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02
 部屋に帰ってくると、イズルはあからさまにほっとしたような顔をする。本人は気付いてないのかもしれないが、寛ぎ方が格段に違う。それは、嬉しくもあるけれど。
「わ、こら。飲まないのか?」
 冷蔵庫を開けて中を物色しているイズルの上に覆い被さったら、抗議の声が上がった。肩越しに俺も中を覗いて、飲むよ、とビールの名前を言う。イズルは笑って、それを一本だけ取り出した。
「イズルは?」
「半分でいい。さすがに腹いっぱい」
 確かに、あの洋食屋はボリュームがある料理が多い。俺もそれに賛成して、グラスを取りに行った。
「イズル、泊まっていくんだよな?」
 俺にビールを薦めたということは、そう言うことだろうと思ったが、一応確認した。タクシーで帰るとか、歩いて帰るとか言いかねないのだ。
「あー、東、明日は?」
「午後から」
「それなら泊まっていこうかな」
 イズルが俺の隣に坐って、ビールをグラスに注ぐ。きれいに泡立つそれを見ながら、俺はそうじゃなかったら、と思わず言葉を零した。
「そうじゃなかったら、泊まらないつもりだった?」
 なんて連れないんだろう。ひと月だ。ひと月近く、会っていなかったと言うのに。その上、明日は日曜日だ。
 イズルはビールをごくりと飲んでから、曖昧に笑った。
「仕事をしているのは、東だろ。すごい忙しいみたいだし。無理して欲しくない」
「……これで出来ないほうが身体に悪い気がするんだけど」
 言うと、イズルは呆れたように笑った。顔を近づけると、素直に目を閉じる。
「名瀬さんには?」
 唇を僅かに離して訊くと、イズルは頷いた。
「泊まるかも、とは書いてきた」
「そっか。でも一応、電話しとけよ」
 イズルは少し面倒そうな顔をしたが、俺が離れると、仕方なさそうに立ち上がって自分の携帯を取り出した。
 甘えているんだな、と思う。
 外面のいいイズルは、他の人相手なら、必ず連絡を入れただろう。だが、父親である名瀬さんに電話をするのは、面倒だと言う顔をする。それが、名瀬さんに甘えている証拠だと、俺は思っていた。少しだけ、羨ましい。
 きちんと連絡が来ないのは困るが、きちんとされすぎると、どこまでも気を使われているようで、淋しい。たとえば、わがままを一切言わないとか、約束を反故にされても怒らないとか。
「うん、わかってる。は?親父、酔ってんな。その話は明日聞くから。はいはい。じゃあな」
 有無を言わさない強引さで、イズルは電話を切った。そんなのを羨ましいと思うなんて、どうかしている。わかってはいる。
「東、先にシャワー借りてもいい?」
 ああ、と頷きながら、本当にどうかしている、と思った。
 未だに、イズルが借りるという言葉を使うとか、どうしたって他人行儀な感じなこととか。
 普段気にならないことまで気になって、俺は結局、イズルがシャワーから上がってくるまでに、もう一本ビールを空けてしまった。


 イズルの一番素直な顔が見られるのは、抱き合っているときだと俺は思う。快楽に忠実で素直なイズルは、甘えることさえする。だから、俺は必要以上にイズルを抱きたくなる。こうして肌を合わせているときだけは、イズルは俺を真っ直ぐに求めてくる。
 早く欲しいと、身体でも、言葉でも。
 このときだけ、俺とイズルは等しく互いを求めているような気がする。
「東……」
 甘い声で呼ばれて、ねだられて、口付ける。緩く絡み合う舌に合わせて腰を動かすと、俺の腕を掴んでいた手の力がきつくなった。
 もっと、掴んでいて欲しい。もっと、強く。
 俺が、錯覚しないように。
 それほど祈っていたのに、俺の願いは叶えられなかった。
 その日が、最後になるとは、思ってもいなかった。


「冗談じゃない。そんなことは出来ない」
 俺はあまりのことに、だんっとテーブルを叩いた。紙コップが揺れて、コーヒーが飛び散ったが、気になんてしていられなかった。
 イズルと最後に会ってから、二週間が過ぎていた。スケジュールのタイトさは相変わらずで、それでも、もうすぐ映画が一段落するはずだった。その後は、とりあえず舞台に力をいれることになっていた。そうなる前に、俺はイズルと一度会いたいと思っていた。だが。
「出来る出来ないじゃない。やるんだ。今回はおまえに選択肢はない」
 矢野がひどく厳しい顔で言う。その手の中でゆらゆらと揺れている写真に、俺はきつく唇を噛み締めた。
 何てことはない写真だ。ただ、俺とイズルが映っているだけの。でも、それが色々な場所で、何枚もの写真となれば、事務所も黙っていられなくなったのだろう。
 友人だと言って、確かに通じる。それほど、きわどいシーンは取られていない。だからこそ、今回のこの写真は使われなかったのだろう。でも、どういった経緯かはわからないが、事務所の手に渡った。それを見て、矢野も社長も苦虫を潰したような顔をしたに違いない。
「このままいったら、誰が一番辛い思いをする?一般人の分、きっと彼の方がきついだろう。それに、彼の父親は名の売れたカメラマンだったな」
 矢野はイズルのことなど大して考えていないに違いない。まずは自分の担当しているタレントありき、なのだ。でも、それをわかっていても、俺は矢野の言葉に返す言葉がなかった。矢野がイズルのことを心配していてもいなくても、言っていることは合っている。
 こんな写真が撮られたことがわかっただけでも、普通の生活をしている人間はいい気はしない。
「今後は気をつける。だから」
「駄目だ。言っただろう?選択肢はないんだ」
 ついでに他の妥協案もない、と矢野は言った。神経質そうな細い指が、写真を封筒にしまった。
 俺は事務所のソファーに坐って、くしゃりと片手で髪を掻き揚げた。矢野も社長も容赦がないことは良く知っている。
「……間宮側はなんでこんな話に乗ったんだ」
「あちらさんも同じような事情みたいだな。そもそも、これはあちらさんからのお誘いだから」
「間宮の方から?」
 矢野が頷いた。
「隠したいのか、壊したいのか、わからないけどな」
 間宮の現在の恋人のことなど、俺は知らなかった。どちらにしろ、俺をだしにしなければならないほど、やばい相手だということだけはわかった。
 俺は天上を見上げて、大きくため息を吐いた。昔、間宮と一緒に遊んでいたところを撮られたことを思い出した。二人の間に恋愛感情があったことはないから、大いに笑ったのだが。
「社長もこの計画にのるって?」
「仕方ないだろうって」
 矢野が肩を竦める。その様子から、矢野も社長も、この計画では大したスキャンダルにならないと思っているのがわかった。俺自身も、すぐに厭きられる話題だと思う。
 だからって。
 イズルのことを考えたら、俺はこの話には乗りたくないと思った。まだだ。まだ、イズルは俺に全てを預けてはくれない。そして、イズルから手を絡めてくれることもまた、なかった。
 自信がないのかと言われれば、その通りなのかもしれないと思った。不安で堪らなかった。いつか、イズルがするりとこの腕から逃げていくのではないかと。
「連絡を取らせてくれ。会ったりはしない。ただ、話をする時間が欲しい」
 結局、俺は大切な人間一人、守れないのだ。その人を、傷つけることなしに。
 どう話しても上手く話せるとは思えなかったが、突然よりはずっといいと、俺は間宮と俺の記事が雑誌に載ることを、イズルに伝えようと思った。ただそれは、事務所の都合ででっち上げた嘘なのだと、だから誤解だけはしないで欲しいと、伝えておきたかった。
 それなのに、その日からイズルと連絡が取れなくなった。会わないと言ってしまった手前、earshotに行くことも、イズルの部屋に行くことも堪えるしかなかった。
 俺は何度も電話をし、メッセージを残した。それでも、イズルは一言も返信してくれなかった。
 そうしているうちに、時間切れとなり、俺たちは馬鹿な写真を取られるための芝居をした。間宮が俺と、俺のマンションから出てくるという。
 間宮は少し泣きそうな顔で、ごめんと言っていた。それに俺は、頭を振るしかなかった。お互い、不器用でしんどい恋愛をしていると思った。
 こんな記事は、すぐに風化する。俺たちはノーコメントを通して、誤魔化すことにしていたからだ。そこまでしなければならないことが、俺は最後まで納得できなかった。
 その記事が雑誌に載る前に、なんとかイズルに連絡が取りたかった。時間なんてなかった。
 会いたかった。会って、話して、確かめ合いたかった。
 でも、結局雑誌の発売日になっても、イズルとは連絡が取れないままだった。
 呼び出し音が響きつづける電話を耳に当てて、会いたいとメッセージを送って、俺は待つしかなかった。イズルが、答えてくれるまで。
 だが、そうしてようやく返ってきたのが「ありがとう」という、絶望的な言葉だった。
 俺は矢野との約束を破って、イズルの部屋に車を走らせた。今会わなかったら、絶対に逃がしてしまうと思った。だが、既に遅かった。
 部屋には誰もいなかった。広告がドアのポストに突っ込まれたままになっていて、イズルは帰ってきていないとわかった。earshotに電話をしてみたが、イズルは来ていないという返事だった。
 ぼんやりとした明かりの下、俺はじっとドアを見た。ドアノブを握ってみると、ひどく冷たかった。諦めきれずに、それをまわす。ノブは半回転もしないうちに止まった。
 どんっとそのドアに肩を預けて、無駄だとわかりながら電話をかけた。でも、電波が届かないか、電源が切れていると言う素っ気無いメッセージが聞こえただけだった。
 ため息をついたところで、メールが来ているのに気づいた。緊張しながらそれを見ると、矢野からのメールだった。
『自分の立場を忘れるな』
 俺は携帯を叩き付けたい衝動に駆られた。
 わかっている。俺が、誰なのか。芸能人という立場を選んだのは、俺自身なのだ。
 俺は振り上げた手を、ゆっくりと下ろした。
 イズルは、俺の前から消えたのだ。


 ありがとうと言う感謝の言葉が、これほど痛いものだと、俺は今まで知らなかった。


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