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シュレーディンガーの猫
04
響貴は、坂倉がこれからどうするかあまり考えていない様子なのを、不審に思っていた。どちらかと言うと放っておいてあるようで、だから響貴は、坂倉を疑ってしまう。
坂倉は、金目的で誘拐を企んだのではない。
だからと言って、何のためかと聞かれても、響貴にわかるはずがなかった。
響貴がこの話題に触れたくないと思っているように、坂倉もなるべくなら触れずにすませたいと思っていると、響貴には思えた。
だいたい、二人の間に会話はない。必要最低限の会話しかしないのだから、一日二言、三言交わすだけだった。
響貴は、こんな生活が続くならば、それでもいいのだと、ふと思う。でもその考えはあまりに幸福で自分に都合よく、そのことに期待しそうになる自分が、怖かった。
今の生活だって、充分おかしいはずだ。
それでも、響貴はこの生活を失うことを、既に恐れ始めている。だから、このまま何もしないでいたいと思う。
今朝方、坂倉が自分を甥だと小雪に紹介したように、そうやって、人を騙しながらでも生きていけないだろうか。
小雪は、古風な顔立ちで、はじめましてと微笑んだ。響貴が自分は昨日夢を見ていたのではないかと思ったほど、小雪は控えめで、囁くように話した。芯は強いのかもしれないが、派手なタイプでは決してない。
響貴には、わからないことがあった。二人は、決して恋人同士には見えない、と言うことだ。小雪が、せっかくだから朝食――というより、既に昼食の時間だった――を作ると言って、一緒に食事をしたのだが、二人とも、まるで昨日のことなど忘れたかのように、「友達」だった。あんなに激しく抱き合って、こんなに淡白になれるのか、不思議だった。二人が会話しても、視線を交わしても、それは、甘いものではない。
そんな関係は新鮮で、響貴は少し憧れる。互いを尊重しあって、互いが寄り掛かって。そんな風に抱き合うことができるとは、考えたこともなかった。
響貴には、そんな他人は、いない。ただ、楽しく食事をできる相手さえ。
坂倉の、仕事をしている音が聞こえてくる。見ていないテレビから、音楽が流れてくる。コーヒーメーカーには、いつでも飲めるコーヒーがあって、ときどきそのコーヒーをカップに注ぎに、坂倉が来る。自分が注いでそれがなくなったら、響貴はとにかくまたコーヒーを落とす。他人の、ために。ご飯を食べようよと言ってみたり、おやすみといったり、おはようといったり。
こんな生活を、知るべきではなかった。
あの籠の中で、大人しく暮らしているべきだった。
たとえ、自分が引き起こしたことではないにしろ。
数日して、小雪が再び訪れたときには、響貴はまだ起きていて、小雪が坂倉の部屋に入っていくのが見えた。小雪は響貴に手を振りながら、扉を閉める。
響貴は眠りにつくことが出来ずに、ビデオをセットした。ホラーを面白いと言った響貴に、坂倉が借りてきた物だった。わからない人だと、響貴は思う。全くわからない、誘拐犯だ。
なんとなく電気を消して、暗い中でビデオを見た。何もない部屋で、膝を抱える。
映画に気を取られることを期待していたのに、小雪の声やベッドの軋みが、響くように聞こえている気がした。実際、ときどき小雪の声が聞こえる。響貴は、この間戸の間からのぞき見た、二人の絡み合いを思い出した。響貴は、女を抱いたことはない。そんなことが、あの檻の中で出来るはずがなかった。
あのとき、響貴には坂倉の背中しか見えなかった。ゆらゆらと、髪が揺れているのも薄っすらと見えた。外から想像できる通り、引き締まった身体だった。その背に、小雪の足が絡みついていて――
ふと戸が開いた音がして、響貴は思考を画面に戻した。身体が熱くなっている気がして、戸が開いたことに気づかない振りをする。すると、「ねぇ」と小雪の声がした。
響貴が振り向くと、何も身に付けていないだろうと想像できる小雪が、戸から顔だけ覗かせていた。響貴が振り向いたのを確認すると、にこりと笑って手をひらひらと動かして、手招きをする。響貴は一瞬意味がわからず、眉根を寄せた。テレビの画面の明かりのせいで、その表情は小雪には良く見える。
「一緒に、どう?」
立ち上がる気配を見せない響貴に、小雪がそう言った。響貴は、それさえも耳を疑って、いっそう目を細める。小雪の口調は、まるでその辺に出かけるから一緒に行こう、と言うかのような口調だった。
「ね、おいで」
小雪のその言葉に、響貴は困惑する。確かに、誘われているのだ。
「でも……」
響貴が部屋の中の人物を気にするかのように視線を部屋の壁に泳がせたから、小雪が笑う。「あいつの相手をしないか」と言ったのは、坂倉だった。女を知らないだろうから、と言うのだ。小雪は別にどちらでも良く、響貴は魅力的な少年だったから、そうね、と賛成したのだ。
「女の人、抱いたことある?」
小雪は、離れているのに囁くように話すので、響貴はビデオを止めた。それから、答えずに顔を逸らす。小雪の聞き方は全く不思議なくらい自然で、厭味も、からかいもなかった。だからその分、少し恥ずかしくなる。
痺れを切らしたかのように、小雪がふらりと歩いてきた。響貴は反射的に視線を逸らしたが、小雪は薄い水色のスリップを着ていた。ひらりと揺れる裾から伸びる足が、すらりと真っ直ぐに伸びている。その姿で目の前に来られて、ね、と手を伸ばされると、響貴はどうしようもなくなって、立ち上がった。そのまま、手を繋がれて、寝室に連れられる。
寝室では、坂倉が上半身裸で、ベッドに座って煙草を吸っていた。少し気だるげな表情に、響貴はどきりとする。
小雪はそんな坂倉を邪魔にするようにベッドから追い出すと、響貴をベッドに誘う。坂倉は椅子に座って、響貴と目を合わせなかった。
響貴の着ているシャツやズボンを甲斐甲斐しく脱がそうとする小雪に、響貴は途惑って、恥ずかしがる。それを小雪は楽しんでいて、いっそうはしゃぐようにボタンをはずす。響貴は逃げ出したくなりながら、坂倉の視線を感じて、逃げられなくなっていた。
煙草を吸いながら、二人を見ている。
見つめているというより、手持ちぶたさなときに、道行く人を眺めている、と言う感じだった。その視線からは、何を考えているかなど分からない。
その坂倉の隣に置いてあったグラスに手を伸ばした小雪は、少しだけね、と言って、それを勧めた。薄暗い照明に照らされた室内で、琥珀色の液体が、ゆらりと揺れた。口に含むと、かなりきついアルコールだと分かる。
ズボンに手をかけられたときは、さすがに響貴は声を上げた。小雪はそれさえ無視して、響貴をベッドに押し倒した。それから、響貴の手をそっと自分の胸のふくらみに導く。
それから響貴は、自分が男だと言うことを嫌と言うほど知った。それは響貴を余計に興奮させる。小雪は別人のように艶かしく、巧みに響貴を誘った。
さんざん絡み合って、途中途中、坂倉がお酒を飲ませたこともあって、響貴も小雪も、少し意識が飛んでいるようだった。それでも二人とも、まだ絡み合っている。
ほんの少し入れた媚薬が、効いているのだろうか。坂倉はそう思いながら、ウイスキーをストレートで一口飲み、ゆっくりと立ち上がった。自分も、狂ってきている。ぼんやりと、そんなことを思う。
響貴の姿態は、美しかった。ほんのりと、匂いたつような白い肌。姉の響は確かに美しい少女だったから、そのために響貴もこれほど美しくなったのだろうか。汗をかいた額に、黒く長い髪が張り付いている。一つに束ねられた髪が、さらりと揺れる。坂倉はその髪を止めているバレッタに手を伸ばして、ぱちりとはずした。途端、さらりと髪が落ちて、その背中を覆った。
――自分もたいがい、狂っている
坂倉は、惹かれるように髪をさらりと撫でる。それから、その首筋に唇を落とした。完全に感じやすくなっている響貴は、それだけで背を震わせる。そのまま唇を震える背に落としていくと、喘ぎ声を上げた。坂倉は、背骨を唇でたどりながら、その脇を大きな手で撫でていく。
響貴は、それが坂倉だと、すぐにはわからなかった。小雪は目の前にいるのに、何故後ろに唇を感じるのだろうと思った。でも、大きな手のひらを感じて、それが坂倉だとすぐにわかった。
響貴がいつも見ているのは、坂倉の手だ。細く、長い、ごつごつした手。時折無性に、触れてみたくなる。その手が、自分の肌を撫でていると思ったら、それだけで響貴は達しそうになった。
その感覚を、響貴は恐れた。だから、快楽に身を任せた。目の前の、小雪だけを見て。
それでも、背を撫でていた手がするりと尾骨を撫でてさらに奥へとはいろうとすると、響貴は身を硬くした。瞬間、叫びを上げそうになるのを、坂倉の囁きに封じ込められる。
「気持ちよくする」
その声が濡れていて、響貴は思わず目を閉じた。そして、全てを忘れて、坂倉の手の、指の、唇の動きだけを追った。
すべて、全て、坂倉だ。
後ろから顎を掴まれて、その指が唇をなぞる。それが唇を開けてはいってくると、響貴はそれを夢中で舐める。そうしながら腰を動かしつづけて、小雪と響貴は、何回目かの絶頂を見た。
「そのまま、いれてて」
坂倉がそう言って、指を響貴の口から離す。小雪がそれをぼんやりと羨ましそうな目で見ていたから、坂倉は少しだけそれを小雪にも含ませた。響貴の後ろからそれをしようとするから、響貴は自然、小雪の上へ身を覆いかぶせるようになる。その頭をそのまま押さえて、坂倉は響貴の後ろを弄った。
ゆっくりと、少しづつ指を入れると、響貴と小雪が小さく叫ぶ。響貴の反応が、小雪にも伝わるのだ。
坂倉はそろりと指を増やしたりしながら、丹念に愛撫する。そのうち、小雪も響貴も堪らなくなってきて、動き出そうとする。坂倉も自分が堪えられそうになく、それでもそっと響貴の中へ入っていった。
この状況で、狂ってなかったのは、小雪だけだろう。小雪は、ただ情熱がセックスに傾いていたときがあって、複数で寝たこともあった。坂倉がどうやら薬を使ったらしいことも、薄っすらと感じていた。
それでも、小雪はおかしくなると叫んだ。三人の息遣いが、息苦しいほどに部屋に満ちていた。自分が今までに経験したことのない空気が、部屋中を満たしていた。こんなに、暗くて、切なく、不安になるようなセックスを、小雪はしたことはなかった。
坂倉と響貴の顔は、見ていない。薄暗い中、無意識に視線を逸らしたのだろう。
見なくて良かったと、今なら思う。
同じ闇に、小雪は入れない。怖くて、そんなことは出来なかった。
坂倉と抱き合うときに、そんな気持ちを持ったことはなかった。どこか安らかな、気持ちの良いもの。それが、坂倉とのセックスだった。坂倉が何か――欠落した何か――を求めていることは何となく感じていた。それは、小雪からは得られないもので、それでも小雪と肌を合わせることでその欲望が落ち着いているのだろうと思った。
あの少年が――最初は少女かと思った――その欠落を埋められるのだろうか。
違う。
小雪は突き上げられて、三人で堕ちていくときの感覚に、身震いした。
あの少年もまた、同じ何かを求めている。坂倉と同じ、何かを持っている。でも、孤独に求めていた何かを、二人で探せることに、陶酔しているのかも知れなかった。やっと出会えた、仲間とでも言うように。
その二人の行く末が、ひどく暗い闇であることが、小雪には恐ろしくてならなかった。
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