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la vison 第二話
02
けだもの、と呟かれた言葉は、二人に対してだろう、と穂積は勝手に解釈した。目の前で、尋由が呆れきった顔をしている。
「今夜会う約束をしていたんでしょう?」
「してる、んだよ」
「どうでもいいですけどね。後で俺の部屋にも来るように言ってくださいね」
会議時間ぎりぎりにやってきた穂積は、明らかに寝不足の、でもひどく穏やかな顔をしていた。その上、尋由に会っての開口一番が、「預かってるよ」というものだった。
「しばらく俺のところでも構わないよ。どうせのんびりするんだろ?」
穂積がそう言うと、尋由がなぜかとても嬉しそうににやりと笑った。仕事中にそんな顔をする尋由は珍しく、穂積は目を眇めた。
「なんだ?」
「昨日、話もしないでベッドに直行しましたね?その後も、話なんてしてないんだ」
くすくすと笑っている尋由に、穂積がますます不信感を募らせると、笑いを抑えきれないような顔のまま、すみません、と尋由が言った。
「今後のこと、きちんと話したほうがいいですよ。あいつ、もう就職先も決めてましたから」
思わぬ言葉に、え?と穂積が尋由を見つめた。
「それについては、俺もちょっと気になる所があるんです。だから、ちゃんと話して見て下さい。このところ、あいつはちっとも可愛くない」
昔は自分のあとをそれこそ迷いなく、必死でついてきてくれたのに、この男と会ってから、自分の背中など見てくれていないと尋由はわかっていた。留学中も、自分より穂積宛の電話が多いのはどういうことだ、と思っていた。
「就職って、どこに?」
穂積も尋由も、漠然と周はこの会社に入る、と思っていた。周と話したこともない、根拠のない変な確信だった。でも、高校時代アルバイトをしていたときからここのことを周は気に入っていたし、大学時代も穂積と再会してから、またアルバイトをするようになっていた。だからそのまま、社員になるものだと思っていたのだ。
「ネイキッドだそうです」
「ネイキッド?あれはセレクトショップだろう?」
いや、展示スペースもあるな、と穂積は白い店内を思い出した。
ネイキッドは、ここのところ勢いづいている都内のセレクトショップだった。服、靴、本、CD、生活用品など、あらゆるものをネイキッドの基準で選んでいく。何度訪れても飽きの来ない新鮮な品揃えと、質の高い基準、ブランドには拘らない姿勢、それらが業界内で受けていて、穂積もときどき覗いている。地階にはカフェが、二階のロフト部分には小さな展示スペースがあって、いつか、是非コラボレートしよう、と穂積はオーナーの指月(しづき)に言われていた。
「どういう経緯でそうなったのかは、ご自分で聞いてください」
尋由が突き放したようにそう言う。
「おまえの気になる点はなんだ?」
「その、「いきさつ」ですよ。あなたも俺と同じ気分を味わうべきです。だから、周から聞いてくださいね」
嫌な予感がした。オーナーの指月はよく知っている。妙なところで馬が合って、飲みに行ったりもした。
そう言えば、この間ヨーロッパ方面に買い付けに行くと言っていなかったか。
それを思い出して、穂積は知らず眉根を寄せた。すぐにでも家に電話をして、周に聞き出してやる、と思ったのに、尋由の仕事を優先してください、の冷たい一言に、受話器は上げることすら出来なかった。
イライラした気持ちのまま仕事を終え、さっさと部屋に帰ると、周はテレビを見たり雑誌を読んだりしていたらしく、ソファーから気だるそうに身体を起こした。明け方まで抱き尽くして、出掛けようにも出掛けられなかったのだろう。
それから二人は、周の希望で鮨屋に行った。二人で何度か行ったことのある、小さな鮨屋だ。帰国祝いだと穂積に言われて、周も遠慮なく頼んでいく。穂積はいつものように、最初は日本酒を舐めながら、ゆったりとしたペースで食べていた。それから、ステラ・マリスに向かった。
「いらっしゃいませ……って、周じゃないか。帰ってきたのか」
オーナーになっても、バーテンを止めない一真が、嬉しそうな顔で出迎えてくれて、周も思わず顔を綻ばせる。
「昨日ね」
そう言うと、それでもう穂積さんと一緒にここに来てるってことは、尋由が拗ねてるな、と笑う。
「兄さんとは昨日話したよ」
周と穂積はカウンターには座らずに、奥のソファーに向かった。週半ばの夜は、どこかゆったりとした雰囲気に包まれている。一年は長いが、こうして変わりない所があるのはとても安心できるのだと周は思った。
「その話、を聞きたいんだけど」
座るなりそう言われて、周は何が、と顔を向けた。穂積は殊更冷静な顔をして、就職のこと、と言った。
「ああ、昨日、ちゃんと話もしなかったんだっけ」
何を思い出したのかくすくすと周が笑って、穂積はため息を隠した。
「ネイキッドだって?」
「そう」
あっさりと、周が頷く。頼んでいたカクテルが運ばれてきて、穂積はそれをとりあえず飲んだ。
「なんで急に?」
「急でもないんだ。二ヶ月前に指月さんがドイツに来てて、俺が気に入ってよく見に行っていたギャラリーで偶々会ってさ」
そこで、ネイキッドというセレクトショップを東京に開いていること、そこには展示スペースもあること、帰国したらそこで働いてみないか、と誘われたこと。それらを周は簡潔な言葉で言った。それでは、なぜ尋由が気になることがある、と言ったのか穂積にはわからなかった。
「お店のイメージファイルとか見せてもらって、面白そうだなあって思ったんだ」
屈託なく、周はそう言う。でも、穂積は何か納得できなかった。約束など、してはいなかったのに。
「俺はてっきり、うちに就職すると思ってたけどな」
穂積がそう呟くと、周が「それはないな」と苦笑した。そのあまりにきっぱりした言い方に、穂積は目を眇めた。
「あそこはもう完成されてるって言うか、穂積さんの世界だろう?それを支えるのは尋由で、重さんたち立ち上げメンバーで」
自分の入る隙はない、とでも言いたげに言葉を中途半端に切った周の顔は、少しだけ淋しそうで、でも穏やかだった。仕方がない、と諦めた顔だ。
「ちょっと待て。俺はおまえと仕事をしたかったんだぞ?それは尋由も、他のメンバーも同じだろう。あれは、俺の世界じゃない。H(アッシュ)の世界だ」
わかっている。わかっているが、穂積がいなければアッシュではない、と周は思っていた。でも、自分はいてもいなくても同じだ。
そんな子供じみた我侭を言いたいわけでもないのだが、あそこにいたらいつまでも穂積の背中を見ることになる。そうではなく、隣に並んで、一緒に歩いていきたいのだ。それにしても、もっと時間をかけてゆっくりとやれたらいいのに、周はどことなく焦っていた。
自分では自覚していない不安を、ずっと抱えている。
いつか、穂積に捨てられるかもしれない。所有されたわけでもないのに、そんなことを思う。それを馬鹿らしいと言うことは簡単だったが、忘れることは難しかった。
追いつきたい。穂積にも、そして尋由にも。
「周?」
「でも、やっぱり俺はネイキッドで働いてみたい」
そこで、穂積から離れて、自分の目が確かなのかどうか、確認したかった。そう言う意味でネイキッドは、周にとっては挑戦の場であり、生意気なことを言うなら踏み台なのだった。
「……わかった。でもおまえ、まだ何か隠してないか?」
「なんで?」
「尋由が気になることを言った。おまえがネイキッドで働くことになったいきさつがどうとか」
その穂積の言葉に、周は内心舌打ちした。尋由も、余計なことを言ってくれる。
帰国した日の夜に久しぶりに酔って、気が抜けたこともあるが、ついぺらぺらと聞かれるままに指月とのことを話したのは間違いだったのだ。残念ながら、兄弟ともども、酒で記憶を無くすということは今までにない。
「さっき言った通りだよ?」
「そんなわけないだろう?何があった」
何もない。突き詰めれば、何もないのだ、本当に。でも、周がそう言っても、穂積は納得しないだろう。
指月には、確かに口説かれた。相手はどうやら穂積と自分の関係を知っている節があって、からかわれたのだとわかる。からかわれて、寂しさ紛れに遊ぼうと、誘われたのだと。日本に帰ることが決まっていなかったら、もしかしたら危なかったかもしれない。
指月は、穂積にどこか似ていたから。
指月もバイセクシャルで有名らしく、尋由には、暗にそのことを言われた。周は「からかわれた」と言ったのだが、指月に良い印象を持たなかったようだ。大体の想像がついたのだろう。
だから、出来れば穂積には言いたくなかったのだが。
「何もないよ。ちょっとからかわれたけど」
「からかわれた?」
「そう。俺たちのこと、知ってるみたいだった」
周はそう苦笑したが、穂積はぎりっと奥歯を噛み締めていた。指月は、人のものに手を出すのが好きなのだ。
冗談じゃない、と穂積は思う。
今回は、遊びだろうが本気だろうが、手を出されたくない。以前は、そうやって指月と張り合うのが楽しいときもあった。でも、穂積は一度周を手離している。もう、離すつもりはなかった。
まさかそれだけのために指月が周を採用したと言うことはないだろうが、それでも絶対に何か仕掛けてくるのはわかりきっていた。
「周」
「駄目だよ」
何か言う前から、周が断固とした口調でそう言った。
「もう、決めたんだ。だから聞かない。だいたい、馬鹿げてるよ。指月さんはからかっただけで、俺は……」
ふいに周が口を噤んだ。そのさきの言葉を予想して、穂積はため息をついた。
そんな風にほんのりと赤くなって俯かれたら、わかった、と言うしかない。
指月の、にやりと人の悪い笑みが、見えた気がした。
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