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overflow 3
01
その日は朝から怪しい空模様だった。これは撮影はできないと思ったのは正しく、とりあえず現場には行ってみたものの、結局太陽は拝めずに屋内分の撮影をしようという話になった。そのシーンに、俺の出番はない。俺は久しぶりに、そして突然に、オフを貰った。
冬にやったドラマが当って、続編、映画、と容赦なく俺のスケジュールは埋まっていった。ドラマでは、まだ大きなヒット作には出ていなかったから、事務所は大喜びだった。少しコメディの入った探偵物のそのドラマを俺自身も気に入っていたから、俺にとってももちろん、嬉しいことではあった。その上、舞台にも出ることになっていた。その演出家とは、前から組んでみたいと思っていた。あまりの忙しさに多少は迷ったが、チャンスは逃すなと社長にも言われて、頷いたのだ。俺はその殺人的忙しさに、少々参っていた。何しろ、イズルに会えない。
イズルはイズルで、四月に新学年が始まり、さらには受験生と言うことで、慌しくしているようだった。もう六月も終わろうとしているのに、会ったのは数度だ。相変わらず、あまりイズルから連絡は来ない。
俺はマンションまで矢野に送ってもらって、部屋に帰った。エレベータの中で携帯を取り出して、イズルの番号を表示させる。土曜の午後。イズルは学校から帰っているはずだ。着信はなかった。
かちゃかちゃと部屋の鍵を開けながら、今度紹介しろよ、と言った矢野の声が頭を掠めた。イズルの存在を知っていながら、俺からの紹介を待ってくれているのはありがたかったが、俺はまだイズルとの関係作りに必死だった。お互いの気持ちは確認しあった。でも、イズルはときどき、ひどく遠くで俺を見ているような目をした。その目に、俺は落ち着かなくなってしまう。イズルが逸らすことを決めたら、すぐにでも俺たちは簡単に繋がりなど切れてしまうのだろうと思ったからだ。
いまだに、俺はイズルの手を掴んでいるような気持ちが拭えなかった。絡み合うのではなく、一方的に俺が掴んでいるような、そんな感覚だ。
だからこそ、俺は気をつけていた。その手を、離さないように。離されない、ように。
部屋に入って、靴を脱ぎながらイズルに電話する。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのペットボトルを出したところで、イズルが出た。もしもし、と素っ気無い声がする。
「まだ、学校?」
「いや、もう家に着くところ、っていうか着いた」
かちゃかちゃと鍵を回す音が聞こえた。俺は期待を込めて、この後予定は?と訊いた。
「ないよ、特に。あれ、東、撮影は?」
今週末も撮影三昧で会えない、というメールは水曜に出してあった。イズルからは「わかった。身体だけは気をつけろよ」という、優等生なメールが返ってきた。心配されるのは、素直に嬉しい。だが、イズルは決して文句を言わない。何度「会えない」メールを出しても、わかった、と返してくる。
「この天気のせいで延期。で、オフ貰ったんだ。会えないか?」
最近、このセリフを言うのに緊張するようになった。メールで送るときもだ。いつからと思っても、わからない。あの、二人で行った花見の後ぐらいからだろうか。
一瞬、イズルが沈黙した。だから俺は、緊張する。また、断られるかもしれない、と。
以前から、用事があれば断るのがイズルだった。それについては、俺も文句はない。イズルはイズルの交流関係があり、まだ高校生だ、それはとても大切なことだろう。特に、仮面だ外面だと言っているイズルにとっては。だが、そんなとき、イズルはあっさりと断ってきていた。「友達と約束あるから」とか「バイトあるから」とか、理由もはっきりしていた。だが、最近は、歯切れが悪い。「ごめん、ちょっと駄目」だとか「悪いけど」とか、それだけの言葉のときもある。
「どこか、行くのか?」
イズルは俺への答えを言わずに、質問を返してきた。
「久しぶりだから、外で食べてもいいかもな。そこはイズルの好きでいい。あ、でも外に出るなら一箇所寄りたいところがある」
ふいにオーダーしていたシャツの事を思い出して、俺は付け足した。
イズルはまた少し、沈黙した。俺は堪らなくなって、煙草に火をつけた。
「イズル?駄目?一ヶ月近く、会ってないんだぞ?」
煙草を吸って、大きく吐き出す。携帯の向こうからは、何の音も聞こえてこない。なんだか途方にくれているイズルが見える気がして、俺は唇を噛み締めた。そのとき、そっか、一ヶ月……とイズルが呟くのが聞こえた。
「今、親父帰ってきてて、夕飯の用意しないといけないからすぐは出られないけど」
それから、そう言われて、俺は安堵のため息を吐いた。
「ああ、いいよ。迎えに行く。何時頃がいい?」
イズルはまた、一瞬沈黙した。それから、一時間後かな、と言った。俺は、じゃあ一時間後な、と言って電話を切った。
知らず、長いため息が出た。
イズルとどこかの店に入るときは、大概俺の行きつけが多い。俺が安心できる所為でもあり、イズルを安心させる所為でもある。顔が知られたもの同士なら、どちらかが騒がれてもそれほど気にならないが、イズルはそうはいかない。だから、店選びはいつも慎重にしていた。もちろん、俺がイズルに食べてもらいたいと思ったり、見て欲しいと思ったり、そういった場所であることも大事だった。
そういうこともあって、俺たちの出かける場所と言うのはごく限られていた。
いらっしゃい、久しぶり、とよく通る声で言われて、俺は片手を挙げて答えた。
「やっと取りに来られたのか。シーズン終わるぞって、ちょっと心配してた」
オーナー兼デザイナーの久喜が言いながら、奥に入っていく。イズルは狭い店内を興味深そうに見ていた。商品はそれほど多くない。久喜はあまり手広くやる気はないらしく、宣伝などもほとんどしていない。俺は趣味の合うスタイリストに教えてもらってここを知った。シンプルだがしっかりとした縫製で、質もいい。特にオーダーで作るシャツは、着たときにはっきりとその差がわかる。
「それ、似合いそうだな」
深い緑色のシャツを手にしたイズルに言うと、イズルは「そうかな」と首を傾げた。少し大人っぽいラインだが、ときどき、どきりとするほど大人の顔をするイズルなら、着こなせるのではないかと思った。それに、色の白いイズルにはきっと似合う色だ。
「その布ならまだありますから、良かったらオーダーで作りますよ」
奥から紙袋を持って現れた久喜がにこやかに言った。イズルはびっくりしたように首を横に振った。
「いえ、俺にはとても手が届く値段じゃないし」
確かに、丁寧に作っているだけあって、シャツにしては高めだ。久喜が俺を見た。
「東にねだってみれば?」
揶揄するようなのは、今まで俺が連れてきた人間に、そう言ってねだる輩が多かったからだ。大概は後輩や新人でちょっと気の合った人間で、友人というには少し年下のイズルも、同じように見えたらしい。
俺は返答に詰まった。イズルが欲しいと言ってくれれば、いくらでも作ってやりたい気持ちだが、イズルに限ってそんなことは言わない。出かけるたびに俺が食事代などを払うのも、あまり好きじゃないのだ。俺はイズルに何かをねだられたことはない。
イズルは、一瞬きょとんとしたような顔をしてから、肩を竦めて笑った。
「確かに、東なら買えるだろうけれど。つまり、俺には不相応ってことでしょう?俺もちゃんと働くようになったら、その時は是非、買わせていただきます」
イズルはそう言って、名残惜しそうにそのシャツを元に戻した。久喜が俺の横で、ふーん、と呟いた。
「なんか、毛並みの違うのを連れてるな、今回は」
「上等だろう?」
「ああ、質がいい」
久喜の軽口に付き合って、俺も軽く笑う。
「新人……って感じじゃないな」
「違うよ。写真家の名瀬さん、覚えてるか?その息子。話が合うから、ときどき遊んでる」
久喜が良くあの深夜番組を見てくれていることは知っていた。久喜はへえ、と頷いた。
こうして、イズルを少しずつ俺のテリトリーに入れていくのは、楽しいことであると同時に、策略めいたものでもあった。俺が信用できると思っている相手にイズルの顔を覚えてもらうことで、何かのときに上手く助けてもらおうと思っていた。例えば外で待ち合わせるとき、俺は必ずそれまでイズルを連れて行ったことのある場所を指定した。
イズルは多分、思っているよりずっと、俺との関係を恐れている。それが、脆くて壊れやすいと、怯えている。
俺は出来上がったシャツを試着して、直すところはないか確認した。その間、イズルはやはりどこか遠い目をして、俺を見ていた。
何が不安なのかと、俺は訊けないでいる。答えなどわかっている気がするし、その答えを聞いたところで、その不安を取り除くことはできないとわかっているからだ。
代金を払って車に乗って、何が食べたいかと訊けば「洋食」という答えが返ってきた。
「親父が帰ってきてるって言っただろ?だから毎日和食なんだよ。それも向こうはヨーロッパ回ってたから、あっさりしたもんがいいって言ってさ。俺はそろそろこってりものがいい」
焼肉とかもいいけど、なんかチーズが食いたい、と言うので、俺たちは洋食屋に行った。これぞ「洋食屋」と呼べるその小さなレストランは、本格派ではない。だが、古き正しき(と店主がふんぞり返って言う)洋食を出すのだ。確かに、どこか懐かしい感じもするその料理が、ときどき恋しくなる。
こうして会ってみれば、イズルがなぜあんな風に戸惑うのか、わからなくなる。先刻の店も気に入ったようだったし、今も店主と楽しそうに話をしている。
勘違いならいい。俺が気にしすぎているだけならいい。
でも、それが願望だと言うことも、わかっていた。
「今日のお薦めはビーフシチューなんですね……でも……」
うーんと考え込んだイズルを俺は笑った。チーズたっぷりなものが、それほど食べたいのだろうか。
「俺がビーフシチューにしようか。イズルはドリアとかにすれば?あとは分ければいいだろ」
「東はそれでいいのか?」
「いいよ。正直、ビーフシチューに惹かれるし」
それならと、イズルは海老ドリアにしたようだ。それから、サラダも頼む。
「どうせ弁当ばっかりで野菜食べてないんだろ」
「まあなあ。ちょっと名瀬さんが羨ましい」
俺がそう言うと、イズルは困ったように笑った。それから、暇になったらな、と小さな声で言った。
暇になったら――俺の好物でも作ってくれると言うのだろう。
勘違いならいい。
あの沈黙も、曖昧な断りも、ただの思い過ごしならいい。
俺が嬉しそうに笑ったら、イズルは照れたような顔をした。
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