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ソクラテスとソフィストの優しい関係について
03
ゴールデンウイークが明けた次の日曜日、晴れたからと雅道は智を山へと誘った。前日に買ったおにぎりやパンを持って、ピクニックも兼ねようと言う。
「今なら藤も盛りだろ」
そう笑う雅道に、智も満面の笑みで頷いた。図書室の窓からは、今ではあの白い花がたくさん見える。山に行くときは連れて行け、と智が言ったのを雅道はちゃんと覚えていたのだ。
山への道は、内緒のルートだと雅道は言っていたが、どうやらこうして山に登るのは雅道以外にもいると見えて、獣道であってもきちんと道が出来ている。実は卒業生が作った山小屋まであるという噂も、あながち嘘ではないかもしれない、と智は思った。
藤の見所はその獣道から少し外れたところにあった。人の手の入っていない藤は、だらりと重そうに花を垂らしている。近寄ると、ふわりと甘い匂いがした。
「結構蜂がいるから気をつけろよ」
雅道はそう言いながら、日陰になった木の下にビニールシートを敷いた。それから顔を上げると、目をきらきらさせて藤に魅入る智が見えて、思わず頬が緩む。そんなことを稜辺りに言ったら、また呆れられるのだろう。何しろ、雅道が山に来るときは一人と決まっていた。一人になりたいから、山を登るのだ。
二人で昼食をつまみながら、他愛ない話をした。雅道が今読んでいる本の話や、先生達の噂話、今話題の映画の話、と二人だけでも時間を持て余すことはない。智は人の話をしっかりと聞くが、自分の意見も言うときは言う。その、眉の辺りにしっかりと力を入れて、人の話を真剣に聞く智の表情が、雅道は好きだった。
あらかた食事を済ませると、智は少し探検してくる、と辺りを見回した。雅道は持ってきた本を読むことにして、木陰に座り込んだ。温かい日の陽射しが、葉の間から柔らかく落ちてくる。こんな風に誰かを待つように本を読むのもたまには悪くない、と雅道は思った。
しばらくしてから智は帰ってくると、その雅道の足元にごろりと横になった。
「いい運動だったー。な、すげー綺麗な小川発見したんだ」
知ってた?と見上げてくる智に、雅道は小さく微笑んだ。
「少し上に登ったところだろう?もっと上には滝になってるところもあるんだ。そこまで行ってみたか?」
「滝は見てないな。ちえー、もっと上まで登ればよかった。な、夏になったら泳ぎに来ようぜ」
立ち入り禁止、ということを忘れて、智がそんなことを言う。雅道はそれに頷きながら、夏には自分達の関係はどうなっているのだろう、と思った。ちらりと下を見ると、智は気持ち良さそうに目を閉じていた。
こんな無防備さを見るたびに、智はきっと自分の気持ちがどれだけぎりぎりなのかわかっていない、と雅道は思い知らされる。こうしていられることが、何よりいいのだと智は思っているのだろう。こんな、友人のままで。
雅道がその友人の枠を越えるような目で智を見たり、言葉を吐いたりすると、途端に智は途方にくれる。その困ったような目は、雅道を毎回責めるのだ。
すやすやと眠ってしまった智を見ながら、雅道はそっとその髪に手を伸ばした。最初は同室の生徒に嫉妬もしたが、今は同室ではないことを感謝している。こんな衝動を、毎晩やり過ごすことなど出来そうにない。
木漏れ日の下で、智は幸せそうな顔をして眠っている。そっと髪に触れても、時おり風に吹かれているせいか、まったく気付いていないようだった。
「智が悪い」
と、雅道は小さく呟いた。そう、こういう場合、狼の前で眠りこける羊が悪いのだ。そう良い聞かせて、雅道はそっとその唇を薄く開いた智の唇に重ねた。
盗むような口付けは、ひどく切なく、雅道はどこかでそれを後悔するはめになった。
九重の二年生最大の行事と言えば、修学旅行だ。学年が上がった途端に行き先を決め、準備に入る、五泊六日の修学旅行は、国内と決まっている。それは、行きは生徒たちは自力でホテルまで辿り着かなければならないからだ。
生徒も面倒だが、先生方の方がもっと大変だろう、と雅道などは少々引率者に同情していた。九重という学校は、そう言うところがある。放任のようで、リスク覚悟で生徒を鍛えるのだ。それは生徒たちにまで浸透していて、先輩方も自分達の苦労を省みずに、後輩を鍛えようとするときがある。
行きの経路は、電車か飛行機、が順当なところだ。誰に相談するべきか、その辺りはきちんと資料で渡されて、旅行会社の指定もある。ただ、そこに電話なり出向くなりして、チケットの手配はしなければならない。
今年、雅道たちの学年が投票で決めた行き先は、北海道だった。梅雨の時期だから、梅雨のないところに行こう、という単純な理由が大半だ。雅道、智、圭、そして「孤高の狼」とあだ名されている浅木一穂、というグループは飛行機で行くことになっていた。一穂は稜と一年時に同じクラスで、稜とは仲がいい。というより、稜が一穂を気に入って、構っている、と雅道も圭も思っていた。その一穂とは同じ寮ということもあって、雅道もわりと話をするようになった。一穂も、雅道をそれほど邪険に扱わない。必要以上に踏み込まない、とわかっているからだろう、と雅道は思っている。
グループの中で取り仕切っているのは、主に圭と智だった。後の二人は、好きなようにやってくれ、と思っていることのほうが多い。
「浅木、北海道は?」
「ああ、何度か」
旅行準備のためのホームルームで、やはり行き先や観光計画を立てる圭と智を放っておいて、二人は外をぼんやり眺めていた。
「なんか、あんまり行きたくなさそうだな」
普段から無愛想だが、特に面倒そうな顔をしている一穂に、雅道が思わず苦笑した。
「できればね。まあ、どこでも一緒だけど。北海道は……面倒」
一穂が投げやりにそう言う。それに雅道は、少しばかり心当たりがあって、大変だなおまえも、と返した。
「札幌で半日位は抜けると思う。担任には言っとくけど」
「わかった」
雅道はそれだけ言って、窓際の壁に背を預けながら、目の前で楽しそうに旅行計画を立てている二人を見た。
一穂が、どうやら大きな会社の息子らしい、というのは聞いていた。九重は昔からの全寮制の学校で、OBには有名人も多い。自然、そんな親を持つ息子達も増える。
「函館の朝市は外せないだろ?」
「えー、でもそんな早起きできないよ」
「早く起きて行かなかったら、朝市の意味ないだろ?」
それも魚介類が豊富なことを考えたら、絶対早いほうがいい、とさっきから二人はそんなことを言い合っている。料理研究会の会長である圭は、食べることを中心に計画を立てているようだ。口の達者な圭に智が敵うはずがなく、修学旅行というよりグルメツアーの様相を呈してきている。
「あんな計画で、担任がOK出すかよ……」
雅道が呆れたようにため息を吐く。それに一穂も小さく笑った。
「いいんじゃないか?最後にそれをテーマにしたガイドブック作れば」
それもそうだな、と雅道はその一穂の言葉に頷いた。
旅行の日程は、ほとんどが自由時間だ。函館、小樽、札幌の三都市を回るのだが、その都市ついて半日は、バスなどで観光をする。しかし、あとの一日半は、生徒たちが自分で行動計画を立てなければならない。さらに、帰ってきてから、旅行記またはガイドブックを作成する、というのが課題だった。
圭の並べ立てる美味しそうな食材の話に、智がだんだんと目を輝かせるのが見える。単純な智は、それで朝早起きをすることも承知してしまったようだ。
「智って、可愛いねえ」
そんなことを言って、圭が智の頭を撫でる。それに、雅道が思わず立ち上がろうとしたとき、ちょうどチャイムが鳴った。
雅道が、ふっとため息を吐く。
それを、圭がちらりと見ながら、薄く笑ったのは、誰も気付かなかった。
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