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la vision


尋由が旅立って、一ヶ月が過ぎようとしていた。
もともと家事が苦手ではない周は、一人の生活にもさほど苦労をしていなかった。兄のマンションには何度も泊まったことがあるし、通学にも慣れてきた。
あれから、「ステラ・マリス」には行っていない。忙しくて、それ所ではなかったのだ。
もともと高校生が一人で行くようなところでもない。
穂積のことも、忘れたと思った。
突然携帯が鳴って、夕食を何にしようかと冷蔵庫を開けていた周は、慌てて鞄を探った。
「はい」
部屋の電話は、基本的には出ない。尋由が旅行中のメッセージを残してあるし、それを説明するのも面倒くさいからだ。だから友達どうしの連絡には、専ら携帯だけで済ましている。
「もしもし」
聞き慣れない声だった。どこかで聞いたことはある気がするが、すぐには思い出せない。
「周くん?穂積だけれど」
その名に、心臓が鳴った。思わず、携帯を落とすところだった。
「なんで番号っ」
「そんな大声出さないで。ひろに教えてもらった」
くすくすと、笑う声が聞こえる。
心臓が、波打っている。部屋の真ん中に立ったまま、動けない。
「周くん?」
何も答えない周に、穂積が不審な声を出す。
「何の御用でしょうか」
周は精一杯落ち着かせた声で、感情を乗せないように口を開いた。
「ずいぶん冷たいね」
艶のある、低い声。
「すみません、俺忙しいんです。何でもないなら…」
そこまで言った周の耳に、小さなため息が聞こえて、周は言葉を止めた。
「夕食でもと思ったのだが…出てこられない?それとももう食べた?」
「いえ…」
「じゃあ、」
「あの、」
そのまま話が進みそうになって、周は慌てて口を挟んだ。
「俺、一人でも大丈夫ですから。気になさらないで下さい」
多少心配性の兄に、何を言われたか知らないが、周は別に面倒など見てもらわなくても良かった。このマンションを借りられるだけで、十分なのだ。
周の耳に、またため息が聞こえた。微かな、ため息。それからほんの少しの沈黙の後、囁くように、何か聞こえた。
「え?」
「一人じゃだめなのはね、俺の方なんだ」
切なくなるような、声だった。耳元で囁かれたようなその声に、全身が熱くなるのを、周は止められなかった。
あの、絡み付くような視線が、蘇ってきて。
にやりと笑った、あの唇も…
また、捕らえられる。動けなくなる。
迎えに行くから。
穂積はそう言って、電話を切った。

穂積が連れて行ってくれたのは、あまり肩肘を張らなくてすむ、小さな居酒屋だった。
「お酒、だめなんだっけ」
「いえ。あれは兄貴が…」
そう言うと、じゃあひろに怒られるなあと言いながら、穂積はビールを二つ注文した。
「内緒だよ」
そう目を細められて、周はその顔からふいっと視線をずらした。
穂積は、周が美術に興味があることを知って、色々な話をしてくれた。これからのクリエーターの傾向、いかに若手を育てるか。展示場としての美術館の機能。ワークショップのこと。
周は初めて聞くそれらの話を、夢中になって聞いていた。兄の影響で展覧会に行ったりはしても、そんな話の出来るのは、その兄ぐらいだった。
「周くんも、将来はひろみたいな仕事に就きたいの?」
穂積が、何杯目かのビールを飲み干した。その顔は、飲んでいないときと少しも変わらない。一方周は、一緒になって飲んでいたから、かなり酔っている。目が少し、据わってきている。
「わからない…」
今までは、そうだと思ってきたが、それが本当に自分のしたいことかと問われれば、力強く頷ける自信はなかった。
本当は、何をしたいのだろう。
漠然とした、不安だった。何かなくてはいけない気がして、兄の世界に興味を持った。でも、それが本当に自分の求めることなのか。
小さい頃から、ずっとそうだった。追いかけ続けるのは兄の背中で、それはまた、安全な道でもあった。
そこを歩きつづけることに、周は疑問を感じはじめている。平坦な、何の冒険もない道。兄はその道を自らの手で切り開いたのに、自分はその上を歩いているだけ…
本当は、もう決めなければいけない。大学に行くのは、そのためだと周は言いたい。それなのに、見つからない。わからない。道を切り開くどころか、袋小路に迷い込んで出られなくなっていた。
「少し、飲み過ぎたね」
穂積がそう言って、立ち上がった。周も、のろのろと立ちあがる。なんとか自力で歩けそうだった。
「ごちそうさまでした」
外の空気が気持ちいい。星が、瞬いていた。都内でもこんなに見えるのかと、ぼんやりと空を眺める。
「送って行くよ」
そう言う穂積に、周は首を振って、
「飲んでるのに」
そう呟いた。その言葉に、穂積がくすりと笑った。
「やっぱり兄弟だね。同じことを言う」
くすくすと笑う声が、近づいてくる。火照った頬を、撫でられる。
ゆっくりと、瞳が近づいてくる。あの、目が。
熱い息が、さらりと頬を撫でた。
それから、口付けられた。
確かに、兄貴なら言いそうなことだ。
口付けられながら、周はぼんやりとそんなことを思っていた。

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