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01
 ずっと、不安だった。
 東の隣はとても居心地が良くて、一緒にいることがとても幸せで。
 だから、怖かった。
 それを、失うことが。
 いつから怯えていたのか、わからない。たぶん、最初からだろう。


「あ、今度の東の映画のCM見た?」
「見たよー。カッコイイよね、あれ」
「ポスター欲しいもん。どっかで貰えないかなあ」
 休み時間になって、女の子達が雑誌を覗き込みながらそんなことを喋っていた。多分、俺が東に出会った頃に撮っていた映画だろう。もうすぐ公開なのか、と俺はちらりとその女の子たちの方を見た。
 東は俺が頼めば試写会のチケットをくれるだろうが、俺たちの微妙な距離がそれを戸惑わせていた。
 東は俳優である自分を、俺には見て欲しくないのだろうと思っている。俺たちはあくまでも、「素である自分」をさらけ出せることに安堵と幸福を覚えている。だから東は有名人扱いされると嫌がるし、俺もまた、東が芸能人であることを殊更意識しなかった。
 それは、自分の不安を隠すためでもあった。
 東はどんどん人気が出てきて、それこそ見かけない日はない、というほどに露出が激しい。映画にドラマにコマーシャル、雑誌にも出ているから、それこそ写真などが街に溢れかえっている。
 その東と、俺の知る東と。確かに違うと思う。でも、本当は同じだともわかっている。その「皆が知らない東」を知っている優越感がないといったら嘘だ。でもそれよりも、そうして誰からも好かれてしまう東がいることが――怖い。
 俺といると安心できるとか、素になれるとか言うが、東の周りになら、そうさせてくれる人間はたくさんいるんじゃないか、と思う。同じように、武装している人間は多いはずで、気持ちの共有などすぐにできる。例えそうではなくても、きっと素の東を受け止めて受け入れる人間など、たくさんいるだろう。素の東を知っているからこそ、断言できる。芸能人である藤原東の仮面を被らなくても、東は、魅力に溢れている。
 いや、本当は逆なのだろう。素の部分が魅力に溢れているからこそ、仮面を被っても滲み出るその魅力が人を惹き付けるのだ。
「東、東って、俺は共演の志穂ちゃんの方が見たいけどな」
 ポスターにどうしてあんなちっちゃく写ってるんだ、とクラスメートの金田が文句を言いながら寄って来た。志穂ちゃんとは、笹野さんのことだ。クリスマスのパーティーのときに見かけたよな、と俺はその姿を思い浮かべた。たしかに、可愛かった。でも。
 あのとき、しなだれかかる彼女に、俺は嫉妬したんだった。
 自分でも驚いて、だから、彼女のことも良く覚えている。知らない間にロンドンに行くことになっていた東に、連れて行ってと強請る彼女を、引き剥がしてやりたかった。
「なあ?」
「え?」
「イズルー。聞いてないな、人の話を」
 突然金田に話を振られた俺は何もわからずに、首を傾げた。いけないいけない、あの恐ろしいほどの嫉妬を思い出してしまった。
 俺がごめん、と困った顔をしていると、雑誌を見ていた女の子達がそれを持ってきた。
「金田くん、藤原東なんてすかしてるって言うのよ?失礼じゃない?」
 ある意味鋭い意見だなあ、と俺はくすりと笑ってしまったが、一応は庇ってやりたいと思って、(それに女の子を敵には回したくないから)、そうだね、と頷いた。
「かっこいいじゃないか、藤原東」
「あ、やっぱり、名瀬くんさすが。変な対抗心とか醜い嫉妬とかしないのね」
 そんなことを言われるが、東相手に対抗心を燃やす方が偉いと俺は思う。
「ちえー。いいよなあ。そりゃあイズルはいいよ。モテル奴は」
「なんだよそれ?別にもてた覚えはないけどなあ」
 何しろ外面だけはいい。だからそこに騙される子たちはいたみたいだけど……それはちょっと違うだろう、と俺にして見れば思う。
 俺と東は、似ているようで違うのだと、最近になってわかった。
 東はその外面を意識して着けたり外したりできる。でも、俺のそれは、もう肌に馴染んでいて、そのときどきで勝手に浮き上がってくる、そんな感じのものだった。
「よく言うよ……最近とっつきにくさがなくなったから声かけられるだろ、色々と」
 金田がにやにやしながら言う。確かに、遊びの誘いからちょっとしたことまで、前より頻繁に声を掛けられるようにはなった。今のような会話だって、以前だったらしていない。まあ、金田は以前から頻繁に話し掛けてくる奴だったが。
 いいことだ、と東は言う。仕事柄作っている東と違って、俺は自然と出来てしまった外面だ。それが楽なのならばそれもいいかもしれないが、やはり、自然でいられるのならば、それが一番いいのだろう、と。
 その辺りのことは、俺には良くわからない。もうこれで何年も生きてきたのだ。俺には、これも自然なのだと言える。
「そうだよね。さっきみたいに笑うことなんてなかったし」
 女の子の一人、石田さんがそう微笑んだ。さっき?と俺が首を傾げると、ほら、とくすくす笑う。
「そういう可愛らしい仕草も、ね」
 可愛らしい、と言われてしまうと、恥ずかしくなる。隣で、そうそう、と金田も頷いていた。
「ま、表情豊になったのはいいことだ。だけど、女の子を取っていて欲しくないよなあ」
「取るって……」
「イズルがいるからって、生徒会に関係ある委員会は人気だったって話だぞ?」
 それは違うだろう。生徒会には、元から人気のある生徒がわりと多く入っている。俺は偶々真面目だからと推薦されて、ちょうどそのポストに他の候補がいなかったからで、人気がどうとかではない。
 そう言うと、金田は「わかってないから余計悪いよなー」と言う。
「そうそう。名瀬くんはさ、会長より優しそうだし、誠実そうだし。下級生なんか、憧れたりするのにちょうどいいんだよね」
 石田さんの言い様に、俺は苦笑をしただけだ。容姿で選ばれた、と言われた生徒会長と比べられてもなあ、と思う。確かに少し、女の子にだらしがないところがあるが。
 最近、こんな風なことを言われることが多い。夏休み明けから、変わったと言われて、三年になった今では、新しい友人も増えた。
 何が変わったのか、と言われても自分ではわからなかった。
 ただ、東に出会っただけだ。
 東に出会って、俺は自分の知らなかった気持ちを知った。
 好きだとか、独占欲だとか、嫉妬だとか。
 そう言う気持ちを知って、俺は訳がわからないままにその気持ちに従った。初めて、自分からその手を掴んだ。
 でも、だからと言って臆病な自分がいなくなったわけではない。
 開かれた雑誌には、東が映画のことでインタビューを受けている記事があった。少し下を向いて、どこか一点をじっと見ながら、真剣に何か考えている東の写真だった。
 俳優と言う仕事を、東はきっと本当に好きなんだろう。そういうときは、素になることも最近は多い。その、少し「人間くささ」みたいなものを持ち始めた東だからこそ、人気も出てきたのだ。
 東は、ゆっくりと、外と素の自分がいることに折り合いをつけていっている。でも俺は――。
 不安だった。そうして剥がれ落ちていく外面が、怖くて堪らなかった。
 全部が剥がれ落ちて見える自分を、直視できるはずがなかった。
 でも、このままでいることも、できなかった。俺は進路を考えなければならなくなり、必然的に、将来を見つめなければならなくなった。
 俺にとって将来というものは、怖くてならないものだった。俺は、以前から変化というものを嫌っていた。
 だから、それを伸ばし伸ばししていた。とりあえずの大学進学希望は出してあったが、本当に大学に行くつもりがあるのか、自分でもわからなかった。
 そんな風に、俺は色々なことを放ったまま、春を過ごした。


 東と会うときは、大抵東から連絡が入る。向こうの方が時間が不規則だからだ。ときどき、会いたい、と思うときがないわけじゃない。でも、無理して会うことはないと思う。
 それを、冷たいなあ、と笑うのは東だ。
 もう通い慣れた道を歩く。
 マンションについて、俺はいつものように住人の振りをして鍵で中に入っていく。エレベータで最上階まで行くと、やはりいつものように、チャイムを鳴らした。東がいるとわかっているときは、そうしてから鍵を開けて中に入るのだ。
「久しぶりだな」
 東が、シャワーを浴びたばかりなのか、タオルで髪をがしがしと拭きながら顔を出した。俺は鞄をソファーの横に置いて、薄いコートと制服の上着をハンガーにかけながら「帰ってきたばっかり?」と聞いた。
 連絡は、メールで入っていた。忙しい中で連絡するときは、メールが多い。こっちも授業中などは電話を受けられるわけではないから、それが一番良い方法だった。
 今日は、「夕方帰る、会いたい」というなんとも簡潔でいて曖昧なメールだった。でも、その短いメールに、自分の頬が思わず緩んだのを俺は自覚している。
「そう。もういるかもしれないって思って、速攻帰ってきた」
 ふいに耳元で聞こえた声にびっくりして振り返ろうとすると、ぎゅっと抱きしめられた。シャワーを浴びたての、温かい身体。
 頬に、濡れた髪の感触がして、冷たい、と俺は思わず言っていた。
「ああ、ごめん」
 ゆっくり離れていく体温が、淋しい。それを追いかけるように振り向くと、今度は正面から抱きつかれた。もちろん、それから唇が降ってきた。
「ちょ、東っ」
「どれだけ会ってないと思う?三週間だぞ、三週間」
 東はそう言って、また唇を合わせてきた。どんどん深まるそれに、俺は慌てて東を押しのける。
 東とのキスは、嫌いじゃない。ときどき、泣きたくなるほど――嬉しい。
「イズルー」
「だって、俺はシャワーも浴びてない」
「いいよ」
「良くないっ」
 自分だけ綺麗になってるなんてずるいじゃないか。
 俺が必死に抵抗するから、東も諦めたようだった。身長は俺のほうが少し低いぐらいだが、東は鍛えている。悔しいことに腕力などは敵わないのだ。だからといって、大人しくなる俺でもない。
「わかった。わかったから、早くしてくれ」
 このまま行くと風呂場まで付いて来られかねないから、俺はさっさとシャワーを浴びに行った。脱衣所で、東の服と一緒に自分の服も洗濯にかける。乾燥までしてくれるから、明日、俺はこれを着て学校にいけるのだ。
 馬鹿東、と小さく呟く。
 後ろから抱きしめられたときには、本当にびっくりした。でも、その体温に、ひどくほっとしている自分を知って、急に怖くなった。
 どうして、あんなに温かいのだろう。
 逞しい腕も、綺麗な肌も、濡れた髪でさえ、俺を煽る。それをわかっているのか、甚だ疑問だった。拗ねたような、顔をしていたのだから。
 口付けの最中、東はよく俺を見ている。ふっと唇が離れたときに、ぼんやりと目を開けると、あの綺麗な顔で笑うのだ。とても、幸せそうに。
 あの美しい生き物が、俺のものだと言うのだろうか。
 シャワーを浴びながら、俺は自分の両手を思わず見つめた。
 いつだって、何も握っていないはずの、その両手を。


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