椿古道具屋 閑話
池のほとり
ぱしゃり、と水の音が聞こえて、凪は目を覚ました。音がしたのは夢の中か現実か。判然としない。雪見障子のガラスからは、冬の朝の薄い光が入って来ていた。
枕元に置いていた携帯電話を開けてみると、午前六時。昨晩寝たのは一時を過ぎていたはずだったが、いつも通りの時間に目覚めたようだ。今日ぐらいは少し寝坊しようかと思っていたのに、習慣と言うのは恐ろしい。
枕もとには、昨晩風呂に入るのに脱いだ下着やシャツが、綺麗に洗って折りたたまれて置いてあった。史朗のはずがないので、彼が言うところの「神様」がやってくれたのだろう。ずいぶんと働き者の神様たちである。
春はもうすぐそこ、という頃だが、朝はまだ寒い。それでも凪は、名残惜しむ様子もなしに布団から起き上がった。神社の裏手にある、かなり古い日本家屋に住んでいる凪は、寒い朝も暑い夜も慣れっこなのだ。
凪はストーブも点けずに手早く制服に着替えた。習慣にならうならジョギングといきたいところだが、服も靴もない。だが、ふと考えて、庭に出てみることにした。
池のほとりに立って、暗い水の中を覗いてみる。ふらりと紅い曲線が見えたと思ったら、隣に「朱紫さま」が立っていた。水面には、幾重にも広がった水輪が揺れていた。
「昨晩はずいぶん盛んだったというのに、お早いこと」
朱紫さまは着物の上に桜色の内掛けを掛けていた。上品そうに、その内掛けの裾で口を押さえて微笑んでいるが、言っていることは下世話だった。
「神様って言うのは、ずいぶん悪趣味なんだな」
凪は冷ややかな目で鯉の化身を見た。白い肌に赤い唇が毒々しい。
「おや、史朗さまを必要以上になかせたのは凪さまで、それをわざわざ私たちに聞かせたのも凪さまではございませんか」
「わざわざ聞かせた覚えはないが」
「でも、凪さまは出歯亀がいることはご承知だった。史朗さまはお忘れになっていたようですが」
くすくすと、楽しそうに笑う。どこか小馬鹿にされているような気分になって、凪は目を眇めた。
「見せびらかしたかった……それとも、自分のものだと言いたかった? どちらにせよ、史朗さまは主。私たちが手を出せるお相手ではありません」
ご安心なさい、と言われ、凪は一層目をきつくした。この、なんでもお見通し、という顔が気に食わない。その上、この鯉の化身は、史朗がいるときといないときとで、態度が変わるらしい。史朗の前では、優しくて賢い姉のような顔をしているくせに、今は高飛車で見下すような目をしている。少なくとも、凪はそう感じた。
溜息のように吐き出した息が、白く舞った。そう言えば、この鯉の化身の口からは、白い息が出ていない。一体呼吸をしているのかさえ怪しかった。
怪しいことも、信じられないようなことも、いくらでも起こるものだ。凪はそのことを、ここ数日で知った。
凪はふいっと踵を返し、客間に戻ると、店へと通じている襖を開けた。昨晩、この襖はあってなきがごとくだったと、凪は知っている。姿は見えなくとも、気配は感じるものだ。彼らは、人でもないというのに。
「虎之助じーさん、スエットかジャージ、持ってなかったか。走りに行きたいんだけど」
誰ともなしに、朝の静まり返った店の中に言い捨てる。どうにも、史朗のように茶碗や箪笥に向かって喋るのは慣れない。
襖を閉めて振り向いた時には、ジャージが一組、用意されていた。それに着替えていると、「朱紫さま」がするりと部屋に入ってきた。
「おや、虎之助さまの服を着られますか。そう言えば、虎さまは大きな人でしたねえ」
確かに、虎之助はあの年代の人間にしては大柄で背が高かった。それでも、着てみたジャージは少々丈が短かった。
「凪さま、みなが史朗さまをいつ起こせば良いのかと心配しております」
「ここからあいつの高校までは自転車で五分だ。八時にでも起こせば間に合うだろ」
そもそも学校にいけるのか。昨晩自分が史朗にした仕打ちを思い出して、凪は罵られても文句は言えない、と思った。
「自転車……二輪の車ですね? 虎之助さまは、あいにく持っていませんが……。ああ、服のことも心配しておりますが」
まったく、気のつく神様たちである。
「これからジョギングがてら、あいつの家に行ってくる。帰りは自転車で帰ってくる」
ほう、と朱紫が顔を緩めた。
「すでに考えていなさったのですねえ。凪さまは、よほど史朗さまが大事と見える」
凪は何も答えずに、廊下に出ようと襖を開けた。
「これはひょっとすると、昨晩のことは凪さまが謀ったことでしたか」
「謀った?」
「昨日の荒魂は、所詮小物。十分な食事と十分な酒で、大神様にはお礼ができるはずでした。ところが、史朗さままで所望した。しかも史朗さまは立派な男。どうにも首を傾げることばかりでした。でも、凪さまが史朗さまを謀ったのなら、わかります」
「俺が、何を謀ったって言うんだ」
「ですから、神様へのお礼だと言って、史朗さまを手篭めにした」
ずい分な言い草だった。「謀った」だの「手篭め」だの、語感が悪い言葉ばかり並べてある。
ふいに、店の方が騒がしくなった気がした。実際、いくつかのものはカタカタと一人で音をならしていた。殺気が漂ってくる気がする。
「俺は、謀ってもいなければ、手篭めにしたわけでもない。大体、おかげで俺の数年間の努力と我慢が全部無駄になったんだ」
多少の苛つきを声に滲ませて、凪は冷ややかに朱紫を見下ろした。ついでに店の方も睨むと、音が止んだ。
鯉の化身は、一瞬惚けたような顔をした後、ころころと笑った。
「まあ、そうでしたか。努力と我慢をなさっていたのですか……」
その笑い声は、凪をさらに苛立たせるに十分だった。付き合ってられないと、襖に手を掛ける。
「それならば、昨晩のことは罰だったのかも知れませんねえ」
坐ったまま、朱紫は艶やかに微笑んだ。決して媚びているわけではないのに、男を誘うような態度をとるのは、凪に対する嫌がらせに違いなかった。本能のようなところで、凪の奥底が嫌悪に震える。少女達ならまだいい。だが、大人の女は駄目だ。
「罰?」
「そう、不遜な凪さまに対する、罰」
ふいに朱紫の目が真っ直ぐに凪を捕えた。冷たい風が、どこからか吹き込んでくる。
「最初に、説明いたしました。半信半疑で神馴らしをしてはいけない、と」
「信じてなかったわけじゃない」
「ええ。でも、神の力を借りたというのに、どうやらこの神遣いは感謝をしていないらしい。それどころか――やらされた、と思っていらっしゃる」
「やらされたとは思ってない。仕方なくやった、ってとこだ」
正直なこと、と朱紫は笑った。
「それでも、神に感謝はするべきでしょう」
「そもそも、神の力を借りるとか、俺は知らない話だ」
あろうことか、鯉の化身は「おや、そうでしたか」と惚けた。凪は思わず、その「神様」であるという朱紫を睨んだ。最初に神馴らしのことを説明したのはこの鯉だ。そのとき、神馴らしをした後のことなど、説明はなかった。
「では、凪さまはご自分の力で神馴らしをした、と思ったと?」
ご立派な、と朱紫は嫌味な口調で言う。確かに、神馴らしをしたときに、自分ではない力を感じたのは確かだ。凪はそのときのことを思い出して、僅かに身を震わせた。史朗の手前、平気な顔をしてみせたが、あのときの違和感やわけのわからない焦燥感、恐ろしさは、思い出したい類のものではない。
「俺にその力がある、と言ったのは誰だ? だがなんにしろ、俺は自分に、凄い力があるとは思ってない」
「お父上に、諭されましたか」
本当に、嫌な奴だ、と凪は思った。赤い唇は意地悪に歪んでいて、目はいたぶるように光っている。凪の神経を逆なですることが、心底楽しいらしい。
「あいつには何も言われてない。大体、あいつは何か物事を諭すなんてことはしない」
「でも、凪さまの力については、何かおっしゃったのでは? 仮にも斎庭さま。ご存知だったのでしょう?」
知っていただろう、と凪は思う。幼い頃には、父に訴えたこともあったのだ。人には見えない、何か光っているものや、黒くて丸いものが見えることを。だが、あの父親は「ほう、そんなものが見えるのかい。凪はすごいねえ」と言うばかりで、何も説明はしてくれなかった。やがて、凪はそのことは口に出してはいけないと悟り、言わなくなった。
あの父親は、そういう奴なのだ。凪が困っているのを見るのが趣味なのだ。そう思うと、目の前のこの鯉の化身も同じだった。だから自分は、この鯉が嫌いなのだと、凪はようやく納得した。
「知ってても、あいつは言わない。この力について、何か言ってくれたのは、虎之助じーさんだ」
「まあ、虎さまが……では、やはり凪さまは史朗さまに言われる前から、神馴らしはご存知だったのですね」
それに、凪は首を振った。虎之助は、そこまでは教えてくれなかったのだ。
「怖がらなくてもいいことと、いつか役に立つ日がくるかもしれない、もしそんな日が来なくても大して困らない力だと言われただけだ。まあ、説明されても、わからなかっただろうけどな」
朱紫が首を傾げた。
「でも、力のことは知っていた。それなのに、なぜ知らない振りを? 時計も、穴があいているから壊れているなどと、嘘まで言って」
あれを嘘と言われるのは、少々心外だった。穴があいていた(と、凪の目には見えた)のは、本当だ。
「史朗にも、見えているんだと思ったんだ。虎之助じーさんが、史朗も人には見えないものが見える、って言ってたからな。だから、少しかまをかけた」
だが、史朗に見えているのは、自分とは全く違うものだった。
そうでしたか、と朱紫は納得したように頷いた。
「その、虎さまが言った役に立つ日が、来たわけですね」
どうだろうな、と凪は思った。役に立つといっても、何の役に立ったと言うのだ。凪の実感としては、「振り回された」と言うのが最も相応しかった。
「役に立つどころか、却って邪魔かもしれないけどな」
この力のおかげで、史朗が再び自分の前に現われた。正直に言えば、自分の名を呼ぶ史朗が目の前に立っていたとき、鳥肌が立つほど嬉しかった。だが同時に、恐ろしかった。その予感めいた恐怖は本物で、あのまま離れていれば子供の勘違いですんだことが、勘違いでは済まないようなことにまで発展してしまった。
「では、どうしてお受けしたのです? どうして、神馴らしをやり遂げたのです? あれは、そう簡単なものではなかったでしょう」
凪はしばらく考えた後、呟いた。
「男の意地、プライド……そういうくだらない理由だろ」
史朗にやって欲しい、と頼まれた。自分はそれを引きうけた。だから、やり遂げた。
朱紫の甲高い笑い声が部屋に響いた。心底楽しそうな顔をしていた。
「凪さまの中心は、史朗さま、ということですね。ならば、それに大神様が嫉妬なさったのでしょう」
朱紫が笑いの合間にそう言った。凪のあの一言で、嫌味なほど正確な指摘をしてくる。今回の凪の行動には、史朗ありき、だというのは否定できない。神と言うのは、厄介なものだと、凪は苦々しい思いをしながら首を振った。
「神様っていうのは、ずい分と心が狭いな」
「おや、それは違います。神様が嫉妬したくなるほど――凪さまの想いが深かったのでしょう」
凪はこれ以上聞きたくないと、襖を思い切り閉めて、玄関に向かった。
ずっと閉まってきた想いだ。我慢して、諦めて、振り切ってきた、想いだったのだ。神だからと言って、こんな風に抉り出していいものではないだろう。凪は湧き上がる痛みに似た気持ちを踏みつけるように、廊下を歩いた。
――想いが深いからこそ、昨晩のことは、これから大きな罰として凪さまを苦しめることになるでしょうよ。
誰に答えたのか、朱紫さまがそう嘆息する声が、玄関でスニーカーがないかと物色する凪の耳にも聞こえてきた。
昨晩のことは、もう既に、取り返しのつかないような罪悪感を引き起こしていた。そして、あの狂わしいほどの快楽は、甘い毒となって凪の身体に染み込んだ。
凪は半ばやけくそ気味に、見つけた茶色のスニーカーに足を突っ込んだ。故人の足の形に馴染んでいる靴は、サイズはちょうど良くても違和感がたっぷりとあった。だが凪は、軽く準備運動をすると、思い切り地面を蹴って、走り出した。
その姿はまるで逃げ出すようだったと、店先におかれていた古道具の神様たちは、囁きあった。だがその後姿は、その神様たちに、どこか憐憫の情も湧かせたのだった。