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花の咲く頃

03
 ホン兄ちゃんの仕事のことがわかったのは、それからすぐのことだった。
 その日、母さんが珍しくぐったりと疲れた顔をして帰ってきて、ホン君に会ったの、と言ったのだ。
「区の管理官の息子が来てね。そのボディーガードをしてるみたい。あの馬鹿息子、変な趣味があってね、自分がやるより見てるほうが好きみたいで、いつも自分にくっついてる人間にやらせるのよ」
 母さんの顔色は悪かった。俺はビタミン剤を溶かしたお湯を作って、渡した。
「ありがと。あんたは本当にいい子だわ。私の自慢の息子」
 母さんはこくりと湯を飲むと、ほっとようやく息を吐いた。
「……ホン兄ちゃんとしたの?」
 訊いていいのか、俺は珍しく途惑った。母さんは仕事のことをいつも隠さず話してくれる。俺が心配しないように――俺が、卑屈にならないように。
「それがね。もうカイ君に合わせる顔がなくなっちゃうわーって思ってたら、ホン君、何て言ったと思う?」
 母さんの顔に少し血の気が戻ってきて、俺はほっとした。このところ、疲れていることが多い。
「わかんないよ」
「役に立たないので、すみません。だって」
 母さんは若い娘のようにきゃらきゃらと笑った。いや、若いけどさ、今でも。それに、俺だって思わず笑いを漏らしてしまった。いや、あれだけ連日カイ兄ちゃんをなかせて、役に立たないってどうだろう。
「たった一人にしか」
 母さんが、うっとりとした表情で呟いた。俺が何?と聞き返すと、その顔のまま、微笑んだ。
「ぼそりとね、私にだけ聞こえるようにね、そう言ったのよ。もう、参るわよねえ」
 ホン兄ちゃんの言いそうなことだ、と俺は思った。実際どうなのかはわからないけれど(第一、そうなら二人の喧嘩はもっと減ってもいい気がする)、ホン兄ちゃんのカイ兄ちゃんを想う気持ちは確かにすごい。
 ときどき、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、切なく、なるくらい。
 カイ兄ちゃんの気持ちはわからない。邪険にしているようで、でも、本当はすごく嬉しそうだ。それに、ホン兄ちゃんと一緒のときだけ、カイ兄ちゃんは安心している。
「ホン君も怖い顔ばっかりしてるけど、優しいのよね。カイ君を裏切らないためだけじゃなくて、私が疲れるのもわかってたんだわ。あの馬鹿息子、本当にいつもひどいのよね」
「怖い顔ばっかり?そう?」
「カイ君といないときはね。あなたはいつも一緒のところ見てるから、知らないんでしょ?」
 そうなのかな、と俺は考えてみた。確かに、カイ兄ちゃんを見るホン兄ちゃんの目はいつも優しい。そして俺は、そんなホン兄ちゃんばかり覚えている。
「この辺のお嬢さんと奥様にはね、もう、それはそれは冷たーい目ばっかりなのよ。私はあなたが仲良くしてるから少しはそれも和らいでいるけどね。まあ、あれだけいい男だから仕方ないけど」
 そのつれないところもまたソソルのだ、と皆は言ってる。女心ってわからない。
「それがカイ君を見るときと言ったら。あれじゃあ誰だって諦めるわよね」
 母さんはホン兄ちゃんが好きと言うより、あの二人が好きなのだ。そして、いつもこう言う。
「キイ、あなたも誰か、あんな人を見つけなさいね。お互いに、大切で愛しくて堪らないような、恋をしなさいね」
 俺はいつも、目を細めて笑うだけだ。
 大体、恋ってものが俺にはよくわからない。だから、曖昧に頷くようになってしまう。
 俺もいつか、ホン兄ちゃんみたいな目をするってこと?
 優しいけれど、少しだけ切なそうなその目を?
 
 
 切ない目をするのは、ホン兄ちゃんだけじゃない、と知ったのはそれから少し経った日のことだった。母さんが仕事で帰って来ないと連絡があった夜で、俺は隣の家にお邪魔していた。ホン兄ちゃんが仕事でいないと知っていたのだ。
 俺は母さんの教育のおかげで、料理が出来る。だから良く、カイ兄ちゃんを夕食で釣るんだ。その日は、カイ兄ちゃんのところにあったトマトで、パスタを作った。トマトは切って塩を振れば食べられるから、良く買ってるらしい。同じ理由で、果物も良く買っている。それでこの間、オレンジを貰ったんだ。オレンジは品種改良が上手くいっていない食物の一つで、リンゴとか苺とかより高い。改良が上手く行くと、一年中、かなり短い周期で収穫できるらしい。これはカイ兄ちゃんから聞いたこと。お隣さんの二人は、色々なことを知っている。
「レースは結局どうしたの?」
 トマトソースに「肉味」のパウダーを混ぜたパスタは、思ったより美味しかった。カイ兄ちゃんも「美味しい」と驚いていた。満足だ。
「ああ、ねだってね、許してもらった」
 強請ってねえ、と俺はパスタを口に運びながらちらりと上目遣いにカイ兄ちゃんを見た。ちょっと悪戯した子供みたいな、それでいて色っぽい顔で微笑んでいた。
 うーん。色っぽーくねだられて、断れなかったんだね、ホン兄ちゃん。苦虫を潰したようなホン兄ちゃんの顔が思い浮かぶよ。ちょっと同情する。俺も反対だったから。
「だからこれからちょっと筋力トレーニングをすることにしたんだ。キイもする?」
 スケーターを教えて欲しい、と言ったことを覚えてくれているんだ。俺はもちろん「する!」と即答した。
「でもキイは仕事があるから、休みの日にしようね」
「それでトレーニングになるの?」
「普段は仕事でトレーニングをすればいいだろ?今度から意識して筋肉を使うようにしなよ」
 意識して使うってどういうこと?俺が首を傾げると、カイ兄ちゃんがくすりと笑った。どうやら俺の口の周りにソースがべたべたくっついているらしい。「かわいい」って言われても……困るよ。
「ただ立ってるだけじゃなくてつま先立ちしたり、重たいものを持つときもバーベルだと思って持ち上げるとか。ただし、やりすぎは駄目だよ?最初はゆっくり。痛くならない程度に」
 カイ兄ちゃんたちはそうして鍛えているんだろうか。二人の綺麗についた筋肉を、俺は一瞬思い浮かべてしまった。
「わかった。今度からそうしてみる。そう考えたら少しは仕事も楽しいかもね」
「仕事はつまらない?」
 カイ兄ちゃんが微笑んだ。俺は正直に、うん、と答えた。
 俺の仕事は俺にも良く分らないすごく細かい、何かの部品を作ることだ。説明してもわからないだろ、って工場長は言う。でも、何を作ってるのかわからないってつまらない。手が小さいから俺には向いてるだろ、とか言うけどね。それに、終わりが見えないんだ。これから先ずっと、それを作りつづけるのかと思うと、時々気が狂いそうになる。
「でもね、俺が身体を売らなくても良いように、母さんが探してくれた職だし。辞めたらもう、どこも雇ってくれないだろうし、頑張ろうとは思ってるんだけどね」
 俺の独り言のような言葉に、カイ兄ちゃんは「そっか」と言っただけだった。俺も、それ以上の言葉を期待しても望んでも、いない。
「あ、ねえ。オレンジの木の葉っぱがね、三枚になったんだ」
 なんとなく気まずい気がして、俺は話題を変えた。わざとらしくてもいい。カイ兄ちゃんと話していてこうなるのは、すごく珍しいことだった。
 カイ兄ちゃんと俺はいつの間にか止まってしまった手をまた動かし始めた。俺だって綺麗に食べられないだろうか、と思って、カイ兄ちゃんを真似してフォークにパスタを巻きつけるんだけど、それが多すぎて結局大きく口を開けても周りにソースがくっついちゃうんだ。
「改良種なら早く成長するはずだけど、それでもやっぱりオレンジは遅いね」
「そうなの?」
「リンゴなら今ごろ木になってるよ。苺なら収穫できるころかも」
 そうなのか。でもだったら余計、あのオレンジの木は大事に育てたいと思う。
「カイ兄ちゃんたちは色々よく知ってるよね。あのね、もしかして、トーキョーとかにも行ったことある?」
 トーキョー。そう言ったとき、カイ兄ちゃんは、ひどく切ない目をした。微笑んでいるようで泣いているような、不思議な表情で。
「うん。ほとんど地下しか知らないけどね」
「ああそっか。地上は特権階級ばっかりなんだっけ」
 そう、とカイ兄ちゃんは笑った。笑ったけど、俺はとっても触れてはいけないことに触れているような気がしていた。
「俺ね、いつか行ってみたいんだ。そこだけじゃなくて、ここ以外の場所に」
 そうだね、外に出てみるのはいいことだね、と言いながら、カイ兄ちゃんはくすくすと笑っていた。今度は本当に可笑しくて笑ってる感じだ。でも、そんな可笑しなこと、俺は言ってないよね?
「ごめん。キイがね、その口調で俺って言うのがどうも慣れないって言うか、面白いって言うか……」
「カイ兄ちゃんだって、ホン兄ちゃんと話すときと違うよね?」
「それはキイにつられてるんだよ。だから余計、キイが俺って言うのがなんというか……」
 俺は母さんとずっと二人だったから、やっぱり口調はどうしても母さんの影響が出ちゃうんだ。でも、「僕」って言うと、馬鹿にされるんだよ。工場でも「すかしやがって」とかなんとか言われるし。
 俺がそう説明すると、キイも大変だねえ、なんてカイ兄ちゃんは呑気に言ってくれた。
 結局、トーキョーの話は、俺が話題を変えようとしなくても、こうしてカイ兄ちゃんに上手く誤魔化された感じだった。もちろん、俺はカイ兄ちゃんを困らせたいわけでも悲しませたいわけでもないから、それで良かったんだけど。  それから料理の話や最近公園に出没している猫の話をしているうちに、随分時間が経っていた。カイ兄ちゃんはホン兄ちゃんと違ってお酒とか勧めてくれないので、俺はそろそろ帰ろうかと思っていた。それを言う前に、カフェオレを飲み干したところで、玄関で物音がした。それに、俺が顔を上げるより早く、カイ兄ちゃんが反応した。すっと音もなく立ち上がって、玄関に向かう。俺の肩をそっと触っていったのは、ここで大人しくしていろってことだろう、と俺はものすごく気を遣いながら、コップを置いた。
「蘇芳っ」
 低く、押し殺したカイ兄ちゃんの声が聞こえた。俺が全くホン兄ちゃんの正体を知らなかったら、それがどんな言葉だったのかわからなかったと思う。でも、俺はその言葉を知っていたから、カイ兄ちゃんが何を言ったのかわかったのだ。俺は思わず振り返った。家はそれほど大きくない。今いるダイニングキッチンから玄関は、薄い扉を隔ててすぐだった。カイ兄ちゃんが、そのドアを開けたまま玄関のほうに飛び出した。
「誰に?奴ら……」
「わからない。管理官の息子も最近何かやばいことに首突っ込んでるからな。そっちの関係かもしれない」
「とにかく早く手当て」
「その前に、追手が来てないか確かめろ。撒いたと思うが用心に越したことはない」
 俺はそのときには、キッチン脇のドアまで来ていた。蒼白な顔をしたカイ兄ちゃんが頷いて、支えていたホン兄ちゃんの右腕を外す。ホン兄ちゃんはそのまま、壁に寄りかかるように身体を預けた。
 嫌な匂いがする、と思ってみると、ホン兄ちゃんの左腕からぽたぽたと血が垂れていた。
「ホン兄ちゃんっ!」
「なんだ、キイがいたのか。厄介なときに居やがって」
 カイ兄ちゃんは、俺の脇を通り抜けて仕事部屋に入っていった。顔がすごく真剣で、真っ青で、怖かった。
「手……」
「ああ。大したことない。せっかくだ。肩を貸してくれるか?」
 大したことないはずがない。俺は慌ててホン兄ちゃんの傍にいった。でも、俺じゃあ背も高い、ガタイのいいホン兄ちゃんは支えきれない。
「ゆっくり歩いて、キッチンまで連れて行ってくれ」
 ホン兄ちゃんは、肩を組むようにどさりと右手を俺の肩にまわした。俺は頷いて、ゆっくり歩く。怖くて、左手は見られなかった。
 ようやく、という感じで近いはずのダイニングキッチンに着くと、ホン兄ちゃんは壁に寄りかかって坐り込んだ。俺に、その隣に来るように、と言う。窓から見えないところにいろ、と。
「大丈夫だよ。追ってはいない」
 カイ兄ちゃんが、何か箱を持って入ってきた。ぱかりと開かれたその箱の中を見ると、まるで病院のような医療道具が見えた。
「俺にもコンタクトを貸せ」
「言うと思った。でも治療が先だ」
「それじゃあ安心しておまえに身体預けられないだろ。嵌めろって」
「うわあ。ホンからその言葉を聞く日が来るとは」
 カイ兄ちゃんが、にやにや笑いながら、ホン兄ちゃんの目にコンタクトを入れた。コンタクトが何の役に立つのか、俺には良くわからなかったけど、いつものやりとりに、俺は少しほっとする。
「キイ?お湯沸かしてくれる?それから水と混ぜてぬるま湯にして、その辺のボールに入れて持ってきて。鍋でもいいや。やけどしないように気をつけて」
 カイ兄ちゃんの言葉に、俺はびっくりしたように立ち上がって頷いた。ものすごく、緊張していたのだ。
 お湯を沸かして持っていくと、カイ兄ちゃんはホン兄ちゃんの服を鋏で切っていた。黒い服だったから血に濡れてもあまりわからなかったけど、ぬらぬらと光っていて、俺は思わず目を逸らした。そこから現れた腕に、レーザー銃でやられたのか、鋭いけれど火傷をしたような傷が見えて、耐え切れなかったんだ。
「ありがと。キイ?気分悪くなったならキッチンに行ってろ」
 カイ兄ちゃんの声に、俺は無意識で首を振った。カイ兄ちゃんの手は、口と同時に動いている。まるで本物のお医者さんのように、手際がいい。
「手伝うよ」
 そう言うと、にっこりと笑ってくれた。それから、持ってきた湯にタオルを浸して、硬く絞るように言う。言われたことをしながらちらりとホン兄ちゃんの顔を見ると、血の気がないせいか、いつもよりずっと白くて、閉じられた目が少しだけ怖かった。
 安心して、カイ兄ちゃんに傷の手当てを任せきってるとわかっていても。
 その目が開かなかったらどうしよう、ってずっと考えていた。


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