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花の咲く頃
02
こんな街で、母一人子一人で生活するには、大したことはできない。母さんは学校なんてもちろん出てないし、父さんは見たことがない。職なんて、いつでも需要より供給の方が多くて、コネも何もない母さんは、その身一つで今まで俺を育ててくれた。そう、それこそ、身体を張って。
母さんが身体を売って稼いでいることは、もうずい分小さい頃から知っていた。普段はお店に行くのだけれど、ときどきこうして客が部屋に来ることがある。本当はその方が店のマージンがないぶん、稼げるのだと言っていた。もちろん、そんなことを繰り返していると、店から文句が出て何をされるかわからない。だから、一月に一度か二度のことだ。
人は生きていかなくてはならない。そして、そのためには食べなくてはならない。その食料を手に入れるためには、金がないといけない。だから、稼ぐのだ。
身体を張って生きてるのよ。
母さんはそう笑った。その明るさに、俺はたぶん救われている。自分は、何もできない。母さんばかりに、嫌な思いをさせている。そう思っても、身一つで生きてるなんてすごいでしょ?と母さんに胸を張られたら、俺は俺で胸を張れるように頑張るしかないのだ、と思った。
「あれ、キイ。さっきの肉じゃがありがとう。美味しかったよ」
近くの公園の芝生に寝転がっていたら、カイ兄ちゃんがふらふらと歩いてきた。一体、ちゃんと食べられたんだろうか、あの後。
「汁が染み込んでてさ。ホンも絶賛してた」
そう言うからには、ちゃんと食べたんだろう。カイ兄ちゃんはすっと俺の隣に坐った。
いつもホン兄ちゃんの隣にいるから華奢に見えるけど、こうして自分の足と並べられてしまうと、カイ兄ちゃんもちゃんと鍛えた男の足をしてる、と思う。細っちい俺の足とは違う。
「今朝は何で喧嘩してたの?」
俺が掌でちゃりちゃりと百円玉を弄んでいたから、カイ兄ちゃんは俺がここにいる理由はわかっているみたいだった。だいたい、最初にこの方法を考えてくれたのはカイ兄ちゃんだ。母さんがいつも申し訳なさそうに、言いづらそうに、仕事のことを言うのが嫌だ、と言ったら、じゃあ暗号を考えればいい、と言った。それで、母さんが「買い物行って来て」と言ったら、仕事だという合図にした。そのあと、何も買うものを言わずにお金を渡されたら。百円一枚なら一時間、二枚なら二時間、俺は外で待つ。いい考えだ、と思った。
カイ兄ちゃんの、こういうところも俺は好きだった。母さんの仕事のことを蔑むでもなく、好色な目で見るでもなく、さらには子供の俺の相談に真面目にのってくれるところ。
まずは、生きることが大切。
そう言って、笑うところ。
「ああ、あれね。ちょっと一ヶ月後のレースに出ようかと思ってさ。でも、ホンは気に食わないみたい」
レース、という言葉に俺は上半身を起した。上から見ると、カイ兄ちゃんは気持ち良さそうに目を閉じていた。赤い髪が、少し揺れている。
「出るの?」
「うーん。出たいんだけどね。あれ、賞金いいだろ?」
確かに、一ヶ月後のレースは大掛かりなもので、いつもの倍の賞金がついていた。そのぶん、いつもの倍の人数が参加するのだろうけれど。
「まあ、カイ兄ちゃんなら優勝できそうだけど」
そうだろ?とカイ兄ちゃんが笑う。でも、ホン兄ちゃんの心配もわかるなあ、と思った。
レースというのはまあ色々あって、勝ち残りバトルや耐久なんか全てを含む。今回は勝ち残りの一種、「逃亡レース」だ。「狩猟者」と呼ばれるプロの集団から、ただひたすら、逃げる。丸一日逃げて、勝ち残ったら翌一日置いてまた次の日に、逃げる。その繰り返しだ。狩猟者は逃亡者より人数が少ない。多くてあっさり終わったらつまらないからだ。
逃げられるのは、この街の中だったらどこでもいい。逃亡者は探索チップをつけられて、その行動は観客には逐一わかるようになっている。もちろん、狩猟者はその端末画面は見てはいけないことになっている。(でも、不正があるだろうとみんな思ってるけど)。
これはレースだから、優勝者に賞金も出るけれど、賭けごとなんだ。誰が残るか、観客は賭ける。だからこそ、逃亡者の身は危険に晒される。有力なら有力なほど。賭けの参加者から狙われるだけではなく、敵対する逃亡者にだって狙われる。だから、逃げ足だけ速くっても駄目なんだ。
その上。狩猟者に捕まった逃亡者は、好きにされる。それも、暗黙の了解。狩猟者は常に小型カメラ付きのゴーグルをしていて、実況生中継がされるんだ。怯えて逃げる逃亡者を見て楽しむ観客もいれば、いいように身体を開かれている逃亡者を見て楽しむ観客もいる。ということで、観客席もそれぞれレベルがあるんだけど。
カイ兄ちゃんなんて、こんなに綺麗じゃ絶対やられる。そーいう趣味じゃない狩猟者でも、きっとその気になる。日ごろホン兄ちゃんにたっぷり愛されてるらしいから、色気が滲み出ちゃってるんだよね。
「大体さあ、俺が捕まると思ってるところが気に食わないよな」
カイ兄ちゃんはそんなことを言うけど。
汚い手なんていくらでも使ってくる連中だからなあ。
それに、「勝っても負けても食われる」と言ったホン兄ちゃんはきっと正しい。優勝したら優勝したで、そこら辺の金持ちに買われちゃうかも知れない。無理やりでもね。
「仕事、上手く言ってないの?」
訊いてみたら、カイ兄ちゃんは首を傾げた。
「いや、まあ順調かなあ。でも、面白そうだろ?」
にっこりと笑ったカイ兄ちゃんの顔は、相変わらず神々しいまでに綺麗だったけど。
その理由なら、俺はホン兄ちゃんに賛成かな、と思った。
レースには、俺も一度出てみたい、と思っていた。別に逃亡レースじゃなくてもいいんだけど。何しろ、まとまったお金が手に入る。
母さんは仕事に誇りを持っていると言うけれど、やっぱり生活のためなのは否定できない。そして、そう長く出来る仕事じゃないと、俺にだってわかる。だから、今のうちにとでもいうように、日に何人もを相手にするのは、見ていて少し心配になる。
本当なら、俺だってそうやって稼いでもいいんだ。まだ「少年」と呼べる俺なら、きっと買ってくれる人間がいるだろう。でも、母さんは絶対に許さない。初めては、ちゃんと愛してもらいなさい、って言うんだ。母さんは、父さんに愛されたから、もういいんだって。その辺は俺にはよくわからない。やることなんて一緒だと思うんだけど。
でも、母さんがそう言うから、俺は小さな工場で働いている。給料は良くないし、社長も嫌な奴だけど、他に行くところなんてないから、我慢している。だから、レースに出て、賞金が手に入ったらって思う。
そうしたら。
外に出てみたい。この街の外に出てみたい。噂に聞く、首都の東京にだって行ってみたい。だって、ときどきでも雨が降ったり、雪が降ったりするんだって。すごいよな。それに、昼と夜が少しずつ入れ替わるなんて、びっくりだ。ここでは、朝の六時になったらぱちりとカバーフィールドの電気がついて、夜の七時に消える。まあ、消えるときは危ないから、警報みたいなのが鳴るんだけどね。
知らないことはたくさんあって、世界はもっと広いんだって思ったら、見てみたくなるじゃないか。だから、母さんを連れて、街の外に旅行に行ってみたい、とずっと思っている。
でも、俺にはレースに出て勝てるような何かはない。体力もなければ、足が速いわけでもないし。その点、カイ兄ちゃんは確かにスケーターをつけたら誰も追いつけない。あれで飛んだり跳ねたりできるというのも、初めて見たときはびっくりした。
「今度教わってみようかな」
思わず呟いたら、隣で気持ち良さそうに眠っていたカイ兄ちゃんがちらりと片目を開けた。それから、何を?と笑う。カイ兄ちゃんの笑顔は、いつ見ても、何度見ても、うっとりする。
「スケーター。ね、今度のお給料でスケーターが買えたら、教えてくれる?」
「ん?いいよ。ああ、買うなら一番安いのにしろよ」
「ええ?そりゃあ安月給だけど。俺だって趣味ってものが……」
「生意気言ってるよ。まあいいけどさ。でも、シンプルな方がいいんだ。色々改造するから」
そう言って、俺の足をひょいっと持ち上げた。それからぽいっと靴と靴下を脱がされて、足を見られた。
「な、何?」
カイ兄ちゃんは突拍子もないことをする。だから、普段あんまり慌てることのない俺が、悔しいことにときどき泡食っちゃうんだ。片足を持たれたこの格好って、結構恥ずかしい。
「カーイ。何子供を襲ってんだ。まだ足りないってか。ん?」
じろじろと見られて顔を赤くし始めた俺を助けてくれたのは、ホン兄ちゃんだった。いや、そのセリフはどうかと思うけど。
「馬鹿たれ。いくら俺だって限界ってもんがあるんだよ。悔しいけど、あれだけはおまえに負ける気がする」
ふーん。ホン兄ちゃんは絶倫なんだね。まあほら、受け入れる方がきついっていうし。
そう慰めようかと思ったけど、何だかんだいって子供だと俺のことを思っている二人には、言わないで置いた。だいたい、顔を赤くした状態で言ったら、どうからかわれるかわからない。
「それで逃げ出したのか。大体なあ、せっかくの肉じゃがに睡眠薬入れるなよ」
「ちゃんと無味無臭だっただろ。本当はその前のキスのとき眠らせてあげようかと思ったんだけど。一人で肉じゃが食べるのも悪いと思って、食べ終わってから眠れるようにしたんじゃないか」
ときどき、俺は二人の会話が理解できない。いや、言ってることはわかるんだけど。どうしてそういうことを日常でしているのかが、わからない。
「ああキイ、お母さんに上手かったって言っておけよ」
ホン兄ちゃんが俺の足を取って靴下と靴を履かせてくれた。それも恥ずかしいよ……。
「なんかホンがやるとやらしい……」
だよね。俺もそう思った。なんかもっと顔が熱くなった気がした。
「おまえね……あれ、キイ真っ赤だ」
にやにやと、ホン兄ちゃんが笑う。そういうところが、見た目と違うんだよね。
「こら、離してやれよ、もう」
「カイが先に襲ってたんだろ?俺はそれを助けてやっただけじゃないか」
「襲うのに靴から脱がすか、普通。外なのに」
カイ兄ちゃんが呆れたようにため息を吐いたけど。
そう言う問題でもないと俺は思うんだよね。
「部屋でも靴なんかほっとくけどな」
ホン兄ちゃんもまともに答えないで欲しい。
「どうでもいいけど。離して?」
俺がそう言うと、やっと気付いたようにホン兄ちゃんの手が足首から離れた。やれやれ、だ。
「ところで何してたんだ?」
「ん?キイがスケーターやりたいって言うからさ。足のサイズとか形とか見てたの」
なんだ、そう言うことだったのか。
俺はほっとして、それからちょっと残念に思った。
何を?
うーん。カイ兄ちゃんだったら襲われても良かったってことかなあ。
「それで、ホンは何しに来たんだよ。だいたい、薬はもうちょっと効いてるはずなんだけどなあ」
「誰かさんのおかげで耐性が出来てきてるみたいだな。ありがたいよ」
半ば本気でホン兄ちゃんが言って、カイ兄ちゃんは少し呆気に取られてた。
そう言う二人に、俺だって呆気に取られるしかない。
「で、目覚めたので、お迎えに」
「やだよ。たまには清々しい外の空気を吸って過ごしたい」
清々しいかどうかは俺にはわからないけど。確かにセックスの後って空気が変に濁るよね。締め切ってるから余計なんだろうけど。
俺はこれから帰る家の淀んだ空気を思い出して、ちょっとため息をついた。
その中で、母さんは疲れて坐っていることが多い。ぼんやりと、どこか遠くを眺めて。
お父さんを思い出してるのよ、といつか母さんは言っていた。
幸せだった、その腕の中の自分を思い出しているんだ、きっと。
その直前まで自分を抱いていた腕が、父さんのものだって、錯覚させているんだ。
「キイ、鍋洗ったから、取りに来るか?」
ホン兄ちゃんが、手を差し伸べてくれた。
俺は、目を瞬かせた。勝手に瞼が動いたんだ。
そこから、何も零さないように。
「じゃあ、足型取ろうよ。スケーターの中底作るからさ」
カイ兄ちゃんも、そう言って手を出した。
俺は右手でホン兄ちゃんの手を、左手にカイ兄ちゃんの手を握った。
今から帰って、鍋を返してもらって、足型をとって。
それから家に帰ったら、母さんはきっともう夕食の用意を始めているだろう。
家の中は、その美味しそうなご飯の匂いで、溢れてるだろう。
両方の大きな手をぎゅっと握ったら、二人とも同じ強さで、握り返してくれた。
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