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風の匂い
03
どうして保父なんてまだ珍しいものになろうとしたのか、俺はあまり覚えていない。ただ、子供は好きだった。
思えばこれも春日の所為なのかもしれない。
春日と会ったのは俺が小学校四年の頃で、春日はまだ三歳だった。隣に家が建つことは知っていて、俺はそれを毎日飽きずに見ていたのを覚えている。ときどき春日の両親が来ていたが、春日に会ったのは引越しのときだ。
弟ができたようで嬉しかった。その頃にはもう、母親が亡くなってかなり経っていて、自分には弟も妹もできないとわかっていたからだ。それを言えば父親を困らせることも知っていた。最後まで、父親は母を愛しつづけていたことを、誇りにも思う。
そのときから、自分も子供だと言うのに、子供は可愛い、と刷り込みのように思っていた。実際春日は今では別物のようにすくすくと育ったが、あの頃は女の子のように可愛かった。零れるんじゃないかと本気で心配した大きな目も。
「真己せんせー、さようならー」
笙太が満面の笑みで手を振っている。俺もにっこりと笑って手を振り返すと、ちぎれるのじゃないかと思うほどに振り返された。可笑しくて笑ってしまう。
春日は、「ばいばい」の時には泣いてばっかりだった。両親が迎えに来ても、俺の服の裾を持って、離そうとしなかった。幼稚園では俺が迎えに来るとすっ飛んできて、「真己ちゃんが一緒だと楽ねー」とおばさんには言われていた。
可愛かったな。
ひたむきに俺の後を追う春日が、可愛くて堪らなかった。
いつから、その思いのあり方を俺は間違えたのだろう。
苦々しい思いを、俺はため息と一緒に吐き出した。
「上柄先生?疲れてらっしゃいません?」
同僚の保母の先生が心配そうに顔を曇らせた。大丈夫ですよ、と笑って見せたが、その顔が晴れやかとは言いがたいとわかっている。
「でも、あまりご無理なさらない方がいいですよ?色々、大変だったでしょうから」
彼女が父親のことを言っているのはわかった。でも、それだけがため息の原因ではない。それなら、子供達を見ているほうが気も紛れるし、立ち直りも早い気がするのだ。
そうじゃない。ここにいて疲れてしまうのは、春日のことを思い出すからだ。あの夜、驚いて見開かれた春日の目が頭から離れない。
きらきら光る子供の目が、俺を責めている気がしてならなかった。
五月の終わり、庭の深緑が眩しい日曜に、俺は庭の木々に水を遣っていた。追々手入れのことは不破のおばさんにでも聞こうと思っていたが、それまでも水遣りだけは欠かさないでいようと思ったのだ。
遣ってみると案外楽しい。日曜の朝には相応しい、清々しい空気が生まれるのがわかる。
きいっと古い木戸の音をさせて、誰かが敷地に入ってきた。ホースを手に持ったまま、首だけ玄関の方を向けると、よお、と笑った春日がいた。
あの夜以来、春日に会うのは久しぶりだった。
一緒に、虎太郎もいる。尻尾をちぎれんばかりに振る様子は、大きな犬でも可愛い。散歩の帰りなのだろう。
「虎太、水飲むか?」
俺が笑いかけると、嬉しそうに虎太郎は吼えた。春日が仕方がないと紐を外すと、俺に襲い掛かってきた。
それは本当に、襲い掛かるという言葉が一番相応しかった。
「うわっ。ばか。虎太、ちょっと待てよっ」
飛び掛った虎太郎に春日も驚いて慌てて駆け寄ってくる。そのとき手にはホースを持っていたのを、俺はすっかり忘れた。
「虎太郎!うわ、真己、水っ。冷てーよ」
「そんなこと言っても、虎太どうにかしろっ」
なんとか春日が虎太郎を捕まえて再び紐をつける。それから、虎太郎は濡れた身体を思い切り震わせた。春日はもう諦めたように顔を背けただけだ。
「最悪だな、おまえ。なんで急に飛び掛るんだよ」
春日が呆れてため息をついている。俺も水がかかったが、春日はびっしょりだ。
「久しぶりに春日に散歩してもらえて嬉しかったんだろ」
思い返せば、虎太郎は最初から興奮していた。それはもう嬉しそうに。
「虎太置いて、シャワー浴びろよ」
「ああ、家で浴びるからいいよ。それより真己は怪我ない?」
「大丈夫だよ」
俺が苦笑すると、ほっとしたようだった。寒い、と言いながら虎太郎を引っ張って家に向かう。何しに来たんだか、と俺が思っていると、ああそうだ、と振り返った。
「おふくろがケーキ焼いてさ。食べ来いって」
不破のおばさんの今の趣味は洋菓子作りらしい。でも、おじさんと春日だけではそれは消化しきれないのだろう。
そして、この一人暮らしには大きすぎる家に一人残された俺を、気遣ってくれているのもわかる。
「わかった。すぐ行くよ」
俺は着替えだけ済ませて、春日の家に向かった。しんと静かな家に途惑って、春日を探す。春日はまだバスルームにいて、脱衣所のドアを開け放したままだったから、名を呼びながら思わず覗いた。
「おじさんとおばさんは?」
「出かけた。ちょっと待ってて。すぐ済むから」
ばさりと脱がれたその上半身に、どくりと身体の血が巡ったのがわかる。幸い春日は洗濯機に向かっていて、俺の表情は見えないはずだ。
筋肉のついた、綺麗な背中だった。スポーツなどしてないだろうに、焼けた肌は健康的で、滑らかだった。
触りたい。
俺は知らず舌で唇を舐めていた。
「おまえ……結構しっかりしてんな。鍛えてんの?」
「あ?別に。ときどきバスケ部の友達に筋トレとか付き合わされるけど」
春日はそう言いながら振り向いた。
「何?ストリップ見たい?」
それは見てみたいが、自分の理性に自信のない俺はにやりと笑って「子供の見てもなあ」と嘯いた。
「子供ってな……俺ももう十八ですよ?」
「あれ?ああ、そうか先月誕生日か」
「ひでー。忘れてた?そう言えばプレゼント貰ってないよなあ」
そんなものはここ数年あげてないだろう、と俺は思ったが、それならあげようか、と口は滑っていた。
触りたい。
その背中に、手を滑らせて見たい。
腰に置かれた腕にも、触りたい。
―――抱き締められたい。
にやりとふざけた笑いを口に乗せながら、俺はどこかでまた後悔するぞ、と必死な自分を見ていた。
唐突に、あの夜の柔らかく温かい唇が思い出された。
すっと、少しばかり俺より高い位置にあるその肩に手をのせる。それから、俺はゆったりと微笑んだ。
春日は毒気が抜かれたように突っ立っている。逃げればいいのに、肩の上の手を振り落とすこともしない。
馬鹿だな。逃げろよ。
俺はどうにも出来ない自分が怖くて、心の中で春日を責める。
肉厚の唇が、何か言葉を発しようと震えたとき、俺はそこに自分の唇を重ねた。
シャワーを浴びる前の、春日の匂いがふわりと漂った。微かに煙草の匂いが混じっていて、俺は目を細める。
「ハッピーバースデー」
そう言って、唇を離す。これ以上は本気でやばかった。
春日が、目を丸くしたまま、口を開きかける。それが怖くて、俺はくすりと笑った。
「はやくシャワー浴びないと風邪ひくぞ。それとも、足りない?」
冗談にしてしまえば、自分が苦しい。そんなことはわかっていたが、春日の口から発せられる言葉の方が怖かった。
「コーヒー淹れてるから」
俺は笑ったまま、そう言ってそこから逃げ出した。
その背に、春日の視線を感じたまま。
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