03
朝はコーヒーと甘い菓子パン、それに果物を食べるのが、その家の決まりごとだった。そして、それらの用意をするまえに、天気の良い日はリビングの窓を開ける。土曜の夜の夕食はお米以外のもの、コーヒーを飲むときのカップから、ビールを飲むときのグラス、お風呂はじゃんけんで順番を決め、週に一度だけ、相手の我侭を聞く。こまごまとしたそんな決まり事を、藤川は智耶子がいなくなってからも守っていた。感傷だ、と真崎は思う。それで智耶子とのことを守っている気になっている藤川もばかだが、それに付き合う自分は、もっとばかだ。
「週に一度の我侭は、一緒に音楽を聞くこと?」
その問いに肯定を返すのは癪な気がしたが、どちらにしろ同じ気がして、真崎は頷いた。目の前の猪口に、透明なとろりとした液体が注がれる。日本酒は、見た目だけはどうしても化学溶液を思い出させるな、と真崎はぼんやりと思った。
本を読んでいても、何をしていてもいいから、音は立てずに、音楽を聴いて。一緒に、いるだけでいいんだ。
藤川はそう言った。自分を代わりにして智耶子がいたときと同じことをすることに、どんな意味があるのだろう、と真崎は思った。
「そのうえあいつ、何かけたと思う?山崎まさよしだよ、参るよな」
それもライブを収録したCDで、一緒に行った思い出でもあるんじゃないか、と真崎を余計に居たたまれなくした。
参るよな、と言った真崎の口調は決して呆れたり困ったりしている風ではなく、どちらかと言うとそれが可愛くて仕方がない、という風で、智耶子はため息を飲み込む代わりに猪口をくいっと空けた。藤川のそう言うところに「参る」のなら、自分に勝ち目はないじゃないか、と思う。大体、藤川相手に勝てた試しなど智耶子にはなかった。
「四枚組のライブCD?中華料理の歌があったでしょう?あれ聞くと、必ず中華を食べに行こうって言うのよね」
隣で漬物をぱりぱりと噛みながら微笑む智耶子は無邪気だ。そんなのはずるい、と真崎は思う。あそこには、未だ濃密な藤川と智耶子の空気のようなものが漂っている。それを、何もこんなところで思い出させなくてもいいじゃないか、と思った。
「真崎は?どんな我侭を言うの?」
真崎がどうして自分にこうして会うのか、智耶子にはわかっていた。藤川との繋がりが、智耶子しかないのだ。あれほど近くにいるのに、真崎は藤川に触れることさえできない。なぜなら藤川は、智耶子のことしか考えていないからだ。途方にくれる真崎の顔が見える気がして、智耶子は可笑しくなって笑った。意地が悪いと、自分でも思う。
「別に。そのときそれぞれ」
真崎はそう言って、出てきた小海老のから揚げに箸を伸ばした。一緒に住み始めて、まだ一ヶ月しか経っていない。我侭を言ったのは合計三回。どれも他愛のないことだ。一度は、大学で一緒に食事をした。(なぜか藤川はそれを嫌がる)二度目は、映画を見に行った。三度目は、ベッドで一緒に寝た。文字通り、ただ眠っただけだ。藤川は一瞬躊躇した後、指一本でも触れたら蹴り落とす、と処女のようなことを言った。もっともその後、蹴り落とすなんて処女は言わない、と藤川に言われたが。
綺麗な長い手で、器用に箸を扱いながら、小海老のから揚げをしゃりしゃりと食べる真崎を盗み見て、智耶子は心中でため息をついた。藤川の話はこちらからしなくても始めるのに、自身のことになると途端に何も言わなくなる。そんなにあからさまにしなくてもいいのに、と智耶子は思う。
「大学で食事をするっていうのも一度合ったんだけど、どうしてあそこまで嫌がるのかな」
真崎が独り言のように呟いて、智耶子はやれやれとため息を飲み込んだ。やってられない、とばかりに猪口に並々と注いだ日本酒をぐっと飲み干す。それを気持ちいいね、と言ったのは真崎で二人目だ。一人目は、藤川だった。その上、あろうことかそんな智耶子を、可愛いと言ったのも。
「あなたといると色々外野が煩いからでしょう。私だってこんなところ見られたら何されるかわかったものじゃないわ」
「あいつ、俺のことなんか知らなかったのに」
あの日、窓の外からゴミ袋でその穴を塞いでいた藤川が、聞いたのだ。ところで、おまえ誰?と。
「あれだけ噂があるのにね。それも同じ学部でしょう?顔ぐらい見たことあるはずなのに」
全く藤川は私しか見てないから、と智耶子は悪びれずに言う。
「智耶子サンって、一体誰のことが好きなの?」
「もちろん、あなたよ」
にっこりとそう言われたが、真崎は到底信じる気になれなかった。藤川のことを話す智耶子はとても嬉しそうだ。
「どうして、急に別れようなんて?」
真崎のお酒の飲み方は、とても色っぽいと智耶子は思う。すいすいと、というのが一番似合う形容で、白い陶磁の猪口に、細くて神経質そうな指が似合っている。その指が、ふいっと動いて猪口を傾けるその仕草が、とても色っぽいのだ。
「お見合いの話があってね」
「実家、老舗料理屋だっけ?」
そう、と軽く笑った智耶子は、悔しいことに艶やかだった。これなら、あの藤川などころりとやられてしまう。
「同居している恋人がいたのに?」
「両親もそれは知っていたんだけど……」
もしかしたら、自分の気持ちに気付いていたのかもしれない、と智耶子は今なら思う。本人より、もっと早くに。
「それで?」
「断ったわよ、もちろん」
「それなら別れる必要はなかったんじゃないか。どうして俺を使ったりしたんだ?」
今の智耶子の気持ちは、真崎にはわからない。でも、あの最初の日は、誰でも良かったのだ、と真崎は思っている。智耶子は豆腐サラダを頼んで、それがねえ、とどこか遠くを見た。
「そのときわかっちゃったの。ああ、私は藤川とは結婚できないって」
「どうして?ご両親が反対してる、とか?」
「ううん、そうじゃないの。まあ、確かに料亭の旦那にも向いてないけど、そうじゃなくて、藤川は結婚に向いてないのよ」
わからない、と言う風に真崎が肩を竦めた。わからないだろうな、と智耶子も思う。
「メスの本能、って感じ。ほら、群の中でも力の強いものにメスは群がるでしょう?」
「頼りないって?」
「うーん、それもあるけど、それだけじゃないの。藤川はね、恋人には向いているけど、夫とか父親は向いてない。とくに父親は無理よ」
そうかなあ、と真崎は藤川の顔を思い浮かべた。自分より、余程家庭向きの顔をしている。
「俺のほうが家庭的だとか言うなよ」
「言わないわよ」
出てきた豆腐サラダの豆腐をぱくりと口に入れて、智耶子はふふ、と笑った。
「そうじゃなくて、藤川は愛情を上手く分けられないの」
「分けられない?」
「一直線なのよ。盲目的。妻と子供と、両方に同じように愛情を注ぐことなんて出来ないわ」
「でも、それは愛情の種類がまた違うだろう?」
そう言った真崎に、それがわかっていれば藤川も家庭が持てるわよ、と智耶子はため息を吐いた。
「ずっと夫婦二人だけ。それならそれでも上手くいったかもしれない。でも、私は子供も欲しいし、あの家も継ぎたい」
「それで、振っちゃったんだ」
そう、と頷いた智耶子は少し淋しそうで、真崎は心中穏やかにはいられなかった。智耶子が元に戻ると一言でも言えば、藤川は今のことなど問題にもせず、智耶子を迎い入れるに違いなかった。真崎を、追い出してでも。
真崎はきっと、そんな愛情が欲しいのだ。一直線で、盲目的で、縛り付けるような。そんな風に、自分を愛しつづけてほしい、と思う。
「でも、真崎のことは計算外というか、アクシデントだったな」
智耶子は、くしゃりとレタスを器用に丸めながらそう笑った。
結婚できないからと言って、すぐに別れる必要はなかったのだ。大学を出てからだって、遅くはなかった。それでも別れたのは、藤川に期待させたくなかったからだ。藤川とのセックスは、子供が出来ることに繋がらない。その意味合いが、全くと言っていいほどないのだ。愛の結晶なんてものは、藤川には必要がない。智耶子がいれば、それでいいのだから。
ある意味、そうやって愛されることは幸せなのかも知れないと智耶子も思う。でも、自分はきっとそうして生きていくことに、耐えられなくなる。
気付いてしまったら、智耶子はその未来を考えながら藤川と過ごすことは出来ないと思った。いつか別れることを前提にして付き合うなど、藤川相手に出来るはずがないのだ。あの純粋で真っ直ぐな気持ちを、裏切りながら愛し合うなど。
愛しているのに別れる、という思考回路が藤川にはないことはわかっていたし、子供のことを説明しても納得するはずがないことも智耶子はわかっていた。きっと言うのだ。じゃあ、子供を作ろう、今すぐ結婚しよう、と。智耶子と愛し続けるためなら、どんなことだってしてみせる、子供だって欲しいなら作ろう、そんな風に子供を作る罪悪感など、藤川にはない。
だから、真崎を誘った。噂や、口で言っただけでは、藤川はきっと信じない。それならば、現場を見せるのが一番いいだろう、と智耶子は思った。強引なやり方だと自分でも思ったが、一度決めたら、はやく別れなくてはならないとそればかり考えていた。
しばらく黙って飲んでいた智耶子が、ぽつりと言った。
「藤川のこと、好きなのね」
智耶子は、会うたびにそれを確認する。そこにどんな意味があるのか、真崎にはわからない。
「好きだよ」
「どんなところが?」
「そんなの、智耶子サンが一番知ってるでしょう?それプラス、智耶子サンが嫌いだったところも好きだよ」
「嫌いだったところなんて、ないわ」
それはずるいんじゃないかと、真崎は口に出さずに呟いた。
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