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05
 俺は自分の家に帰るときは必ず、イズルの家の前を通った。少し遠回りになることが多かったが、気になどならなかった。帰ってきたら、必ず捕まえる。それだけが大切なことだった。
 その家に明かりが灯ったのは、ちょうど舞台の初日前日だった。鷲見の言葉から、間に合うかもしれないと期待していた俺は、このときばかりは神でも何でも感謝したくなった。いなくても、チケットを郵便受けに入れて帰ろうとは思っていた。僅かな、希望と一緒に。
 逸る気持ちを抑えて、俺はチャイムを鳴らした。二階建ての、あまり新しいとはいえない小さなコーポだった。でも、イズルは自分の帰る場所はここなのだと、頑なにここを守っていた。それは、父親の名瀬さんの帰る場所を、守っていたのだろう。
 はい、どちら様ですか、と聞こえた声に、俺は一瞬何も答えられなかった。イズルの声とよく似ているが、もう少しトーンが低い。俺は知らず、ごくりと唾を飲み込んでから、名を名乗った。
 少しだけ沈黙があって、かちゃりとドアが開いた。シャワーを浴びたあとなのか、タオルを首に捲いた名瀬さんが立っていた。少しだけ、顔が険しい。
「イズルは今買い物にいっていてね……ちょうどいいかもしれないな。入りなさい」
 以前に話したときとは少し違う、硬い声だった。俺は途端に緊張して、それでも頭を下げて部屋に入った。
 その部屋に入るのは、実は初めてだった。俺がここに来るより、イズルが俺の部屋に来るほうがリスクが少なかったから、いつもイズルが俺の部屋に来ていた。もちろん、防音の問題なんかもあった。
 二人は本当に帰ってきたばかりのようで、居間にはまだ大きなバッグなどが置いてあった。
「すみません、突然」
「どうして帰ってきたとわかったんだ?」
 がしがしと頭を拭きながら、名瀬さんは冷蔵庫からビールを取り出した。俺にも飲むかと缶を掲げたが、俺は丁寧に断った。酔って話せる話ではない。
「……待って、いたんです。だから、いつもここを通ることにしていたんです」
 俺の言葉に、名瀬さんはふうん、と言ってプルトップを抜くと、ビールをごくごくと飲んだ。
「なんで?」
「え?」
「なんで待っていたんだ?」
 立ったままの俺に、名瀬さんが坐るように勧めた。俺は床にぺたりと坐ったが、客にそんな対応をしたらイズルに怒られる、と座布団も勧めてきた。そこに名瀬さんが取ろうとしている距離を感じて、俺は軽く唇を噛んだ。それから、仕方がないと小さく息を吐いた。
「イズルを、捕まえるためです。もう、逃げられないように」
 真っ直ぐと名瀬さんを見た。名瀬さんも、目を逸らさなかった。


 名瀬さんが何か言おうと口を開きかけたとき、玄関のドアががちゃがちゃと鳴った。イズルが帰ってきたのだ。俺は、じっとその玄関を見ていた。
「ただいま。あれ?お客さん?」
 近くのスーパーの袋を両手に持っていたイズルはそれを廊下に置いて、そう言いながら顔を上げた。
 目が、合った。
 イズルの口が俺の名を形作って、それから、なんで、と声がした。
「なんで、ここにいるんだ?」
「……会いに来た」
「出て行けよ」
「イズル……」
「名前を呼ぶなっ。二度と、顔を見せるなっ」
 イズルがこんな風に激怒したのを、俺は見たことがなかった。それで、一瞬呆気に取られた俺は、動けずにいた。それに焦れたのか、イズルがそのまま、くるりと身を翻すと外に飛び出した。
「イズルッ」
 俺がそれを追いかけようと立ち上がると、名瀬さんに肩を掴まれて、止められた。
「追いかけさせて下さいっ」
「君は、自分の状況をわかっていないのか」
 ひやりとするほど、冷静な声だった。俺はそれに、肩を落とすしかなかった。
 今ほど、自分の仕事の理不尽さと不自由さを呪ったことはなかった。いつだってそう思っていたが、まるでその仕事が何の価値もないもののように思えてならなかった。
 名瀬さんはぽんぽんと俺の肩を叩くと、押さえつけるようにしていた手を離した。
「大丈夫だ。そのうち帰ってくる。だが、その前に俺は君と話がしたい。俺も、またすぐ旅に出るからな」
 名瀬さんはそう言って、ビールの缶を持って手の中で軽く揺らした。
「俺はあいつに親らしいことは少しもしてやれなかったが……それでもあいつの父親だと思っている」
 はい、と俺はそれに答えながら、力なく床に坐った。名瀬さんはそんなことを言ったが、イズルは父親が好きなのだと俺は知っていた。尊敬している、と息子に言わせることができるならば、それだけで父親の役目を立派にこなしているのじゃないかと思っていた。
「親の感情から言ったら、君にイズルを渡すつもりなどないと言うべきだろうな」
 俺はそれには、何も答えなかった。問題は、ありすぎる。俺は男で、イズルも男だ。その上俺は、プライバシーもないような仕事をしている。
「どうして、イズルなんだろう」
 名瀬さんの声は、答えなど求めていないような感じだった。ただ、呟いたと言うような。でも、俺は答えずにいられなかった。
「イズルが、イズルだからです。いつの間にか勝手に作り上げられた藤原東ではなく、俺が昔から知っている、ただの藤原東であることをイズルは無条件で許してくれる。そういう、イズルだからです」
 そして、そう育て上げたのは名瀬さん自身でもあるはずだった。名瀬さんはふいっと俺から視線を逸らして、ビールをぐいっと飲んだ。それから、同じこといいやがる、と唸るように言った。
「同じこと……?」
「イズルだ。あいつにどうしておまえがいいのか聞いたときに、言ったんだ。おまえだからだってな」
 あんな、途方にくれた子供のような顔をしたイズルを見たことはなかった、と名瀬さんは苦笑した。イズルも、おまえのことになると何も隠せなくなるんだ。
「でも、イズルは俺に何も預けてくれない。イズルが許しているようには、俺は何も、許していない気がする」
「別に、そんなものはなくてもいいんだろう。イズルも男だ」
 一体、名瀬さんは味方なのか、それとも反対なのか、今の言葉で俺はわからなくなった。それが顔に出たのか、名瀬さんはふっと突然表情を緩めた。
「今回、捕まえられたら、俺は何も言わない。ただ、もしあいつがおまえのその仕事で何か辛い思いをしたときは、容赦はしない」
 俺はただ、頷いた。全力でイズルを守ることを、誓うように。
 俺は、持ってきた封筒をテーブルの上に置いた。
「明日、舞台の初日なんです。イズルに、見て欲しくて……」
 そう言うと、名瀬さんはわかったと頷いた。それから、俺が少しばかり気落ちしているのを感じたのか、もう一度、俺の肩を叩いた。
「あいつのあんなに怒った顔は初めて見たよ。君も十分、あいつに感情を曝け出すことを許してる」
「でも、二度と顔を見せるなって言われてしまいましたね」
「言葉どおりか、聞いたらいい。……俺には、そう叫んだあいつの顔が泣きそうに見えたよ」
 言われて、俺はそのときのイズルの顔を思い出そうとした。真っ赤になって、怒鳴っていたイズル。でも、その顔がひどく歪んでいたのは、泣きそうだったからなのだろうか。


 舞台の仕事は、三度目だった。でも、初日と言うのは本当に無駄なほど緊張する。今回は一日一公演、一週間ほどの公演予定だった。土曜に初日で、月曜に中休みが入ってその後三日間は出っ放しだ。チケットは発売当日に完売したらしい。設楽の最近の公演はいつもそんな感じだ。
 俺は、イズルが来てくれているのか、そればかりが気になっていた。チケットは二枚入れた。昨日は言わなかったが、名瀬さんも来てくれているといい。
   舞台の生の感覚は、嫌いではなかった。あの異質でありながら現実の空間。張り詰める緊張感は、やはりライブならではのものがある。
 それほど大きくはない劇場は、客の顔は結構見える。特に煌々と舞台を照らすときは、前列の客ははっきりと顔も見えた。
 イズルが、いた。
 名瀬さんも隣にいたから、連れて来てくれたのかも知れない。でも、イズルがいることがわかった俺は、どこか奇妙な感覚に包まれるのがわかった。
 ひどい安堵感と、違和感。
 イズルが見ているから、俺は俺でいられる。でも、今は役者の藤原東だ。そして、その役として自分が分らなくなる「誰でもない男」を演じている。
 奇妙なことだった。
 セリフはもう、考えなくても出てくる。立ち位置や動作も決められているが、それもまるで、自然と振舞ってる感じだ。繰り返される稽古のすごさだろう。ドラマや映画とは、やはり違う。
「待って、待ってくれっ」
 セリフを叫んだ後、俺は愕然とした。男の気持ちがわかりすぎて――いや、俺はその男そのままなのだと思えて――どうしたらいいのかわからなかった。
 みんなが、次の俺のセリフを待っていた。誰もが舞台に情熱をかける役者ばかりで、演技では俺は到底及ばない。だから、誰もがその場にいる本当の現実の人間達に見えて、その冷たい目が、恐ろしかった。
「俺は、誰だ」
 絞り出した声は、震えた。ただ呆然と立つ俺に、順番にみんなが肩を叩いて舞台袖に消えていく。弟だろう、息子だ、部下だ、ペットだ、彼氏よ、そう、口々に勝手なことを言いながら。
 俺はただ一人、舞台に残される。もう、誰もいない。俺が何者であるか、答えてくれる人間は、そこにはいないのだ。
「俺は――」
 舞台が、暗転した。俺は、ゆっくりと目を閉じた。
 だんだんと、誰でもない男が、俺にぴたりと張り付いてくる。そんな感触だった。だからそれを振り払おうと、目を閉じた。
 そのまま頭を下げると、拍手の音が聞こえた。ゆっくりと明るくなっていく舞台に、他の役者さんたちが出てきて頭を下げる。拍手は割れんばかりになって、俺はようやく、現実に戻って来た感じだった。
 思わず、イズルを探した。イズルはただ、俺をじっと見つめていた。


「いやー、良かったよ」
 初日の成功を祝って、楽屋で簡単な乾杯をした。俺の肩に腕を回してばんばんと背中を叩いたのは、設楽とずっと組んでいる、千住さんだった。俺のことを、ペットに決める男の役をやっている。あの、こっちを人だと思っていないような態度を取りながら、時にはそのペットに甘えるような微妙な役を、それは見事に演じている。
「お疲れさまです」
 俺がぺこりと頭を下げると、千住さんはまた、ばんばんと背中を叩いた。まだ乾杯一杯目のはずだが、もう酔っているんだろうか、と思えるほど機嫌のいい顔だった。
「最後、いやもう、びっくりしたなあ」
 千住さんがそう言うと、周りでみんなもうんうんと頷いていた。俺はばつが悪くなる。
「すみません、なんか、上手くできなくて」
 あの瞬間、舞台だということを忘れた気がする。もう本当に、どうしたらいいのかわからなかった。
「はあ?何言ってんの。今までの中で最高の出来何じゃないか、あれ」
 なあ設楽、と長年の親しみを感じさせる気安さで、千住さんは後ろにいた設楽に声を掛けた。俺は少しばかり、緊張した。
 舞台であることを忘れるのは、決して誉められたことじゃない。それは、プロとは言えない気がした。
「まあ、面白くなってきたよ」
 あの、嫌な笑いを浮かべながら設楽が俺の顔を見た。
「そうよねえ、何かこう、私も身につまされる感じしちゃって」
「俺なんか役にもろ同調。はあ、こいつ何馬鹿言ってんの、って気分になっちゃったよ」
 周りでそんなことを言われて、俺はビールをごくりと飲んだ。俺自身が忙しいせいもあって、稽古中はとにかく稽古に明け暮れていたし、終われば速攻帰っていた俺は、実はあまり他の役者さん達と仲がいいわけじゃない。普通ならばもう少し慣れた雰囲気があってもいいのだが、今回は俺がそこまで気が回せなかった。それでも、みんな気のいい人たちだとつくづく思った。
 だが、あの最後は、本当に良かったのか俺には分らなかった。俺にはただ、恐怖心の方が強い。あの訳のわからなさは、ぞっとするものがある。ただ、設楽はこれを楽しんでいる。そして、俺はこの後どう演技するべきなのかわからない。
 イズルに会いたいと思った。
 ただ、イズルは俺を見つめていた。でも、それだけでは足りない。
 温もりの大切さを教えてくれたのは、イズルだ。
 俺はまるで子供のように、イズルの温もりを求めた。
 あの、誰でもない男が、俺とどんどん重なり合っていく。初日の成功祝いだと言うのに、俺はものすごく心許ない思いで一杯だった。


 会いたい。
 それしか、なかった。とにかく会って、確かめたかった。
 ――俺が、誰であるのか。
 イズルの家に明かりが灯っているのを見たら、もう堪えられなかった。近くの公園の駐車場に車を止めると、そこから走ってイズルの家に向かった。チャイムを何度も鳴らす。
「東……」
 イズルはもの凄く、戸惑ったような顔をしていた。俺はドアを無理やりのように開けて、中に入って後ろ手にそのドアを閉めた。それから、イズルの腕を取って、抱きついた。
 縋りついた、と言ったほうがいいのかもしれなかった。
 イズルは、突然のことに身体を硬くしたが、思ったような抵抗はなかった。
 ぎゅっと抱きついて、イズルの匂いを無意識に吸い込んだ。
 イズルがいる。
 だから、俺もここにいる。
 大丈夫。俺も、ここにいる。


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