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満ちてゆく月欠けてゆく月

03
 レオーネの心配は的中し、フェルディナンドの彫刻専念宣言は、ルカへの風当たりを一層強くした。それがルカの絵の所為だとはフェルディナンドも言わなかったのだが、それは工房内で密やかに囁かれていた。中には、確かにルカの絵は見事だと正当に評価するものもいたが、嫉妬交じりの嘲笑も消えはしない。いわく、あばたもえくぼ、先生も骨抜きにされたのだと、フェルディナンドにまでその被害は及んでいた。
 ルカ自身は、相変わらずそんな周りの噂には気付かないかのように、毎日絵を描いて過ごしていた。今度は一枚自分で書いてみなさい、と小品だが受胎告知の絵を描くように言われて、舞い上がっていたのかもしれない。
 初めての着色を伴う絵は、ルカをすっかり魅了していた。木炭や白チョークだけの世界から、人の肌や衣類の質感や量感を存分に発揮できる色彩の世界に飛び込んだルカは、その虜になっていた。また、時と共に半透明になり、幾層にも重ねられると言う当時北方からもたらされたばかりの油彩という新技法も、ルカの心を捉えていた。でも、何よりもルカが惹かれていたのは、明暗とそれによる質感、質量を表すことだった。
 やってみたいことも、試してみたいことも、知りたいことも、たくさんあった。だからルカには、毎日が忙しく、そんなルカの耳には密やかに囁かれるのみの噂は、届かなかった。そして、そうしたルカの態度が余計に、反発を買っていた。だから、事件は起こるべくして起こったとも言えるのだった。


 冬の麗らかな午後。ジェレミアとレオーネは、居れば何かと煩いフェルディナンドの留守に、お茶でも飲んでのんびりしようと中庭の見える食堂にいた。先刻まで、もう期限はとっくに切れた品物の梱包を手伝わされていたのだ。小さなその絵は、まだ乾ききっていないために、細心の注意でもって運ばねばならなかった。そんなことになったのも、ひとえにフェルディナンドの怠け癖の所為だったが、二人はそんなわかり切ったことを言う気にもなれず、面倒な梱包にぐだぐだと文句を言うフェルディナンドに付き合っていた。
「どうせ忘れてたとか、やる気がなかったとかってだけなのに、言い訳だけは上手いからなあ」
 溜息を吐きつつ、レオーネが言う。ジェレミアも、毎度の事ながら頭が痛いと苦笑した。
「催促がないとやらないんですから。本当に困ったものですよ」
 それでも、きちんと料金は貰ってくるのだからすごい、とジェレミアは変なところで感心した。
 まったくな、とレオーネと二人笑ったところで、がちゃんっ、と何かが割れる音が中庭に響いた。二人は一瞬顔を見合わせて立ち上がり、音のしたほうに走っていく。どうやら大工房からのようで、何かどたどたと慌しい音が続いて聞こえてきていた。
「どうしたんです」
 ジェレミアが極力落ち着いた声で大工房に入ったときには、部屋の真ん中で、二人の弟子が取っ組み合いのけんかをしている真っ最中だった。周りで、他の弟子達は呆気に取られたようにそれを見ている。周りにはテンペラの接着剤として使う卵や、溶かれた絵の具、木片などが散乱していた。
「何をしてるんですかっ。止めなさいっ」
 ジェレミアがそう叫びながら、二人の間に割ってはいる。しかし、線の細いジェレミアが二人を押さえつけることができるはずがなく、すぐにレオーネも手伝った。周りなどまるで見えていない二人を、どうにか引き離す。
 はあはあ、と荒い息を吐きながらレオーネに掴まれた腕を振り払おうと躍起になっていたのは、ルカだった。怒りのためか身体が細かく震えており、その目は目前でジェレミアに抑えられたウーゴを睨みつけていた。そのきつい眼差しとは対照的に、瞳は今にも泣きそうだった。
「二人とも、ここをどこだと思ってるんです?大事な、工房です」
 ジェレミアが深い溜息を吐いた。それから、説明を求めて視線をめぐらすと、エドアルドの前でその視線を止めた。こんな争いごとに参加せず、最も適切に説明できるのは彼が最適だったからだ。それをわかっているのか、エドアルドは小さく肩を竦めて口を開いた。
「ことの発端は、ルカの受胎告知の絵の板が割れていたことです。小品で、大きな絵に隠れていたものだから誰も気付かなかったんですが、ルカが来て、続きを描こうと思って割れていることに気付いた」
 レオーネは、散乱している部屋の中を見渡して、その絵を見つけた。無残に、ぱっかりと二つに割れている。ほぼ完成しかけていたその絵は、陰影の美しい絵だった。
 掴んだ腕が、ぐっと動いたのがわかった。真下で、ルカが唇を噛み締めていた。
「それで?どうしてウーゴと」
「俺じゃないっ」
 ジェレミアの質問が終わらないうちに、その腕の中のウーゴが喚いた。
「確かに、さぼってた罰だって言ったけど、俺はそんなことしないっ」
 なるほど、とジェレミアとレオーネは知らず目を合わせて嘆息した。それを聞いて、ルカが怒りに飛び掛りでもしたのだろう。どちらもまだ子供だ。一度手を出したら止まりはしない。
「もう少しだったのに……もう少しで、」
 ルカはそう言って、堪えきれなくなったのかぽろぽろと涙を零した。両腕をレオーネに抑えられて、その涙を拭くことが出来ないが、それにも構わず、ぐっと唇を噛んで悔しそうに泣いている。
 レオーネはその様子に、知らず、後ろから抱き締めるように腕を回した。泣くのが悔しいのか、ルカは懸命に嗚咽を堪えている。
「とにかく、先生が帰ってくる前にここを片付けましょう。早くしないと、固まってしまう」
 ジェレミアがそう言って、レオーネにルカを連れて行くように目配せをした。しかし、ルカは首を振ってそれを拒否した。
「自分でやったから、僕も片付けます」
 ごしごしと、袖で涙を拭いながら、ルカは黙々と後片付けを始めた。それを見て、ウーゴも手を動かす。周りにいた皆も、目配せをしたあと、仕方がないとその二人を手伝い始めた。ジェレミアとレオーネは、やれやれと肩を落としていた。


 フェルディナンドが帰ってくると、弟子達はみな食堂に集められた。普段は優しい先生が、静かながら不機嫌に怒っていることを、そこにいる誰もが感じ取っていた。
「話はジェレミアから聞いた。ただの喧嘩だったら私も何も口出しはしない。でも、一つ気に食わないことがある」
 レオーネは戸口に立ってその様子を眺めていた。別段呼ばれたわけでもなかったが、居候のようでも一応は工房の一員なのだとは思っていたからだ。
「私も見せてもらったが、あれは明らかに故意に折られたものだ。でも、誰がそんなひどいことをしたのかは、今回は聞かない。ただし、二度目はないと思え。そして、覚えておけ。あんなひどいことをした奴は、ここで働く資格はない」
 それでいいな、と確認するように、フェルディナンドがルカを見た。ルカは微かに頷いて、唇をまた噛み締めていた。
 確かに、犯人探しは意味がない。それに、犯人が見つかっても、あの絵はもとには戻らないのだ。初めて、自分で描いたあの絵―――


 大工房に小さな明かりが点っているのが見えて、レオーネはそっと入った通用門からそちらに足を向けた。今晩はどうにも女を抱くのに気が乗らず、泊まらずに帰ってきたのだ。
「なんだ、おちびちゃんか」
 小さな灯りの下に浮かび上がった顔を見て、そんなことだろうと思った、とレオーネは苦笑した。ルカの前には、あの割れた絵が置かれていた。
「ひどいな……張り合わせて修復できなくもないが、もったいなかったな」
 レオーネがそう言うと、泣き腫らしたような目をしたルカが顔を上げた。
「いい絵だったのに」
 な、と言うと、ルカが大きく目を開いて、本当に?と言う。
「なんだ、だから泣いてるんだろ?」
「ちがっ……泣いてなんか」
 その目をして言っても、まったく説得力がない。レオーネは笑いながら、ルカの小さな頭をぽんぽんと叩いた。
「俺は顔とか服の線ばかりに興味があるから、別に同じように描きたいとは思わないけどな、陰影の凝った雰囲気のある絵だったじゃないか」
 そう微笑んだレオーネを、ルカは信じられないとばかりにじっと見つめた。仮にも、レオーネはもう一人で工房がもてるほどと言われる大先輩だ。確かに自分が描きたい絵と、レオーネの描く絵は違うが、大作を何枚も仕上げたレオーネに誉められるとは思っていなかったのだ。
「また、描けよ。大丈夫。絵は残っていくじゃないか」
 ぽんと置かれた、レオーネの手が温かく、優しい。ルカは胸が苦しく、どきどきと鳴るのを聞いた。
 格好いい、レオーネ。地位も、名もあって、それなのに、新人の自分のことを誉めてもくれる。そしてなぜか、淋しいときにいつも隣に居る。
「ほら、早く寝ないと、明日も寝坊するぞ?今回のことはやった奴が悪いが、おちびちゃんにだって、直すべき点はあるんじゃないか?」
 工房は、一人暮らしでもなければ家族でもない。どちらかと言えば共同生活に近く、だからこそ、協力し合わなければいけないのだ。
 こくり、と素直に頷いたルカに、レオーネはいい子だとばかりにその頭を撫でた。その子供扱いに、ルカは胸が詰まった。
「だから、僕はちびじゃないって」
「はいはい、わかってるよ」
 レオーネはそう言って、立ち上がった。ルカもつられて、ようやく重かった腰を上げた。
「それとね、もう少し、笑ってみろ」
 静かな廊下を歩きながら、レオーネが言う。ルカは「笑う?」と小さく小首を傾げた。
「そう、たくさんの人と付き合っていくコツ、みたいなもんか。あいさつは笑ってする」
 にっ、とそう笑ったレオーネに、ルカはくすりと笑った。ほらそれだよ、と頭を撫でられる。そう言えば、レオーネはいつでも自分に笑いかけてくれていた気がする、とルカは思った。
 レオーネは、ルカの部屋まで送ってくれた。そのときになって、初めてそれに気付いたルカがお礼を言うと、もう一度微笑まれた。そして、
 おやすみ、ルカ。
 そう呟いて、額に口付けられた。そのときにふわりと漂った甘い香りに、ルカの胸はもう一度、激しく軋んだ。


 翌日、ルカはなんとか早起きをして、厨房に走った。そこには既にエドアルドとジョルジュがいて、冷たい朝の空気に触れた上に、走って頬を赤くしているルカに、おはよう、と笑った。
「おはよう。あの、今まで、ごめんなさい」
 前半のおはようは、微笑んで、後半のごめんなさいは頭を下げて。ルカは昨日レオーネに言われた通り、挨拶は笑ってすることに決めていた。
「え、ああ、いいよ。もう」
 そのルカに戸惑ったのは二人だった。なんとなく早起きをしてしまった二人は、もうすっかり日課になったような朝食の準備に早めに来ていたのだ。そこに、いつもよりずっと早い時間に、ルカが来て。
「あの、僕、何をすればいいのかわからないし、そういうの気付くの苦手で。でも、頑張ります。だから、至らない点があったら言ってください」
 お願いします、と頭を下げたルカに、二人は顔を見合わせた。それから、ぷっと吹き出す。
「ほら、いいって。頭上げなよ。全く、その豹変振りは何だよ」
 ジョルジョが、笑ってルカの頭をぐりぐり撫で回した。
「え、ジョルジョ、あの、止めてください」
「それから、その堅っ苦しい喋り方、やめようぜ」
 言いながらも、ルカの抗議を全く聞いていないジョルジョの手を止めさせて、そのぐしゃぐしゃになった髪を撫でたのはエドアルドだった。
「改心はいいことさ。ルカも、わからないことは俺たちに遠慮なく聞いて来い」
 な、と笑うエドアルドに、ルカがこくりと頷くと、可愛いなあ、とジョルジョがまたルカの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
 なんだ、とルカは思う。
 みんな、優しい。自分ばかりで迷惑をかけたのはルカのほうなのに、ルカから歩み寄ろうとしたら、こんなに簡単に受け入れてくれた。ウーゴだって、昨日、片付けながら、「ごめん」と謝ってくれた。どんな理由があっても、絵を割るなんてよくない、と。それをルカを責めるようなことを言ったのは、間違いだと。
 ルカも、疑ってごめん、と謝った。そうしたら、ウーゴは、はにかむように笑った。
 遠くから、見ているだけじゃ駄目なのだ。ここで、みんなで暮らしていくのだから。
 それを、ルカはようやく、知ったのだった。


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