初嵐
03
「誰かとって、俺とも飲みたくない気分?」
春日はどうしても自嘲気味に笑うことしか出来なかった。バーに入って、目にした光景が頭から離れない。男に誘われて、慣れた風にあしらう真己は、どこか
知らない人のようだった。
真己を責めるところは何もない。誘いに乗っていた訳でもなく、断っていた。ただ、ようやく少しは追いついたと思ったのに、やはりこの歳の差は縮むことが
ないのだと思い知ら
されただけのことだ。
「聞いていたのか……。声、掛けてくれれば良かったのに」
真己の言葉に、春日は目を伏せた。ため息が、こぼれ出る。あのとき声をかけることができたら、今こんなにも落ち込んではいない。
真己の手がすっと伸びて来て、腕を掴んだ。今にも逃げそうな春日の気持ちを察したかのようだった。
「バーで飲むのは、また今度にしよう。レストランは、行くよな?」
少し伺うような声に、春日は頷いた。ほっとした雰囲気で歩き出す真己の後をついて行く。レストランはすぐ近くにあるらしい。
洗練された雰囲気のレストランに、春日はスーツを着て来て良かったとため息を吐いた。そのため息に、真己が心配そうにこちらを見るが、なんでもないと春
日は首を振った。
食事はワインを楽しむためと言った感じのタパスだった。生ハムやチーズ、オリーブや野菜の揚げ物、魚介のマリネなど、数種類のタパスを選ぶことができ
る。がっつりと食べることが多い春日にとってみれば、目新しく楽しい。今や真己と生活圏は一緒だと思っていたのに、春日の知らない店を真己は多く知ってい
る。
「あんまり気取るのもどうかと思ったけど……。やっぱりお祝いだからさ」
真己は「二十歳おめでとう」とグラスを掲げた。春日も照れくさい気分で、お礼を言う。
「はたちかあ……」
しみじみと言われて、春日は苦笑を返すしかない。まだ二十歳、もう二十歳、そのどちらをも滲ませたような声だった。
二人とも、穏やかに和やかに食事をしたが、何か腹に一物をもっているような、微妙にぎこちない空気が流れていた。言いたいことがあるのに、言えない。春
日にとっては、まだ消化しきれずにどう言えば良いのかわからない、と言ったところだった。
だが、真己は何を思っているのだろう? 春日には全くわからず、やはり大人の方が良いなんて思っているのではないかと、詮のないことを考える。
目の前の真己は、既にお酒を飲んでいたこともあり、ほんのりと顔を赤くしている。美味しそうだな、と春日は正直に思った。そう言う色気があるのも、大人
だと思う。
春日は目の前のワインをこくりと飲んだ。お酒を飲みに来たとは言えグラスワインにしたのは、二人ともあまりゆっくりせず、家に帰りたかったからだろう。
「春日は、酒飲んでもあまり変わらないな」
「グラス一杯じゃね」
そう笑うと、苦笑がかえってきた。
「だからって、大学で無理な飲み方とかするなよ」
心配そうな視線が甘い。頬杖をついてじっと見つめてくる真己に、春日は素直に頷くよりなにより、触りたいと思うこの衝動をどう収めるかの方が問題だっ
た。
「どうした? 美味しくない?」
食べるのを止めてしまった春日に、心配そうな目をする。外で二人で飲むと言うのは、こうした我慢の積み重ねになるのか、と春日は学んだ。
「いや、うまいよ。少しずつって言うのも、食べて飲むたびに、なんかワインの味も違う感じで面白い」
春日の言葉に、真己はほっと顔を緩めた。まったくもって、ため息をつきたくなる。そんな顔をされたら、机一つ分の距離がもどかしくなる。
「楽しんでくれてるならいいけど。でも、なんて言うか……。帰りたい?」
長い付き合いだ。春日の気持ちなどお見通しなのだろう。でも、それが一体どこまでなのか、その表情からはわからない。
「正直言えば。料理もお酒も美味しい。でも……」
手で触れるには、どうしても不自然にならざるを得ず、春日はこつりと足先を触れ合わせた。
二人きりになれれば、どこでも良かった。春日に、してみれば。
でも、触れれば止まらないこともわかっていたし、抱き合えばどちらに負担がかかるかなど分かりきっていた。だから、二人は口数少なく、真己の家に向かっ
た。
「なんで笑ってるんだよ」
玄関先で抱きしめると、真己はにやけたような顔をしていた。含みのある表情に、春日も訝しげに目を細めた。
「やっと二人で飲めるようになったなーって思ったのに」
「……真己が悪い」
「俺?」
そう、と耳元で囁くと、腕の中の身体がぴくりと震えた。
さすがに玄関先でいたす訳にも行かない、と靴を脱ぐ。
「なんで俺が悪い訳?」
「あんな大人の雰囲気で、言いよる奴をあしらったりしてさ」
不貞腐れた声になったことは、許して欲しい。追いつきたいとは思っているが、背伸びばかりしても碌なことにならないと、今までの経験でもわかっている。
古い日本家屋の真己の家には、ベッドがない。畳の上は痛いとわかっていてもでも、二人は布団を敷くひまを惜しんで倒れ込んだ。真己の上に乗った春日は、
その頭を抱えるようにして口づける。早急で激しいキスに、真己が両手を伸ばし、春日の頬をそっと挟んだ。
「……上手いのは、あしらうことだけだよ」
真己の顔は真っ赤だった。いまだに、激しいキスに慣れない。どうしても恥ずかしさが先立って、震えながらしかその顔を自分に寄せることができない。
そう、わかっている。真己を何度も抱いている春日だからわかる。あんな大人に身を任せたことなどないのだと。そんなことに、慣れているわけがないと。
春日はされるがままに、唇を重ねた。でも、焦れったくなって舌を絡めたのも春日だったし、我慢がきかずに服の中に手を差し入れたのも春日からだった。
大人のくせに、抱き合う時だけ初心な子供のような反応をする真己が悪い。だから、春日は欲望を堪えきれない。そして結局、ことセックスに関しては、二人
は全く大人になった気はしないのだった。
「俺だけが悪いって言われるのは、癪に障る」
一度思うままに抱き合い、さすがに背中が痛い、という真己に謝りながら、布団を敷く春日の背中に、そんな呟きが聞こえて来た。
「なんで?」
ほら、と敷かれた布団を叩くと、真己はひどくけだる気に起き上がり、しかし立ち上がることなしにずるずると布団まで移動してきた。
「お前だって、女の子に誘われてただろう?」
布団は二つをくっつけている。いまだ一緒に住むことに頷いてくれない、真己の意思表示の一つで、ベッドが置ける板の間も部屋もあるのに、そこは倉庫のよ
うになってしまっている。
いつか、近いうちにそこにダブルベッドを入れてやる、というのが目下の春日の目標だ。
言われた台詞に心当たりのない春日は、真己を抱え込もうと伸ばした手を宙に浮かせてしまった。
「女の子? 誰?」
「俺が知るわけないだろ」
背中を向けている真己の後ろからそっと抱いたが、その腕の中の身体は、いつものように力が抜けない。軽く言っている口調とは裏腹に、結構気になっている
ようだ。春日は少し真剣に考えてみた。
ふと思い出したのが、今日のバーに行く前に会った大学の同級生のことだった。あれを見ていたのか、と苦笑が漏れる。
「駅前でのことだったら、正直に言えば、飲みに誘われたし、たぶん少し好意を持ってくれているかも、とも思うけど。誘いに乗るつもりはなかったし、遠回り
にだけどその気はないって伝えたよ」
目の前の肩の力が、ふっと抜けた。伝わったとほっとしたものの、身体を預けることはしない真己に、顔を覗き込んだ春日は自分が勘違いをしたことを知っ
た。
真己は、ひどく透明な目で春日を見た。澄んだ、決意を込めたような目で、春日はなぜか焦燥感にかられた。
「真己……?」
呼ぶと、ふっとその顔が綻んだ。だが、やはりどこか遠い場所にいるような表情だった。
「……俺はどうしても我慢できなくて、春日に手を伸ばしたけど。そのときから、覚悟はしていたんだ。覚悟をしない限り、手を伸ばしちゃいけないと思って
た」
「覚悟って……」
「いつか、春日に彼女が出来るかもしれないってことだ。いつかは結婚して、家庭を築いて……そういう未来があるってこと」
春日はあまりに静かに語られた勝手な未来に驚いて、一瞬言葉がなかった。それから、あんまりだ、と思って、真己から離れてごろりと仰向けになった。
大人になりたい、と思っていた。でも、真己のように考えることが大人だと言うなら、まだもう少し、子供でもいいと春日は思った。
「言っとくけど」
ひどく腹立たしい気分で、春日は天井を睨んだまま口を開いた。
「俺だって覚悟したよ。覚悟って言うより決意って感じだけど」
真己の顔が自分の方を向いた気配がして、春日も首を回した。怒った顔のまま、腹立たしいほどに整った真己の顔を見た。
「おじさんが亡くなった後で、真己は一人になったときだったから。だから、俺が家族になるって、決めた」
当時も今も、まだ親のすねを齧っている身だ。でも、真己が勝手に春日の未来を見たように、春日は二人の未来を見た。そっと、その頭を抱きしめる。
「だからさ、いつか、真己が覚悟しろよ。同じ覚悟なら、俺と家族になるって覚悟にしろ」
一緒に住むことを嫌がるのは、隣に春日の親がいるからだ。二人には、まだ話していない。でも、春日は話す覚悟も、話さなければいけないという思いもあ
る。二人の関係が、いつか終わるものと思っていないからだ。
「真己……?」
大人しくなった腕の中の身体に、春日はゆっくりと顔を覗き込んだ。でも、真己は顔を俯けて逃げている。
「何で泣いてるんだよ」
震える肩をゆっくり撫でる。口調はぶっきらぼうだったが、ひどく甘い響きになった。そっと頬を手のひらで覆い、そのまま、春日は柔らかく口づけた。
「春日のばーか」
唇が離れた途端、小さく呟かれて春日は首を傾げる。
「まったく、男前になりやがって」
赤い目が、睨んでくる。でも、春日は頬が緩むのを我慢できなかった。
「お褒めの言葉をいただき嬉しい限りです」
笑ったままそう言うと、真己もつられたように笑った。それから、ゆっくりと、今度は真己から口づける。
それが、真己の答えだった。
いつか、覚悟をする。
その一歩だった。
了