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Creepinng-devil cactus

02
 メールで少し遅れる旨を連絡して、和高は運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。やっぱり猫舌なのね、と笑う目の前の人物に、そうそう治るものじゃないでしょう?と和高も笑う。
 少し時間取れないかな、と言われて頷いたのは和高だった。でも、今はどこか少しばかり居心地が悪くて、視線が少し逸れてしまう。
 きらきら落ちる木漏れ日と、足早に歩く人たち。喫茶店は何処も変わらず、冷房が効きすぎていた。だから、どれだけ外が暑くても、ついつい暖かい飲み物を頼んでしまうのだと言った樹のことを思い出した。
「大人っぽくなったね」
 言われて、和高はようやく目の前の女性を見た。変わらないと思ったけれど、少し、ほっそりしたかもしれない。あのとき、大人なのにまだ少女のようだと思った面影は、もうなかった。
「そうですか?……まあ、身体だけは成長したけど。先生は、あまり変わらないね」
 あれから二年だ。たった二年なのに、和高はとても長い年を過ごした気がした。
「そう?」
「うん。すぐにわかった」
 柔らかい笑みは、変わらない。あの頃は、この大人びた笑顔は嫌いだった。まるで気の強い子供を大人の余裕で眺めるような、そんな笑顔が。
 守ってあげる、と言ったかも知れない。
 その子供を見るような表情に、むきになって、俺が守ってあげるから、と。
「……元気なの?」
 本当なら、最初に聞かれるのが普通なのだろう質問に、和高は頷いて答えた。
「先生は?」
「ん……元気、かな」
 すっと手が伸びて、隣で大人しくジュースを飲んでいた莉奈の髪を触った。
 慈しむような、柔らかいあの表情で。
 和高はそれから、少しだけ目を逸らした。聞かなくてはならないことが、あった。
「こんなところで会うなんて、ちょっとびっくりした」
「ああ、高校、九重に行ってるから」
 そうなの?と加絵が驚いた顔をして、まじまじと和高を見た。
「なんでそんなにびっくりしてるの?おかしい?」
「ううん。そうじゃないの。でもそっか、和高くん、あの山の上の学校に行ってるのねえ」
「そう。全寮制の閉じられた世界だよ。でも、いい学校だけど」
「陸上は?続けてる?」
 もちろん、と頷いて、和高はコーヒーを口に含んだ。
 加絵はときどき、こっそりと応援に来てくれた。色々な本を読んだりして、身体にいいものを食べさせてくれたりもした。
 走っている姿が、一番好きかもしれない、と言った。
 今も、和高の答えに嬉しそうに笑っている。
「先生は、どうしてるの」
 コーヒーで湿らせたはずなのに、口が上手く回ったかわからなかった。二人の関係が周囲に知られてから、一切連絡は取っていなかったのだ。教師と言う職さえ追われたかもしれない加絵のことを、和高はずっと気にしていた。
 そして、あのときまだ、お腹にいた小さな命―――。
「ん?塾の講師している。学校より学習意欲が高い子が多くて、楽かな」
 ふふふ、と笑った加絵に、和高は「そう」としか答えられなかった。あのときは孤独に潰されそうになっていたけれど、加絵が望んで教師と言う職についたことは、和高も知っていた。
 子供も好きだから、小学校の教師もいいかなあって思ってるのよね。
 どこか甘えるように抱き合ったそのシーツから顔を出して、加絵は自分が子供のような顔をして言った。
 そんな顔も、好きだった。
 でも、教壇で本筋の英語の授業から脱線して異文化間のコミュニケーションの難しさとか、可笑しさとか、そういうものを話すときのきらきらした目も、好きだった。
 覚えているものだな、と和高は思った。
 もう、ずっと遠い記憶になってしまったように、感じていたのに。
 かしゃん、と音がして、和高ははっと顔を上げた。テーブルの上の砂糖入れを、莉奈が倒したようだった。
「もう、莉奈ったら。駄目じゃないの」
 幸い、砂糖はスティック状で、加絵は「こら」と軽く莉奈に怒ってみせながら、それをまた細い筒の中に挿した。莉奈は飽きたのか、足をぶらぶらさせたり、手でテーブルを叩いたり、しきりに動いている。
「ああもう、わかったわ。もうすぐお昼寝の時間だものね。ごめんね。お家に帰ろうか?」
 そう笑った加絵の顔は、母親の顔だと和高は思った。
「先生、その子は……」
 帰り支度を始めた二人に、和高は追い立てられるように口を開いた。
 加絵がふと、莉奈に帽子を被せていた手を止めて、和高を見た。
「……そうだと言ったら、どうするの?」
 先生、と零れた言葉は音にならなかった。加絵は莉奈を椅子から下ろして、その手を掴んだ。
「先生」
 和高の声に、加絵がゆっくりと振り返った。そして、テーブルの上のナプキンを取って、そこに何か書き付けた。
「これ、私の携帯の番号。……ねえ和高くん、私もう、あなたの先生じゃないのよ」
 加絵はそう言って、莉奈を促して歩き出した。
 和高は、何も言えずに、ただそこに突っ立っていた。


 その日、和高は結局哲平たちに合流することなく、寮の部屋に帰った。それからずっと、紙ナプキンに滲んだ電話番号を、見ていた。
 二年だ。冬が来れば、あれから丸二年経つことになる。
 日本列島の中でも南に位置する和高の故郷は、だからと言って冬も暖かいわけではない。あのときも、雨のせいで、寒い日が続いていた。
 その中を、加絵は傘も差さずに立っていた。小糠雨は、服をすぐにびっしょりと濡らすことはなかったが、加絵は今にも倒れそうなほど、真っ白な顔をしていた。
 どうしよう、どうしよう。
 何度もそう言って、泣いていた。きちんと確認しないと、と言ってみても、確認なんてしたわよ、と怒鳴られた。
 掴んだ手はぞっとするほど冷たくて、身体に良くないからとにかく温まろう、と肩に手を掛けると、身体なんてどうでもいい、と血走った目で言った。
 ―――これで、なかったことになるなら、その方がいい。
 その言葉に、和高は信じられない気持ちで加絵を見た。それを思わず責めて―――結局、他人に知られてしまったのだ。雨の中、泣き叫んで言い争っている二人を近所の生徒が見ていて。
 そのままずっと、和高は加絵と話すことはなかった。加絵はすぐに実家に帰ってしまったし、自分もほとんど監視されるような生活をしていた。一度だけ、全てを知っていた友人が、こっそり加絵からの伝言を伝えてくれた。
 ―――ごめんね。できることなら、忘れてね。それから、このことで、恋愛することを怖がるようにならないで。ごめんね。きっと、いつか本当の恋愛ができるから。
 そのとき一緒に、子供は堕ろしたらしい、とも聞いた。
 自分がどれだけ子供だったのか、今なら痛いほど良くわかる。無責任なことをしたのは自分で、取れもしない責任を、取ろうとした。
 あのとき、雨に濡れながら、加絵はどれだけ不安だっただろう。それを理解しようとしなかった自分には、加絵を責める資格などなかった。
 あのときはただ、生まれた命を消すなどできないと思った。それはほとんど、子供の残酷さと同じ気持ちで。
 書かれた数字の、8を真ん中から書き始める癖は変わっていないらしい、と気付いた。一時、それを真似しているうちに、自分までその癖が移ってしまったこともあった。
 小さな、手を思い出す。ぎゅっと加絵の手を握っていた、その手を。
 何も知らずに、見上げられた目は、丸くて黒く、きらきらと光っていた。
 もしも、あの小さな命が生きていたら。
 莉奈と同じくらいに成長していたのだろうか。


 和高の様子がおかしくなったのは、一体何時からだろう、と樹はぼんやりと外を眺めながら記憶を探っていた。今日は天気が悪く、一日中雨模様で、寮内も騒がしい。外で活動している部は学校内や他の部活に混じって練習をしているようだが、いつもよりは短い時間になるのは仕方がない。ちょうどいいと休みにしている部もあるから、暇を持て余した生徒達が溢れているのだ。その半分以上は実家に帰ったりしているのだが、それでもいつもの昼間よりは騒がしい。
 陸上部はどうなったのだろう、と樹は窓から校庭を見た。だが、雨にけぶる校庭に誰かがいるわけがなく、樹は小さく息を吐いた。
 あの日だ、と樹はわかっている。たまたまその日の話になったとき、鼎たちが教えてくれたのだ。あの下界に下りたとき、和高は結局二人に合流しなかったのだ、と。理由も何も説明なく、どうしたのだと迫った二人に、和高は急に気分が悪くなったのだ、と下手な嘘をついた。
 嘘なんかつくから余計に悪い。でも、だからこそ理由を問い詰められなくなってしまった。和高が、無闇に嘘など言うはずがないからだ。
 あれから抱き合ったのは、たった一度だけだ。それももう二週間前のことで、夏休み中は時間に余裕があるからと、前半は二日と空けずに抱き合っていたのが嘘のようだった。
 しばらく来られない、と和高が言ったのはあの日から一週間が経った頃だった。その真摯な瞳と真剣な表情に、それ以上を聞くのが恐くなった樹は、わかったと言って扉を閉めてしまった。
 あれから、午後に休みがあるときは、和高は下界に下りているのだという。目的も何も、誰にも話さないが、誰かと会っているのだろうとは想像できた。あまり使っていなかった携帯を、頻繁に使うようになったのも、あの頃からだ。
 ―――先輩、ごめんね。
 扉をばたんっと閉めた後に、呟かれた言葉を、樹は聞かなかったことにした。
 でも、それはいつまで経っても耳から離れてくれない。
 会えない寂しさも不安もあるが、今あって、決定的な言葉を言われるのも恐かった。だから、樹は自分から会いに行くことは出来なかった。
 あのとき、扉を閉めなかったら、和高はその言葉を言っていたかもしれない。
 それを拒否した樹に、優しい和高は少しだけ猶予を残してくれた。
 駄目かもしれないと、諦めるまでの猶予を。
 和高の性格から、このままあやふやな関係を続けることはない。
 たぶん、もうすぐ。
 もしかしたら、次に会ったときに―――。



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