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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た 第二話
01
 春の麗らかな陽射しを浴びていると、植物館で眠りたくなる。
 樹はそう思いながら、でも、春は最も忙しい季節なのだと腕まくりをした。これほど晴れるとは思っていなくて、今日は体育着のポロシャツを持ってこなかった。寮に戻るのも面倒で、水遣りだけだからと制服のシャツのまま水道に向かう。
 そう言えば、あそこにぽつりと咲いていた菫を植え替えなければ、とふと思い出して、小さなシャベルも手にした。あの外水道の横に咲く菫が、まだ潰されていなければいい、と思った。
 ふらふらと水道に向かったところで、ふと足を止める。思わず「あっ」と声を上げそうになってでも、寸でのところでそれを飲み込んだ。
 菫が、いまにも踏む潰されそうだったのだ。
 でも、歩き出したその人物は、ふっと下ろしかけた足を空中で止めて、菫の手前に下ろす。鮮やかな赤いシューズだった。
 それから、ふっと笑って、水道に手を伸ばすと、片手に水を汲んだ。それをそっと上から、ぽたぽたと垂らして、菫に水を与えている。
 樹はそこから動けずに、ただじっとそれを見ていた。
 あの菫は、もう植え替えられないと思った。きっとすぐに踏まれてしまうだろう。でも、あんな顔で水を遣った人物を見てしまったら。
 そこで健気に咲く菫は、そこになければならないのだと、思ってしまった。
 遠くから、彼を呼ぶ声が聞こえる。それに大きな声で答えながら、ひょいっとその菫を今度は跨いで、走り出した。
 その赤いシューズが、とても印象的だった。


 九重大附属高校は全寮制の山奥の男子校で、だから校内で手っ取り早く欲求不満の解消相手を探そうと言う悪癖が、もうしばらく前からあった。それをそんな風に辛辣に非難するほど、樹はその風習を嫌悪しているわけではないが、だからと言って推奨しているわけでもなかった。特に三年になると、一部の例外を除いて、それがどれだけ「悪癖」なのかわかってしまう。その悪癖に溺れるなら、一年のうちか、最悪でも二年の始めが最も良い時期だ。三年では、先のことを考えると、良いことなんて一つもない気がしてきてしまう。悪癖だ、悪習だ、と言っているうちはいいが、肌を重ねているうちに情なんて湧いてきてしまったら目も当てられない。同じ大学に進むならまだいい。それでも、この山奥で寮というある意味居心地の良い鳥篭から放り出されてしまったら……辛くて苦しい思いをすることなど、分り切っている。
 だから、三年の中では、それまで相手がいなかったら、そのまま校内で相手を見つけることなどせずに、卒業まで我慢するか、外で相手を見つけたほうが良い、と言われていた。特に後輩とどうにかなるなど、そんな馬鹿なことはしてはいけない、と先輩方から密やかに、でも確実に伝えられる。
 でも、気持ちなんてどうなるかわからない。
 それを実感して、樹はため息をついた。
 このまま穏やかに、見てるだけで終わると思ったのに。
 でも、転がってきたチャンスを、どう転ぶかわからない未来を悪く考えて掴まないのはまた、馬鹿だと思うのだ。
 チャンスが転がっていた場所が、あの外水道だったのも悪かった、と樹は思う。らしくもなく、運命などという言葉を浮かべてしまう。
 たった一年で、幼かった身体がしっかりとした筋肉で覆われて、背も高くなっていた。調子が悪いのか、思いつめた表情で水道の蛇口を思い切り捻って頭から水を浴びている。身体を冷やしたら良くないだろうに、と樹は目の端でその生徒を見ながら少し心配をした。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、急に水しぶきが降って来て、思わず「わっ」と叫んでしまった。
 全て、すべてそんな風に、道は決まっていたんじゃないかと思う。
 ぼたぼたと水を頭から垂らした和高が、驚いて謝っている。樹はその濡れる身体の方が心配で、とにかくとタオルをその頭にばさりとかけた。それから、そのままがしがしと髪を拭く。
「あーあ。こんなに濡れちゃって。高居に怒られるんじゃない?」
 同じクラスの陸上部の高居が、この優しい下級生を可愛がっているのは有名だった。その愛情表現は間違っている、とも言われていたが。
「寮長……」
 そろそろ水は拭き取れたか、と少々名残惜しく思いながら手を離した樹の耳に、そう呟いた声が聞こえた。でも、その呼び名が樹は嫌いだった。
「あ、それ禁止。先輩って言いなさい」
「えっと、じゃあ深山先輩」
 それが正しい答えだとわかっていても、樹は内心面白くなく、つい「それも却下だな」と言ってしまった。坂道を転がり始めたら、なかなか止まることはできないのだ。
「だって、それじゃあ何て呼べばいいんですか?」
「坂城(さかしろ)は俺の名前知ってる?」
 あまり期待をしないで、樹は聞いた。和高は樹が寮長をしている東寮でもなければ、運動部だ。接点がないのだから、下の名前を知らなくてもおかしくはない。
「樹(いつき)先輩」
 ふいに言われて、樹は思わず目を大きく見開いた。期待しなかった分、ひどく嬉しい。その声で、自分の名が呼ばれるのもまた、気持ちのいいものだった。
「俺もいい加減有名なのかね」
 くすりと笑って見せたが、内心は少しばかり動揺していた。もうこれは、本当に止まることなど出来ないと。後は欲張りになって、どんどん貪欲に色々なことを求めてしまうかもしれないと。
「で?」
 なんとか笑ったままそう聞くと、和高は僅かに眉根を寄せた。きっと自分から呼びかけたのを忘れてしまったのだろう。
「あの、タオル、ありがとうございます。洗って返しますから」
 いいよ、と言いそうになった樹はでも、少し考えて頷いた。ここで糸を切らせてはいけない。タオルがあれば、少なくともまた、会えるのだから。
 礼儀正しく頭を下げて走り出した和高はもう、あの赤いシューズは履いていない。あれだけ走りこんでいるのだ。消耗も激しいのだろう。今は、黒地に白いラインが入ったシューズを履いていた。
 でも、樹の頭の中には、あのときの鮮やかな赤い色が、鮮明に思い出されていた。 


 坂城和高は、色々隠し持っている、と樹は思った。無表情に近い顔ばかりをしているのに、小さな菫に水を与えてみたり、押しに弱いのかと思ったら、最後の最後の砦は、結局崩してくれなかったり。
 本当に、びっくり箱のようだ。
 最初にびっくりしたのは、優しく微笑んだ顔を見たときだ。それが本来の笑みなのだろう。どきりと心臓が鳴ったのがわかった。それを無意識に見せるのだから、ずるいと思う。普段あれだけ人に無関心な顔をしているくせに。
 だから、もっと色々な顔を見たくて、滅多に人を入れない植物館にまで誘ってしまった。それも、樹が好んで一人でいる、昼休みと言う時間に。
 植物館の中に入ると、和高はすっと息を吸った。ちらりと樹が横目で見ていると、目を閉じている。少しあげられた顔が、春の光を目一杯受けて、綺麗だった。
「気持ちいい」
 思わず、と言ったように呟かれた言葉に、樹も笑みを零した。あまりにも、あまりにも和高は樹の好みに嵌りすぎる。
「いや、嬉しい。そう言ってもらえると」
 だから正直に言うと、和高もにっこりと笑ってくれた。それを見ることが出来ただけでも、ここに連れてきた甲斐があったと樹は思う。
 決定打は、この言葉だった。
「生きている音がする」
 なんてことを言うのだろう。
 どうしても零れる笑みを、押さえることも出来なかった。ともすれば、泣いてもおかしくないほど、樹はこの目の前の男が好きだと思った。
 燦々と降り注ぐ日の光が、ゆったりと葉に染み渡るように。
 ひたひたと、でも確実に、その気持ちは樹に染み込んだ。
 手を伸ばして、抱き合ったら。
 どれだけこの男の腕の中は安心できるだろう、と樹は思っていた。



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