海 の 涯
03
すっかり日が暮れて、飲みに行こうと言ったのは俺だった。祐史は酒には弱いが飲むのは好きだったはずだ。それに、そんな風に普通に過ごすことはとても大切な気がした。
そうやって、最後の杯を酌み交わして、俺はまるでどこか遠くに行くように、別れるのだ。
言わなくてもそれは伝わったようで、保はゆっくり笑って「そうだな」と言った。
部屋では泣いてばかりだった保の、柔らかく切ない笑顔がとても辛い。祐史としては嬉しいかもしれないが、俺自身としては辛くて堪らなかった。
目の前にあるそれを、慰めることさえ出来ない。
行く店は保に任せて、俺は車窓からネオンに彩られた街を眺めていた。ときどき盗み見るように、保の横顔を見る。そんな風に、俺はどれだけこの顔を盗み見ただろう。
二人とも、意識して時計を見ていなかった。今日が終わったら、俺は仕事を終える。保は、祐史と別れる。
そして、もう二度と会わない。
信号で車が止まって、ふっと保が笑った。何?というように顔を向けると、ひどく優しい笑顔があった。
「おまえ、いつもそうやって外を睨むように見てるよな。夜ならいいけど、昼間なんか歩道歩いている人がときどき可哀相になる」
そう言って、くつくつと笑う。俺は、「そうだっけ?」と言いながら、必死で笑い顔を作った。そうしなければ、今にも、歪みそうだった。
保が、祐史との思い出を一切語らなかったことの意味を俺は薄々感じていた。そうやって、祐史を過去の人間にしたくなかったのだ。今だって、いつものくせを言っただけで、「普通に過ごす」と考えた俺に乗ってくれているのもわかる。
でも、耐えられなかった。
そうやって、保の目に祐史として映ることが、哀しくてならなかった。そんなことは言えたものではないのに、切なくて、堪らなかった。
「どうした、変な顔をして。ほら、着いたぞ」
止められた駐車場に見覚えがあって、俺は思わず保を見た。二人が、最後に飲んだ居酒屋の駐車場だった。保はあれから一度も来ていないはずだ。俺は、一度だけ変装して、友達と飲みに来たことがあった。まさか、ここを選ぶとは思っていなかった。
保は優しく静かに笑っているだけで、何も言わなかった。
俺には、保の覚悟が見えた気がした。あの日の別れを、悔いても悔やみきれなかった別れを、きちんと済ませようというのだろう。それが、本意ではなくても。
俺は思わず暗い空を見上げて、負けたよ、と祐史に苦笑した。高史が色々手を尽くして、保をなんとか立ち直らせようとしたのに出来ず、もう一年近く引きずっていたはずの傷を、たった一日で、祐史は塞ぐことが出来るのだ。
とても、愛していたのだろう。
そして、とても愛されていたのだろう。
どうした、と微笑まれて、俺もなんでもないと微笑み返した。それから二人で、店の中に入った。
静かに酌み交わした酒は、とても神聖な儀式のようだった。祐史と同じに、酒に特に強くもない俺だったが、今夜だけは酔うことが出来なかった。染み入るように身体に入っていく酒は、俺をただ清めていくようだった。
祐史として、最後まで、祐史として保と別れるために。
もう、祐史を羨ましがったり、自分なら傍にいられると思ったり、そんなことは考えなかった。ただ、目の前の保が愛しくて、それでも別れなければならない辛さに、身を焦がすような思いをした。
それは、祐史の思いだ。
幸せになって欲しいと、それだけを願った。
ラストオーダーだと言われて、ようやく時計を見た俺は、もう時間がないことを知った。あと、三十分もすれば今日は終わる。保も時計を見たのか、出ようか、と言った。
俺は頷いて、立ち上がった。
静かな気持ちだった。
外に出て、少し歩こうと言うと、保は少しだけ間を置いてから、頷いた。ネオンと人ごみで、深夜に近いのに煩かったが、少しも気にならなかった。ゆったり、ゆっくりと歩く俺たち二人だけが、どこか違う世界にいるようだった。
どこかの駅前に着くと、時計はもう十二時五分前を指していた。
俺は立ち止まって、ゆっくりと保を見た。
「祐史……」
「保に会えて、良かった」
自然に、微笑みが浮かんだ。心から、そう思った。
保に会えて、愛せて、良かった。
保は俺をただじっと見詰めていた。静かで、穏やかで―――切ない瞳だった。
「じゃあ」
俺はそれだけ言って、ゆっくりと身を翻すと、歩き始めた。ちょうど最終の電車でも着いたのか、駅構内から人が溢れて、俺たちの間を埋めていった。
「祐史」
ふいに名を呼ばれて、少し離れてから振り返った。視界の隅で、時計の針が一つ動いたのがわかる。
「ずっと、聞きたいことがあった」
ぼんやりとした視界は、弱い光のせいなのか、自分の目が濡れているからなのか、わからなかった。二人の間を、人々が泳ぐように歩いている。ときどき保が見えなくなって、その度に俺はぎゅっと心臓が痛くなるのがわかった。
別れだと言うのに、もう二度と見られないと言うのに、どうしてそんな一瞬に縋るのだろう。
「何?」
ゆっくりと、保が歩いてくる。俺は惚けたように動けなかった。ゆらりゆらりと、長い足を使って、近づいてくる。それから、俺の前で立ち止まると、じっと二人で見詰め合った。
真っ直ぐな目だった。
ぼやけているのは、光のせいではないんだ、と俺はそんなことを頭の片隅で思う。
保がゆっくり、口を開いた。
「幸せだったか?」
低く呟かれた言葉に、唇が震えた。胸が、痛くて堪らなかった。今まで決して零さずにいた涙が、知らず溢れて、つっと頬を落ちていくのを他人事のように感じていた。
「うん。―――うん、幸せだったよ」
今にも、号泣しそうだった。
胸が痛くて痛くて、こぼれる涙を止める術もわからなくて、嗚咽を漏らして、号泣してしまいそうだった。
確信をもって言える。
こいつはきっと幸せだった。
絶対に。
こんなに愛されて。
俺が、嫉妬するくらい。
なあ、そうだろう?
俺は、間違ってないだろう、なあ、祐史。
ふいっと手が伸びてきたのを俺が避けたのは、自分の意志ではない気がした。それとも、危機感知をした本能のなせる技だったのか。
今触れられたら、俺はきっと身を任してしまう。この一日を、全てふいにして。
それは出来なかった。
だから、俺はそのままゆっくりと笑って、身を翻して雑踏にまぎれた。
どこかで、12時を知らせる機械仕掛けの鐘の音がした。
それから、保が何かを言ったが、俺にその声は届かなかった。
ぼんやりと目を醒ましたときには、頭は痛く、目は重く、最悪の気分だった。ひどく長いことこの自分の部屋にいなかった気がして、思わずぼんやりと部屋を見渡してしまった。
たった一日のことだったのに。
あれから、俺は今まで堪えた涙を全て出すかのように泣きながら家に帰った。終電は終わっていて、タクシーに乗ったためにすごい散財をしたが、そんなことはどうでも良かった。あの街に残ることは出来なかったし、早く部屋に帰りたかった。
「参ったな」
声に出して呟いてみた。白々しさに、少しだけほっとする。とにかく熱いシャワーでも浴びよう、そう思って起き上がったところに、電話が鳴った。
時計を見るともう昼を過ぎている。出なくてもわかった。社長だろう。
俺はそれを無視して、シャワーを浴びた。熱さに、実体を取り戻していくようだった。
「終わった……」
思わず口を出た言葉に、笑った。笑いながらまた泣きそうになって、自分の涙腺を疑った。
こんなに、簡単に泣くことはなかった。だから、どこか壊れてしまったのではないかと思った。
シャワーから出てミネラルウォーターを飲んでいると、再び電話が鳴った。俺は服もつけないまま、髪をがしがしとタオルで拭きながら無愛想に受話器に答えた。
『ああ、やっぱり帰ってたか』
のんびりとした社長の声が聞こえる。俺は疲れたため息を隠さずに吐き出した。
『上手くやったみたいじゃないか。給料渡すから、報告がてら取りに来いよ』
「わかってます。徹夜だったんで、さっきまで寝てたんですよ」
『ま、事務所が閉まらないうちに来いよ』
社長はそれだけ言うと、電話を切った。
それだけのことを言うために、わざわざ社長自らが電話を掛けて来たのかと揶揄ろうかと思ったがやめた。
理由はわかっている。
パーティーのサクラなどの団体仕事ではない場合、報酬は手渡されることが多い。特に今回のような個人対個人の仕事のときは、社長自ら報酬を渡すことになっていた。
社員もアルバイトもその方式で、どうしてそんな面倒なことをするのかと最初は思っていたが、こういうときに良くわかる。
報酬なんて、どうでも良かった。欲しいと思わなかった。そんな風に、仕事だった、という現実を突きつけられるのは辛かった。
俺のあの思いも。
笑ったのも、泣いたのも、二人で抱き合っていた時間も、ただ黙って川を眺めた時間も。
全て仕事だったのだと、社長は報酬を手渡すことによって確認させるのだ。
そんなことしなくても、と最初は馬鹿にさえしていた俺が、この様だ。社長はきっとわかっているのだろう。だから、わざわざ電話までして、今日取りに来るように、と言ったのだ。
俺は軽く頭を振って、もう一口水を飲むと、出掛ける支度をした。脱ぎ散らかしてあった、昨日の服が目に入る。もう着られないし着たくもないが、すぐに捨てるのは忍びなくて、俺はそれをベッドの下に押し込んだ。
「わりとあっさり来たな」
事務所に入ってすぐに、社長にそう言われた。俺はこの人の、この何でもわかってる、というようなにやけた顔が嫌いだ。
「そりゃあ、三倍ですからね。そっちの気が変わらないうちにさっさと貰ったほうが利巧ってものでしょ」
俺はわざとそんな言い方をした。三倍、という辺りも胸を抉るような現実だ。たくさん貰おうが少なかろうが、仕事は仕事で、嘘は嘘だ。でも、卑しさが違う気がする。
「ふーん……なんだ。心配して損した、か?」
「何の心配ですか」
わかっていながら聞くと、別に、とまたにやりと笑われた。それから、はい、と報酬の入った封筒を渡される。俺は努めて無表情に、その中身を確認した。
きっちり三倍。ありがたくて、涙が出る。
「それから、ボーナスは西島氏が直接渡したいって言っていてね」
封筒の中身を確認して立ち上がりかけた俺に、社長がさらりとそんなことを言った。さすがに俺も、固まってしまう。
なぜ、よりにもよって西島に会わなければならないのだ。
「そんなの、規約違反じゃないんですか」
依頼人と仕事の請負者は、契約終了後は会ってはいけないことになっている。それが契約内容にも入っているはずだった。
「正確には、依頼人ではなくて、仕事相手、なんだ。今回は西島氏は依頼人ではあるが仕事相手ではないからね。ときどきお礼を言いたいっていう依頼人もいて、要請があれば俺の判断で会うか会わないかを決める」
「それにしても、報酬を直接なんて……」
「それも、よく西島氏と話したから。まあ、今回は特別だけど」
とことん、俺を痛めつけるつもりでいるらしい社長に、俺は長く重たいため息を吐いた。平気な振りをしているのが馬鹿みたいだ。
「いつですか」
声が掠れようが震えようが、知ったことじゃない、と俺は思った。
「ん?ああ、彼がこちらに来る予定があるそうだ。二週間後、だったかな」
なんだ、もっとごねるかと思ったのに、とほざいた社長を見ているのも嫌になって、座っていた椅子から立ち上がった。勢いで、椅子がスチール製の机にぶつかって大きな音を立てた。
「あなたがこんな風にする理由を、良くわかってるつもりですから」
唸るように言うと、社長は笑った。
「頭のいい子は好きだよ」
「あんたに好かれても、少しも嬉しくない」
椅子を蹴飛ばして、今度はわざと派手に机にぶつけた。
わかっている。
わかっているが、この思いを、こんな風に汚してほしくなかった。
奇麗事だっていい。
忘れるまで、大事にしていちゃいけないって言うのか。
俺は何かまだ言いそうな社長に背を向けて、事務所を飛び出した。
わかっていても、どうにもならないことだって、あるだろう。
高史に会ったのは、それからきっちり二週間後のことだった。夏休みで、バイト代もかなり貰っていた俺は、特に何をするでもなく、その二週間を過ごしていた。でも、何か残るようなことは全くしていないが、何もしていないのは耐えられず、本を読んだり映画を見たり、友人達と飲んだり、街をふらついたりと、時間の消費だけはしていた。
読んだ本の中で出てきた、「抽象的葬式」にヒントを得たように、祐史の幽霊を葬った。あの日着た服や靴、思い出すもの全てを、燃やした。街中では火は使えないからと、友人に車を出させて、川辺に行ってその火でバーベキューをした。
幽霊を葬る、という行為そのものが意味がない気がしたが、それでも良かった。それは、あの日の思いも、自分も、―――あの恋も、葬ることだった。
葬ることは、忘れることではない。
祐史のことで、そのことを俺は知った。
「やあ、久しぶりだね」
高史は、相変わらずのスーツ姿で喫茶店に現れた。店内の涼しさにほっとしたのか、緩んだ顔にふいに祐史の面影を見た。やはり、兄弟なのだ。
「すみません、わざわざ」
「いや、それはこっちのセリフだろう?我侭言って悪かったね」
高史は出てきた水をごくりと飲んで、コーヒーを注文した。高史の我侭なのか、社長の策なのか、もうそんなことはどうでもいいことだろう。
それに、俺には聞きたいことがあったのを思い出した。
「忘れないうちに、これを渡しておくよ。とても上手くやってくれたね。ご苦労様、それからありがとう」
高史はそう言って、頭を下げた。そして、俺の前に封筒をそっと押し出した。その厚みに、俺は手を伸ばすのを戸惑った。
「社長さんには金額は話してある。ちゃんと了解は貰っているよ。これは、私の気持ちでもあるんだ。それに、本当に君は想像以上の働きをしてくれた」
俺の躊躇を見て、高史はそう言った。それで俺は聞きたいことが増えて、礼を言ってからすっと顔を上げて、高史を見た。
「想像以上、ですか?」
俺の言葉に頷いて、高史がほっとしたような微かな笑顔を見せた。その前に、コーヒーがかちゃりと置かれた。ウエイトレスが立ち去るのを待って、高史が口を開く。
「夏井が、祐史の墓参りに来たよ」
俺は極力思い出さないようにしていた、保の顔がぱぱっと蘇ったのがわかった。きっと、あの切なく穏やかな顔で、祐史に話し掛けたことだろう。
「正直、この計画もどこまで上手く行くか、私にはわからなかった。今だから言うけど、実際話したりして、一日一緒にいたらわかってしまうんじゃないか、とは思っていたんだ」
「夏井さんは、気付いていたと?」
「いや、それはわからない。彼は私には何も言わなかったから」
そうですか、と俺は勤めて無表情を装った。それから、その表情のまま、この間の質問に答えてください、と俺は言った。
「この間の質問?」
「なぜ、こんなことを、夏井さんのためにしたのか。―――それがなぜ、あなたの罪滅ぼしなのか」
静かな口調でそう言うと、覚えていたのか、と苦笑された。
「客にそこまでプライベートなことを聞いていいのか?」
少し意地悪な口調でそう言われて、俺は、あ、と思わず言ってしまった。無表情を装って、馬鹿なことをしている。
「いや、ごめん。意地悪を言うつもりはなかったんだ。でも、君に話したら、それこそなんだか懺悔をしているようでね」
すみません、と俺が頭を下げると、いや、と高史が柔らかく笑った。
「聞いてくれるなら、言ってしまうよ」
俺は素直に、聞きたいです、と真っ直ぐ高史を見た。よく見れば、この間より穏やかな雰囲気になっているかもしれない。作られたものではなく、自然な感じで。
「祐史はもちろん、夏井も何も言わなかったが、あの日二人が喧嘩した原因は、そもそも私にあるんじゃないかと思っていてね」
「西島さんに?」
「ああ。前日、私は祐史に夏井とのことを責めたんだ」
あの、人を使って祐史たちのことを探らせたその調査結果が、その日に出たのだという。それを、祐史に突きつけて、どういうことなのか説明しろと迫ったのだ、と高史は言った。
「見た通りだ、と祐史は言ったよ。自分は夏井が好きで、夏井も自分が好きだと言ってくれている」
そのときのことを思い出したのか、高史は少し複雑な顔をしていた。
「こんなことをした位だから君はわかっているかもしれないが、私も相当な兄馬鹿でね。馬鹿なことを言うな、すぐに別れろ、と怒鳴ってしまった」
ある意味、普通の反応だろうと俺は思う。それが、とても祐史を傷つけることだとしても。でも、そうやって高史も傷ついたのだと、目の前の暗い顔を見て思った。
「何も言わせずに、別れろを繰り返して、おまえが頷かないなら俺から夏井に言う、と言ったんだ。それで、祐史はようやく話をすることを約束した」
それが、どんな風になったのかは高史は知らない、と言っていた。
「夏井は、それについて何も言ってなかったか?」
「ええ。というより、過去のことをほとんど話しませんでした」
ああ、と高史はそれでわかったようにため息を吐いた。
「まあ、そう言うわけで、あの日、二人が険悪な雰囲気になったのだとしたら、そのことが原因だったのだろう、と思ったんだ。それに……」
高史はそこで言葉を切って、俺から視線を逸らした。
「何もかもを否定してしまったことを、私も後悔していた。何の話も聞かず、責めただけだったことを、悔やまなかった日はない」
それが、罪滅ぼしと懺悔と言う言葉に繋がるのかと、俺はソファーに背を預けながら息を吐いた。
残された思いは、辛いものだ。
こんな後悔も、愛しいと言う思いも。
「だから、せめてもの罪滅ぼしに、今更だというのに、二人のことを認めようと思ったんだ」
高史はそう自嘲の笑みを浮かべていた。俺は人の抱える想いの深さを思った。
高史も祐史も、そして保も、思いの深さには変わりがない。
「あの日、二人はきっと別れ話なんてしなかったでしょうね」
俺が思わずそう言うと、え?という顔をして高史が顔を向けた。
「どうしたら、二人で生きていくことが出来るのか。それを考えていたと思いますよ。どうして喧嘩になったのかはわからないけれど、別れるなんて、考えられなかった―――それほど、二人は深く愛し合っていた」
愛し合う、という言葉の重みを俺は二人を通して知った気がした。ただ、愛するだけではなく、愛されること。その重み。
「そうだね……そうかもしれないね」
高史は呟きながら、小さく笑っていた。
高史が、ふっと窓から外を眺めた。遠い、どこかを見ている。
「そう言えば、夏井がね」
もう、聞くこともないだろうその名が、切なかった。保と呼ぶことが許されたあの時間が、もう幻のように思えた。
「祐史にね、ありがとう、って言ってたな」
ああ、保は確かに歩き始めたのだ、と俺は思った。顔を上げて、前を見て。もう、過去に囚われたりしないで。
「俺は、君にお礼を言う。夏井のために、俺のために、それから―――祐史のために」
ありがとう、と頭を下げられて、俺は立ち上がって、ゆっくりと頭を下げた。それから喫茶店を出て、事務所に向かって歩き出した。
愛することを、やめる必要はないだろう。でも、歩むことを止めてはいけない。どこか穏やかで柔らかな、そして純粋に近い部分で、想い続けることはできるはずだ。熱く燃える部分は、他に預けたとしても。
俺も、そうやって葬った恋がある。
だから、俺も、保に言おう。
それが届かなくてもいいから。
ありがとうと、言おう。