あまり激しい運動はするなって。調子のいいときは少しくらい授業も参加できると思うんですけど」
「それはさっき聞いた。だから、その理由を話せって言っているんだが。おまえ、その調子で日下さんとも話したな。石神さんにも言ってないようだし……。まあいい。埒あかないな。それ、診断書だろ?」
がさがさと音がした。梅野はこのまま盗み聞きは良くないと思いながらも、これが高居が毎晩のように飲酒喫煙をしている理由なのだと思って、動けなかった。
何かがあったとは思った。だが、走れないとは――。
「――心臓?」
足じゃないのか、と呆然とした原澤の声が聞こえた。梅野も驚いて、顔を上げた。だが、棚に阻まれて、部屋の奥は見えない。
「――五年前に、兄を亡くしました。子供の頃に同じ病気にかかっていたので、俺も検査して――後遺症が残ってる可能性があるって言われて」
「それまでも検診はあっただろう?」
「ええ。ただ、ちょっと特殊な感じだと言われました。成長期が関係してるんじゃないかって。ただ、兄は変調があってから、誰にも言わなかったし、病院も行っていなかった」
「良く、すぐ止めるように言われなかったな」
「頼み込んだんです。色々条件呑んで。そもそも、俺はまだ完全に発症していなかったし」
「今回のことも、条件の一つか」
「はい。ドクターストップがかかったら、すぐ言うことを聞くこと。――もう、これ以上は薬でも駄目だろうからって」
原澤の長いため息が洩れ聞こえた。
「だから、スポーツ特待も蹴ったのか」
「そんなことも知ってるんですか」
「俺にも一応関係してくるからな。そう言う生徒の体調管理も仕事のうちだから」
「いつこうなるかわからなかったんで……三年、持つと思ったんですけどね」
高居が呟くように言った。
梅野は頭ががんがんとしてくるのがわかった。唇が勝手に震えて、それを押さえるように手で口を元を覆った。
走れない?
もう、高居は走れない?
あの、真っ直ぐに駆け抜ける姿が見られないというのか。
「――せめて、石神さんには言うべきだと思うが」
「それはもう少し、待ってもらえますか」
「高居……」
「俺、見た目こんなに元気なんですよ。どこも、痛くなんかない。それなのに――走れないって」
怒っているような、泣いているような、震えた声だった。
薄暗闇の中、月の光に照らされた高居の横顔を梅野は思い出した。暗くて、どこかぽっかりと開いた穴のような目をしていた。
あれは、絶望だったのか――。
梅野はふらりと保健室から離れた。泣くべきじゃない。そう思ったのに、どこかで泣き喚いてしまいたかった。
結局、体育の時間中、梅野は天文部の部室にいた。時々、許可を取って夜中に天体観測をすることもあるために、部室には毛布が置いてある。それに包まって、窓から山を眺めていた。
寝ることはできなかったが、体育をしなかった分、体力は温存できて、なんとか放課後まで授業をこなした梅野は、図書館に寄ってから、部には出ずに部屋に帰ることにした。
校舎と校庭を結ぶ大階段を右に回れば、東寮に続く道がある。そこを歩いている途中で、制服のまま立ってグラウンドを眺めている高居を見つけた。黒のコートのポケットに両手を突っ込んで、じっとトラックを眺めている。梅野は立ち止まって、斜め後ろから、低い垣根越しにその高居を見つめた。
目の前を、陸上部の生徒が競技用具を運んでいく。その中の一人が、高居の脇を通り過ぎるときに立ち止まった。梅野と同じクラスの生田だった。生田は両手にハードルを抱えている。
「高居、なんで制服なんだよ」
「今日はサボり」
「はあ? ずるいなあ。今日、一斉マラソンの日じゃないか。おまえ、この間もサボってただろ?」
俺、長距離嫌いなんだよ、と口を尖らせた生田の靴を高居は軽く蹴って、そんなこと言ってるからタイムが上がらないんだ、と言った。
「そりゃあ、冬のこの地味ーな練習が大事なのはわかってるけどさ。つまんねーじゃん」
「地味でつまんないからこそ、春にタイムが上がってると嬉しいんじゃないか。努力しろ、努力」
「サボる奴に言われたくないなあ。大体どうしたんだよ、陸上馬鹿のおまえが」
腹でも下したー? と笑う相手に、高居は「違うよ」と苦笑を返した。
「風邪かー? 早く治せよ。今度ラグビー部に混ざりに行く予定なんだから。聞いた?」
「聞いた。大庭がしごいてやるって、異様に気合入れてた」
目を合わせた二人は、やれやれと首を振る。しごくのは一年だけにしてもらうぜ、とハードルを抱えたままの生田が空を仰いだ。
「あれに思いっきりぶつかって来られたら、マジ吹っ飛ぶよな」
「そう言う練習は別にしなくてもいい気がするけどな」
「大庭だし」
「ラグビーするなら、とか言いそうだ」
二人が笑いあっていると、遠くから誰かが生田を呼んだ。陸上部の部長だ。生田は「げ、怒られる」と言いながら、慌ててハードルを置きに走り出した。
梅野は二人が話している間ずっと、動けずにいた。高居がどうしてあんなに普通に生田と話しているのか、不思議だった。
もう、走れないのに。
それなのに、どうしてあんなに笑えるのだ。
もうすっかり、折り合いをつけたのか。そう思ったが、原澤と話していたときもまだ、高居は石神に話すことも待って欲しいと言っていたのだ。
どこも痛くないのに、走れないなんて、と。
実際高居は、まだ落ち着いたわけではないようだった。その夜もまた、高居は酒を飲み、煙草を吸っていた。そしてそのまま、ソファーで眠ってしまっていた。
こっそりと部屋に戻った梅野は、窓際のその姿にため息を零した。テーブルの上のグラスに灰皿に盛られた煙草。最初は異様に映ったはずの光景に既に見慣れてしまったことが、なんだか哀しかった。
高居のスペースに勝手に入って、布団を持ってきて掛ける。煙草の匂いに混じって、ウイスキーの匂いがした。かなり自由があると言っても山の中の寮生活だ。ビールよりも持ち込みやすくアルコール度数も高い酒に、高居は最近変えたようだった。それにしても、これではいつばれてもおかしくない。喫煙、飲酒とも、厳しい処置が待っているはずだった。監視付き謹慎、または停学で、それらが体に及ぼす害についての詳細なレポートも書かなければならない。
それでも、高居はここに逃げ込むしかなかったのだろう。梅野はそっとその寝顔を見つめた。
あの後、高居は走っていく生田をしばらく見ていた。もう笑顔は消えて、無表情になっていた。それから、トラックに視線を移して、やはりしばらくそこを眺めていた。じっと、立ったまま。身動ぎもせずに。
梅野もその高居をしばらく見ていたが、それ以上はそっとして置こうと、足早にその場を去った。だから、高居がいつまでトラックを見ていたのかわからない。
高居はきっと、この部屋の中だけで、夜の闇の中だけで、苦しんでいる。どうしようもない気持ちを、酒と煙草で紛らわせようとしている。それでいて、朝になれば平然と学校へ行くのだ。そして、部活が出来ない理由を「風邪」だと言われても、笑うのだ。
「馬鹿な奴……」
梅野は小さく呟いた。苦しいならそう言えばいいのに、辛いなら喚けばいいのに。どうして、平気な振りをするのだろう。
高居はきっと、折り合いがつくまで、こうして一人で苦しむのだろう。そして、いつか本当に平気な顔をして走れないことをみんなに告げるのだろう。誰にも、この辛さを見せずに。
ひどく辛そうに眉根を寄せて寝ている高居の頭を、梅野はそっと撫でた。
馬鹿だよ。
こんなに、辛そうなのに。眠っているときでさえ、苦しんでいるようなのに。
なんとなくそっと額を撫でると、心持ち強張っていた顔の表情が柔らかくなった気がした。梅野はもう一度、そっと指で額を撫でた。
眠っているときでさえ。そう思ったが、実際は、起きて学校にいる間は、高居は辛そうな顔をしないに違いない。クラスが違うから授業中などはわからないが、少なくとも、自分が見かける高居は以前と変わらなかった。
それに比べて、自分は見事に日下に心配を掛けた。クラスメートにも心配されて、掃除の免除までされるところだった。
古柴とのことは、自分が蒔いた種だと言うのに。
今夜だって、結局断れなかった。夜になって携帯に古柴からメッセージが入って、梅野は体調が悪いと断ってみたものの、それならそっちに行くと返信されて、ため息しか出なかった。最近の古柴は、油断できない。来ると言うなら、来るのだ。
行ってみれば携帯に収められた写真を見せられた。とてもじゃないが他人に見せられるものではないものばかりで、梅野は唖然とした。最初の時に撮られた、ズボンが下りた状態でぐったりしている写真などよりよほど酷かった。例え抱き合っていたことがあったとしても、智にも見せられない。蒼白になった梅野に、二度と断るなと、古柴は言った。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。最初は古柴も、いい遊びを見つけたとでも言うような感じだったのに。だから梅野も、徹底的に抵抗をしなかった。智に似ていて、でも遊びの古柴――。一時だとしても、淋しさを忘れられるかもしれないと、あのときは思った。
弱いのだ。ひどく。
梅野はぐっと唇を噛み締めた。自分が情けなくて、仕方がなかった。