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la vison 第二話
03
周が働き始めたのはすぐのことで、それに穂積は不機嫌さを隠さなかった。新卒採用ではなく、中途なんだから仕方がないだろう、と周は言っていたが、指月の魂胆が見え隠れしている。
実際は展示スペースのスタッフの助手をしているということだったが、指月が色々と面倒を見ていることも穂積は知っていた。
穂積は少し自棄になって手に持っていたシャンパンを煽った。何もないのはわかるが、何かあってからでは遅い。周はそのあたりを随分呑気に考えているようで、それが穂積をイライラさせてもいた。そのイライラの元凶が、にっこりと笑ってこちらに向かってくる。
「よお。おまえに凄まれると怖いなあ。改めていい男なんだと認識するよ」
くすくすと楽しそうに指月は笑って、穂積の隣に立った。今日はどちらも親しくしているギャラリーの大規模な展覧会のベルニサージュで、指月が来ることは予想できていた。会っても無視しようかとも思ったが、どうやっても指月を楽しませるだろうとわかっていた穂積は、正直なまま指月を睨んだ。睨まれた方はそんなことは気にしてないように、それどころか本当に楽しそうに頬を緩めた。
「おまえがそんな顔をするとはねえ。まあ、わからないでもないか」
最後の呟きに、穂積の目がますます険しくなる。
「どういうつもりか知らないが、手を出すな。あいつは悔しいことにおまえのことは尊敬してる」
それもまた、穂積を苛立たせる原因にもなっていた。客観的に見れば、確かに指月の目は確かで、毎月のように変わる商品は、期待を裏切らない。
「ふーん……大事なんだ」
「ああ。どこかの誰かの目に触れるところには置いておきたくない」
穂積がそう言うと、指月の片眉が上がった。それから、ふいに穂積の肩に腕を乗せて、耳元で囁くように話し出した。
「雰囲気がいいんだよね、周は。自分にストイックで、その割に自分の気に入ったものを見るときは無邪気な目をしてさ。かと思うと、疲れたときの色気に誘われる……」
そこまで言って、ぎっと間近で睨まれた指月は、くすくすと笑いながらその身を離した。
「怖いなあ。そう言う穂積もなかなかそそられるけど」
「気色悪いこというな。とにかく、今回はお遊びはなしだ。他の奴に当たってくれ」
穂積の言葉に、指月は頷くでもなく、ただ肩を竦めただけだった。
じっと壁にかけられた写真を見つめる周は、とても純粋な何かに見えた。触れたら傷つけてしまうのではないかと思うほど、美しい魂がそのままそこにあるかのように。
それは、無垢であるがゆえに外敵に弱い、幼い子供のような魂だ。
そっとそれを抱きしめたいという思いと、めちゃくちゃに傷つけてしまいたいという思いと、相反する気持ちが指月を苦笑させる。その、どちらも出来ないと言うのに。
それにしても、穂積は厄介なものを手に入れたものだと指月は思った。遊び上手で、恋愛など駆け引きが楽しいだけだと思っていたはずの穂積には、あまり似合わない相手だ。
「周」
呼ぶと、ふらりと振り返る。夢から覚めたばかりで、現実と区別がつかないかのように一瞬惚けて、すぐにそれに気付いて照れたように笑う顔はまた、絶品だと指月も思う。
それが穂積のものなのだと思うと、指月はどうしても悪戯がしたくなる。
「今日はもう上がれるだろう?どこかに飯食いに行こう」
「オーナーはまだお仕事でしょう?」
「うーん、ちょっと行き詰まり。気分転換に上手いものでも食って、もう一回考える」
来月のメインを何にするか考えながら、どうにも上手くまとまらないコンセプトに飽き飽きしていたところだった。それで閉店後の店内をぐるりと回っていたら、周が写真を見つめていた。
前から、周のことは気になっていた。穂積がぱたりと遊びをやめた原因が、どうやら本命が出来たからだという噂があって、さらにそれがあの穂積の片腕の弟だと言うのだから、興味を持つなというほうが酷だと思った。まさかベルリンで会うとは考えていなかったが、会ってみれば、納得できるようなできないような、不思議な感覚を持った。
ベルリンのギャラリーで会ったときも、先刻のように無心で壁に掛かる絵を見ていた。その無垢さに、穂積は惹かれたのか。あまりにも、自分達とは対極にいる、周に。
「オーナー?」
パスタを食べながら、ふいに黙り込んだ指月に、周が声をかけた。
ショップから近い、イタリアンのレストランで二人は食事を採ることにした。また戻るのなら、近場にしようと周が言ったのだ。
「ごめん、ベルリンで周と会ったときのこと考えていた」
にっこりと笑うと、周がふいっと視線を逸らした。こんな風に駆け引きもできない、この子供のどこか良かったのだろう、と指月は思う。そして、だからこそ、興味が湧く。
「惜しかったなあ。もう少しだったのに」
「何がですか?」
惚けているのか、それとも本当にわかっていないのか、周の口調からはわからなかった。
「もう少しで、周を落とせた」
そう指月がもう一度、甘い笑顔をすると、思わぬ反応が返ってきた。てっきり、また赤くなるか目を逸らすかすると思ったのに。
ふわりと、本当にふわりと言う感じで、はにかむように笑ったのだ。それは、指月が一瞬、見惚れるほど綺麗な笑顔だった。
脈ありなのだろうか?と指月は軽く眉根を寄せた。そんなに簡単に落ちてくれては、つまらない。穂積と別段、上手くいっていないわけでもないだろうに、この反応はなんだろう、と指月は珍しく混乱していた。
「周……?」
思わず呟くと、もう一度、今度は苦笑に近いはにかんだ笑顔を見せた。
「すみません。俺もあのときのこと思い出して」
周は、心の中で舌を出しながらそう言った。正確には、そのときのことを嫉妬した穂積を思い出したのだ。からかった、と言っただけですごく恐ろしい形相をした穂積が、そのあと荒々しく自分を扱ったことが、どこか甘い記憶に残っている。馬鹿みたいだと思うが、そんな穂積が、愛しかった。離れている間に、不安だったのは自分だけではなく、穂積も一緒なのだと確認できて、嬉しかったのかもしれない。
周は、大切なのはたった一つだと知っている。
自分が、穂積を好きだと言うこと。
どうやっても、離れられないのだと知っていること。
出会って、別れて、また出会って、その間に周はその自分の気持ちに自分自身で諦めをつけた。これは、もうどうやっても変わらないのだと。
再会してもう三年が経つ。それでも、変わらないこの思いに、自分で呆れるくらいだった。
「周って、結構わからないな」
「わからない、ですか?」
「そう。穂積とは長いんだろ?」
急にその名前が出てきて、周は一瞬答えにつまった。
「ええ、まあ。やっぱり、知ってたんですね」
「俺はね、あいつと張り合ってたんだ」
何を、とは聞かなくても周は知っていた。出会った当時から、それから別れていたその間、穂積がどれほど浮名を流していたかなど、よく知っていた。その度に、自分の気持ちを再確認させられて、少々腹立たしかったこともある。
「オーナーも、もてそうですからね」
「も、か。心配じゃないの?穂積のこと」
「それは……心配しても仕方がないと言うか」
ふうん、と言った指月は、にやりと表面では笑いながら、心の中ではつまらない、と思っていた。穂積は、確かにこの目の前の青年に入れ込んでいるし、周は周で、とても幸せそうだ。
「ドイツにいたのは一年間だっけ?」
「ええ、大体」
「その間、穂積もよく我慢したな。あいつ、すごいだろ?」
意味するところがわかって、周は何が、とは聞けない。その上どこか意地悪な目の前の指月に、周は内心首を傾げた。からって遊ぶ「意地悪な」指月は知っているが、今は少し、悪意がある気がする。
「どうしたんですか?」
「何が?」
どこか、穂積と言う遊び友達を取られて拗ねているようだ、というのが周の一番の感想だったのだが、まさか本人にそんなことは言えず、結局「いえ」と言葉を濁して、周はワイングラスに口をつけた。
「嫉妬した、かな」
ふいにそんな言葉が聞こえて、周は今度は本当に軽く首を傾げた。
「やっぱり、俺に乗り換えない?」
「え?」
「穂積なんかやめてさ。俺と付き合おうよ」
ベルリンで聞いたのと同じセリフだった。でも、目の前の指月はどこか真剣で、周はあの時と同じように、冗談は止めてくれと、誤魔化すことも出来なかった。
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