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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
14
俺の一世一代の告白は、温かい腕に答えられた。柔らかく抱き締められて、俺は身体の力をゆっくり抜いた。
「和高は、絶対陸上なんか向いてないと思った」
突然そんなことを言われて、俺は顔を上げた。すぐ近くに微かに笑う樹先輩の顔があって、かあっと血が昇るのがわかった。
それに気付いたのだろう。樹先輩は思わずとばかりにくすくす笑って、今度は自分の番だと俺の肩に頬を押し付けてきた。
「先輩っ。そこで笑わないで下さいっ」
ぐっと押し返したら、ひどく不満そうな顔をされる。でも、首筋に笑ったときの微かな息が吹きかかるのだ。勘弁して欲しい。
「自分だけ甘えるのはずるくない?」
「先輩……わざとだ」
「やだなあ。鈍いところが可愛かったのに」
そんなことを言いながら、先輩はキッチンに向かった。
俺はひどく脱力して、ぺたりと床に座り込んで、上半身をソファーに投げ出した。
樹先輩はコーヒーを淹れて来てくれたらしく、カップがことりとローテーブルに置かれる音がした。そこで俺はようやく顔を上げて、きちんと坐りなおす。
「さっきの話、どうしてですか?」
「さっきの話?」
「陸上に向いてないってやつです」
いただきます、とカップを持ちながらちらりと先輩を見ると、ああ、と笑った。
「和高は優しすぎるだろ?それなのに、短距離なんてできるのかなあ、と」
つまり、俺が気付いていなかった闘争心の欠如を、樹先輩はしっかり見抜いていたのだ。なんだか、情けなくなってきた。
「気を悪くするなよ。そこが和高のいいところなんだから」
はあ、と俺は曖昧に返答する。優しくても、厳しい先輩達から見れば、俺のこの優しさは甘えになるんじゃないだろうか、と思っていたから。
「まあ、高居が上手く育てたみたいだね」
先輩が少し淋しそうにそう言う。その辺りは、わかっていないなあ、と思った。
「高居先輩には確かにとってもお世話になってますけど。闘争心に火を付けてくれたのは樹先輩ですからね」
「俺?」
「さっき言ったでしょう?」
会いたくて、話したくて。傍に、いたくて。だから勝とうとしたのだと。
「本当に?」
「前も言いませんでしたっけ?嘘でこんな恥ずかしいセリフは吐きません」
というより、俺には吐けない。今は必死なだけなのだ。そこは汲み取って欲しいのだけど。
目の前で、薄っすらと赤くなっていった樹先輩に俺は困りながら、さり気なく目を逸らした。話題を変えるべきだろう。
「ところで先輩は、なんで俺を避けたんです?」
少しだけ遠慮がちに聞くと、目が泳いだ。絶対に深山からは言わないから、と断言した重藤先輩の言葉を思い出した。
「俺が、九重じゃなくて、他の大学に行くと思ったから?」
先輩の目が小さく見開かれた。そりゃあ、俺は鈍感ですけれども。
樹先輩は諦めたように小さくため息をついた。
「あのとき、他の大学の陸上部の監督がいてさ。おまえをスカウトしたいような話をしてたんだ。ただでさえ、高居が育ててるって話題だったみたいだし。注目されてるなか、優勝しただろ?……確かに、走ってるところは綺麗だったし」
最後は小声で言っていたけれど、俺にはしっかり聞こえていた。走りが綺麗だ何て言われたことがなくて、すごく嬉しかった。
「本当ですか?」
だから、思わず聞いてしまった。
「本当だよ。やっぱり、陸上の強いところ、行きたいよな……」
嬉々として言った俺に、先輩は誤解をしたようだった。流れからいけば、当たり前だ。
「いえ、そこじゃなくて。俺の走り、綺麗だって……」
一瞬きょとん、とした先輩は、ああ、と恥ずかしそうに笑った。
「おまえ、走ってるときはすごい綺麗だよ」
俺が余程嬉しそうな顔をしていたのだろう。先輩は恥ずかしそうにしながらも、断言してくれた。
「そんなこと言われたの、初めてですよ」
「そうか?その監督たちも言ってたぞ?」
でも、初めては初めてだ。それも樹先輩が言ってくれるとは。
「それで……大学、スカウトが来たらどうするんだ?」
気になるのか、不安なのか、弱々しい声がした。
「え?ああ、俺、九重ですよ」
「でも……」
「決めてたんです。ここに入るときから。だから、他には行きません」
というより、行きたくないんです、と言ったら、ようやく安心したのか、先輩はふっと息を吐き出した。
「それでも、一年の差は埋まらないんだよな」
そんなことを言っても、それは仕方がない。先輩も案外臆病なのだと、俺は思った。
「まだ先です。あと一年はあるじゃないですか。それから考えましょうよ」
ね?と言うと、先輩はそうだな、と笑ってくれた。
臆病なのは俺も変わらないかもしれないが。
でも、肝心なものをそれで無くすほど、意気地なしにはなりたくなかった。
走って辿り着いた先を考えて走るのではない。ただそこを目指して、走るのだ。そこに目指すものがあるのなら。
まずはそれが大切なのだと、俺はきっと身を持って知ったのだ。
「で?とうとう、やっと、ようやく、くっついたのか」
やけに長い修飾語をつけて、哲平が言った。何が、などと惚けても無駄だとわかっている俺は、おかげさまで、と笑った。
昼休みに、どこから手に入れたのか、空き教室の鍵を持って長柄がやってきた。そこで、哲平と鼎も一緒に、昼を食べようと言ったのだ。その時点で俺は、覚悟はした。
「こいつ、笑ってやがる……」
このやろう、とヘッドロックをかけてくる哲平に、俺はわあっと逃げては見たが、回りの連中も助けてくれる気はないらしい。鼎も長柄も、それどころか哲平をけしかけている。
「俺たちがどれだけ心配したと思ってんだ」
同室で、苛々と悩みを抱えた俺の相手をしていた鼎には、本当に頭が上がらない。表情には出ないと言っても、鬱屈している俺をそっと見守ってくれたのは感謝に値する。
「おまえは何も言わないし。友達甲斐がないよなあ」
哲平の怒りはどうやらその点らしく、相談をしなかったのが気に食わないらしい。俺にしては、本当に良い友達を持ったと思う。
「で?何がどうなって落ち着いたんだ?」
話を聞いてくるのは、報道部の長柄だ。つまり、口が裂けても言ってはいけない相手だ。
「記事にはしないよ。友達だし」
そうは言うが、わからない。宮古報道部長の恐ろしさは俺も知っているから、用心に越したことはないのだ。
「聞くなら、樹先輩に聞けよ」
「うわあ。愛しい先輩を売って良いわけ?」
鼎がにやりと笑いながら言う。こういうことなら先輩の方がずっと上手いはずだ、と俺は思った。でも、この話をちらりとしたときは、「俺のものだ宣言」をしてもいいかもね、と笑って言ってくれたのも、樹先輩だ。
「愛しいって、おまえね……」
「ふーん。違うわけ?」
ふいに後ろから聞こえた声に、俺は身体を硬直させた。最近富みに、読めないと思っている人の声だ。
思ったより、嫉妬深く。
思ったより、可愛らしい。
「あ、深山寮長」
長柄が、にっこりと笑っている。哲平は俺からぱっと離れた。
「違うなら違うでもいいけどね」
俺は恐ろしくて、後ろを振り返れずにいた。目の前で、鼎たちがにやにや笑っているのが見える。
「ちょっと、借りてもいい?」
「そんな借りるなんて。ご自分のものなんですから」
哲平、あとで覚えてろ。先輩も、そうだね、なんて答えないで欲しい。
「どうしたんですか」
俺はこの恥ずかしい会話をこれ以上聞きたくなくて、勇気を振り絞って振り返った。にっこりと笑っている先輩が、怖い。
愛しい、なんて言われて、恥ずかしかっただけです、と言っても無駄だろう。
「嫌そうだね」
「とんでもない」
このまま行くと苛められるので、俺は精一杯虚勢を張って、にっこりと笑って見せた。
「他でもない、樹先輩の隣を歩けるのは、俺の権利でしょう?」
後ろで、哲平が「うわ……」と言ったのが聞こえた。後でからかわれるのは必至だ。でも今は、目の前の人のほうが怖い。
「いい子だねえ、和高は」
先輩が満足そうに言った。それでようやく俺は、怒りが解けたのだとほっとする。
「うーん、やっぱりカズにインタビューだな。面白え」
長柄の呟きは聞こえなかった振りをして。
俺は樹先輩の隣に並んだ。そっと腕を取られてぎょっとしつつも、それをなるべく隠してにっこりと笑う。
「それで?今日は何を植えるんです?」
放課後は陸上部で忙しい俺は、昼休みに園芸部に顔を出すことになっていた。部活の二重登録は、部長の許可があればしてもいいことになっている。俺の場合は、高居先輩の許可だったのだが、最初は渋った高居先輩を、樹先輩がどうやったのか説得した。それで俺は、園芸部の唯一の二年生部員となった。他はみな、三年生だけなのだ。
「今日は植物館で水遣り。終わったら、昼寝をしよう」
にっこりと笑う先輩は、無邪気な顔をしている。
樹先輩と、緑に囲まれながらうとうとと午睡を貪る。
その至福のときを思い浮かべて、俺もにっこりと笑い返した。
後ろで、昼寝の意味を誤解して赤くなったりにやけたりしている連中のことなど、すっかり知らずに。
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