02
それからずっと、樹はことあるごとに和高を目で追っていた。花壇で仕事をしているときも、休憩のときは遠く和高の姿を眺めるのが日課になっていた。
和高の走りは綺麗だ。
陸上競技のことなどわからない樹だったけれど、まっすぐに、普段からあまり想像できないほど力強く走るその姿は、綺麗だと思った。
でも多分、あまり調子が出ていない。
走り終わった後に、晴れやかな顔をしなくなって、どれだけ経っただろう、と樹は少し心配そうにトラックを見つめた。
わからないから、何も言えない。
和高のことは同じクラスの高居が面倒を見ていると知っていたし、それはまた、高居の面倒を和高が見ているのだ、ということも樹は知っていた。
高居が荒れた春休みを、樹は知っているのだ。それを陸上部顧問の石神と、友人達が、なんとか立ち直らせようとしたことも。その「犠牲」になったのが、和高だと高居自身が言っている。
本人はそうは思ってないだろうけど。
高居はそう言って自嘲気味に笑っていた。樹も、今ならそれがわかる。
優しすぎるのだ、坂城和高という人間は。
高居のことを気遣って、部の内部のやっかみもみんな受け止めて。それを嫌がっていても、高居に訴えることはしない。
樹はときどき、歯痒くなる。
昨晩、インターホンが鳴って出てみると、そこに和高がいて、樹は驚いた。夜に別の寮の自分を訪ねてくれるほど、少しは心を許してくれたのだろうかと思うと、嬉しかった。
何も聞かずに様子を見ていると、どうやら樹に、というより、植物達に会いに来たのだろう、ということがわかった。それは少し残念だが、でもそんな和高が愛しいと樹は思ってしまう。
深く、優しい、そして放心したような目で、植物を眺めるその顔に、樹はいつでも泣きたいような気持ちになる。
結局その夜、和高は何も言わずに帰っていった。
少しでも。ほんの少しでも、何かの役に立ちたい。
自分が他人に対してそんなことを心の底から思うなど、樹にはそれは、とても驚くようなことだった。
そのことをぼんやり考えていたら、和高が足早に寮に戻るのが生徒会室から見えた。手伝いたくもない雑用を、寮長と言う名目でやらされていた樹は、千速を置いていくからと言ってさっさとそこから抜け出した。確か、植物館から運ばなければならないバーベナやネモフィラの苗があったはずだ、とそこに向かいながら思う。
馬鹿みたいに純情だな、と樹は自分を笑った。ばったりと会うかもしれない可能性にかけて、わざわざ昼休みを潰そうと思うなど。
「昼休みまでやってるんですか?大変ですね」
そう言った坂城に、樹は思わず笑った。
「あ、坂城。丁度良いところに、それもいい格好でいるね」
何が丁度良いところ、だ。そう自分を笑いながら、忘れ物は体育着だったのかと思う。白いポロシャツが、背の高い和高に似合っている。
「なんですか……またそれがいくつもあるとか」
「いや、あと一個だけ」
言いたいことはわかってくれたのか、和高は諦めたように、でも嫌そうな顔はせずに手伝いを申し出てくれた。
さすがに植物館までひき帰させるのは可哀想だ、と思った樹は手にしていた苗の入った籠を渡して、急いで植物館まで戻った。
生徒会室あたりから、ここは良く見える。もしかしたら笑われているかもなあ、と思いながらも、だからといって見栄を張るつもりも意地を張るつもりもなかった。
大階段で右手に向かっていた和高に、追いついた樹は左手の花壇に持っていくように、と声をかけた。
それが悪かったのだ。
え?と振り向いた和高のすぐ傍で、影がよぎった。
そもそも、なんで自分は和高にこんなことをさせたのだろう、と思った。
一緒に話して校舎に向かうだけにすればよかったのだ。
そんな後悔を一瞬にしてしながら、樹は手にしていた籠を放り投げて、階段から落ちてくる和高を受け止めようと駆け出した。誰かがぶつかったのだ。
和高が走れなくなるなど、樹は考えたくなかった。だから、何としても受け止めたかった。たとえ、和高のほうがずっと体格が良かったとしても。
あとはただ、手を伸ばすのに必死だったことしか、覚えていない。
微かな雑音が聞こえてきて、樹はゆるゆると意識を戻し始めた。話し声だ、ということはわかっても内容まで聞き取れるほど頭がなかなか覚醒しない。でも何か大切なことを忘れている気がして、樹は目を無理やりこじ開けた。
「先輩……?」
ものすごく心配そうな和高の顔が目の前に現れる。起きたときに誰かの顔があるなど、ここしばらくなかったことに、樹は驚いて目を瞬かせた。
「俺が階段から落ちて先輩巻き込んで……覚えてます?」
言われて、おまえが巻き込んだわけじゃない、と思いながらも「ああ……」とため息のような声しか出なかった。
「おまえ、平気?」
とりあえず一番気になることを聞いてみると、ぶんぶんと和高が首を振って、「俺は全然!それより先輩の方が」と声を詰まらせた。ああ、心配をかけた、と申し訳なく思う。
「坂城、静かにしろって」
急に聞こえてきた違う声に視線を向けると、保健医の原澤がいた。和高に医者のところに行くように言いながら、その襟首を掴んでいる。それを見ながら、そんなとこ掴むなよ、と樹は内心で不機嫌になっていた。でも、しぶる和高はどうやらまだ医者に見て貰ってないらしい。それは心配だと、樹は何も言わずにいた。
和高がようやく出て行くと、樹は身を起こそうとしたが、頭がふらりとして諦めた。
「やめとけ。あの体格いいのを受け止めたんだから、何もなかったってだけで良かったよ」
原澤が苦笑する。ただの脳震盪だってさ、と言われて、樹は和高のためにほっとした。自分に何かあったら、あの男は自分自身をひどく責めるに違いない。
「それにしても……面白いものを見せてもらった」
原澤は全寮制の男子校の保健医などをしているせいか、とても食えない人物だった。とくに、執行部に近い人物達を生徒とは思っていないところがある。寮長をしている樹も、いつも手荒く扱われていた。
「なんですか」
「坂城だよ。あの無表情が、情けない顔をして。おまえも、こんな無茶するとはな」
くくっと笑うその顔はとても楽しそうで、樹はため息を隠せなかった。校内の噂なども、この保健医はほぼ把握している。それが、いわゆるカウンセリングと言うようなものに役立っていると言えば、言えるのだが。
「もう、誰かが走れなくなるのを見たくないんですよ」
高居のことに、もっとも心を痛めていたと思われる原澤に、きついかと思いながらも思わず言う。それは多分に、本心でもあった。
「まあ、そうだな」
高居は、また全然違う形で走れなくなったのだが、それでも、もう二度と誰かをあんな風に荒れさせたくはないと思う。それは二人とも、同じ意見だった。
和高なら―――きっともっとひどいことになるかもしれない。何もかも押し隠して、ただただ誰にも干渉させずに、ゆっくりと壊れていくかもしれない。樹はそう思うから、怖くてたまらなかった。
「あいつ、足引きずってませんでした?」
ついさっきここを去っていった和高のことを思い出しながら、樹は心配そうに呟いた。原澤は良く見てるな、とそれを笑いながら、様子を見てくる、と身を翻した。そんな原澤は、結局は、面倒見がいいのだと樹は知っている。
「原澤さん、俺大丈夫ですから。あいつ送ってやって下さい」
「ん?ああ、わかった。おまえも明日には退院できるだろうって。明日は俺が迎えに来るよ」
頷いた原澤に、お世話かけます、と樹は殊勝に言った。