home モドル 01 02 * 04

la vision


ステラ・マリスに来て、いつものように一真に報告をする。
元気でいること、もうすぐ試験があること…。
でもドアが開く音がする度に、その目がそこに吸い込まれるように行ってしまうのを、周はとめられなかった。
期待しているのか、怖がっているのか、自分でもわからない。
でも、あの目を忘れることが出来なかった。
思い出すたびに体の芯が疼く気がして、周はそれを必死に追い払う。
それでも視線は、いつまでも周に纏わりついていた。
入ってくる人物が違う人の度に、周は一真に気付かれないようにため息をつく。
ほっとしているのか、残念がっているのか―――
自分の気持ちが全くわからなくて、周はイライラしていた。
また、ドアが開く。
視線がそこに行く。
だが今度の人物は、周の予想外の人物だった。
「兄貴…」
久しぶりだった。こんなに会わなかったことはなかったかもしれない。
少し痩せたように思うのは、気のせいだろうか。
「元気か」
その声に、後ろめたさに視線をずらして、周は息を止めた。
穂積が、いる。
同じ会社の、それも尋由は穂積の片腕と言うくらいなのだから、いてもおかしくない。もともと穂積は、ここの常連でもある。
でも、久しぶりに会う兄と一緒とは思わなかった。
「君がひろの大事な弟か。よろしく」
何も無かったように、この間のことなんて、何も無かったように、手が差し出された。
一瞬戸惑って、でも尋由の手前、逃げるわけにもいかず、その手を握り締める。
体温が、一瞬で上がる。
その手が、女の髪を首筋から撫で上げていたのを、思い出す。
尋由が、隣で穂積を紹介しているが、その声は、周には届かない。
「かわいいー」
ふと女の黄色い声が聞こえてきて、周は慌ててその手を引き込めた。周のまわりには、穂積が引き連れてきた女たちがいた。周の顔をじっと見て、髪を触ったり、頬を撫でたりしている。突然我に返って驚いた周は、抵抗もせずに立ちつくした。
「すべすべー。色白いし。ちょっとなんで今まで隠してたのー」
今にも抱きつかれそうな勢いに、尋由が周の肩を掴んでカウンターの奥へと連れ出した。
「大切な弟なんですから。あまりいじめないでやって下さい」
「だって若い子好きだもん」
女達のその声に、穂積が苦笑を漏らした。
「おじさんで悪かったね」
そう言って、女の肩を抱き寄せながらテーブル席へと向かった。女たちは、穂積は別だと言いながら、その体を摺り寄せてる。
一瞬、穂積が周を見た。
その視線に、微かな笑みに、周はまた体が疼くのを感じる。
冗談じゃない。
そう思って、睨みつける。
でもそれを楽しむかのように、穂積の目が細められた。
「周?」
ふと尋由の声がして、周は慌てて視線を戻す。
「突然来るから、びっくりした」
椅子に座って、カウンターに手を置いた。
「もっと、早く来たかったんだけどね」
周の前に、サラトガ・クーラーが置かれる。一真が、尋由に無言でオーダーを聞いた。
「周と同じの」
その答えに、周は驚いた様に兄の顔を見た。間近で見ると、はっきりと疲労の色が見える。
アルコールをいれないで話したいのか、飲めないのか分からなかった。
「出発日が決まったから」
「いつ?」
「来週の日曜」
やっと、目処がついたのだろう。でも、このやつれは、きっと仕事のことだけではない。
それを思って、周は顔を歪めた。
「咲子さん、心配してる」
手を伸ばされて、やわらかな髪を掻きあげられる。元気そうな顔を見て、尋由は安心した様に目を細めた。少しやつれたようなその顔は、壮絶なまでの色香を漂わせて、周は一瞬どきっとする。知らない兄が、そこにいて。
「うん…」
わかっている。心配性の咲子が何も言ってこないのは、この兄が上手く言ってくれているからと言うのも、周にはわかる。それが、もう効かなくなることも。
「周、良く考えてから決めて欲しいんだけど」
尋由が手を周から離しながら、呟くようにそう言って、視線を漂わせた。上手く言うにはどうしたら言いか、言葉を探しているようだった。
「穂積さんがね、旅行に行っている間、俺の部屋に来たらどうかというんだ」
ちらりと穂積の方に視線が投げかけられる。
「兄貴の部屋…?」
思わぬ展開に、周は頭が混乱した。
「あぁ。ちょっと高校までは遠いけど、通えない距離じゃない。どうせ俺がいない間は、あのままだからって」
尋由の借りているマンションは、会社のものだった。元々は穂積のものなのかもしれないが、周にはそこまで分からない。でも、その提案には、激しく心惹かれた。
高校まで、あそこからなら一時間弱。今ならバスで三十分だが、それが倍になろうと、魅力的な提案だった。
「俺が借りてもいいの」
「掃除もしないと本当はいけないし、風が入らないのも良くないから。会社は誰か住んでくれるならそれでもいいって」
尋由の口調からは、本人がどう思っているのかはわからない。いつも、そうだった。
自分で、決めなければいけない。
それを、尊重すると、いつも言われてきた。そのかわり、責任は持てと。
「借りる」
即答のような周の答えに、尋由は周をじっと見つめた。探られているのがわかるから、周も目を逸らさない。
「咲子さんと藤崎さんには、自分で説得しろ」
尋由は、それを唯一の条件とした。きちんと話し合うこと。逃げるのではなく、解決の結果としてあること。
「はい」
周は、やっと少し、何かを掴んだ気がした。
逃げているのかもしれない。でも、偽れない自分の気持ちもある。それを見ない振りをしていたら、いつかきっと皆が傷つく。
一人でゆっくり出来る時間と空間は、周をきっと良い方向に導いてくれる気がした。
尋由が立ち上がって、周の髪をくしゃりと撫でた。細い指が、それでも暖かくて、周は恥ずかしそうに笑った。
「決まったか」
「はい」
穂積が、近寄ってきた。周は立ち上がって、頭を下げた。気に入らない相手だが、今回の提案をしてくれたのは、間違い無く穂積で、それに周は救われたのだから。
尋由の傍らに立って、煙草を加えた穂積に、尋由が火をつける。身長が少し尋由より高い穂積が、頭を少し下げる。髪がさらりと揺れて、周は無意識に目をそらした。
「よかった。おまえがいない間、彼の面倒は俺が見るから」
そう、笑われる。
「あなたに任せていいのか悪いのか…」
変な遊びを教えられたら困る、などと尋由が笑う。
「もう、子供じゃないですから」
周がそう呟くと、穂積はにやりと笑ってカウンターの上に視線を移した。
「おまえも飲んでないのか、ひろ」
「え?あぁ…飲みますよ」
周は頭に血が上るのがわかる。アルコールも飲めないガキが…そう、目が言っている。
睨んでみても、大人の余裕なのか楽しそうに笑われるだけだ。
「悪いがお兄さんを借りて行くよ」
「どうぞ」
答える声が無意識にふてくされたようになって、周は唇を噛んだ。

翌日、周は家に帰った。
なんとしても、兄が出発する前に咲子と篠崎を説得して、決着をつけたかった。
「尋由さんのところに?」
一ヶ月以上音沙汰無かった息子に、咲子は何も言わなかった。やつれたような顔が、痛々しい。初めて会ったときより、確実に老いている。当たり前なのに、周は今初めて気づいた気がする。
咲子だって、もう若くないのだ。
「うん」
頷いた周に、咲子は不安そうな顔を向けた。追い出したくないのだ。決して、そうしようと思っているのではない。
「わかってる。これは、俺の我侭だよ。嫌いなんじゃない。好きなんだよ。篠崎さんも、…母さんも」
そう周がにっこりと笑うと、咲子の目から、大粒の涙が零れた。
離れているほうが、上手く行くことだってある。
それでも、気持ちは変わらないのだから。
「今度、兄貴が出発する前に、皆でご飯でも食べよう」
そう言った周に、咲子は何度も頷いた。

home モドル 01 02 * 04