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椿古道具屋 第二話

少年の神さま 01


 麗らかな冬の終りの光が庭に差し込んで、きらきらと池の水が輝いていた。春の足音が聞こえてくるような、そんな日曜だというのに、自分は一体何をしているのか。史朗は出そうになった溜息を飲み込むと、立ち上がって空を見上げた。ぺたりと真っ青な空に、雲が一つ、悠々と流れている。綿飴、羊、と平凡極まりない想像力でその雲を眺めていたら、きゃらきゃらと楽しそうな声が背後で聞こえた。振り向くと、便利水様たちが手を挙げて笑いながら走っている。後を追いかけているのは、市松そば猪口様だ。
「ちょっと市松、邪魔すんなよ」
 史朗は唯一、市松そば猪口様にだけは「タメ口」をきくようになっていた。本人がそう希望したのだ。「なんかみずくせえよ、史朗。兄貴だと思って、楽にしな」と言って、ついでに自分のことを「様」づけで呼ぶなと頼んできた。何やらこそばゆい、のだそうだ。
「ああ? 別に邪魔しちゃいないけどよ。どころか、ちーっとばかし手伝おうと思ったんじゃねえか。それで座り込んだら、こいつらが俺の頭に取った草をばら撒いたから――」
 史朗は最後まで聞かずに、溜息を吐いて、しゃがみ込んだ。目の前の草を、ぶちっと抜く。暖かくなってきて、庭には雑草が生え始めていた。庭を整えるのは、史朗の仕事の一つだ。遺言に、きちんと記されている。特に、庭の片隅にあるお社とその周りは、念入りに掃除をして、酒や季節の果物を供えるように、と書いてあった。
 こう言った作業をするとき、便利水様たちはその名のごとく便利に手伝ってくれる。だが、見かけどおりに子供心満載な神様たちは、ついつい遊びに走ることも多かった。特に市松そば猪口様は、良い遊び相手のようだ。
 とりあえず、社の周辺の掃除を終えた史朗は、額の汗を拭いながら広縁に腰掛けた。そのまま、後ろにどさりと倒れると、市松そば猪口様が、庭に敷かれた飛び石の上をからりと下駄の音をさせながら近づいて来た。
「手伝おうと思ったけどよ、俺はどうやら向いてねえな。あれは抜くな、これは抜くなって、あいつらに怒られちまった」
 便利水様たちは、庭のあちこちで草を抜いたり、落ちた葉を掃き出したりしている。小さな身体だが手馴れた様子で、庭はどんどん綺麗になっていった。
「そりゃあ怒られますよ。花まで抜こうとしたりするんですから。水仙と雑草の区別ぐらい、してくださいな」
 情けない、と嘆息したのは菖蒲そば猪口様で、手にはお盆を持っていた。ご苦労様です、と差し出されたのは懐かしのラムネだった。史朗は起き上がって、ありがたくそれをいただいた。
「けっ、ラムネかい。酒はないのか」
「大して働いていない人が文句を言うものではありません。ちっとも役に立っていなかったんですから、あなたは飲まなくても構わないでしょう?」
「便利水たちの遊び相手をしたぜ? あいつら飽きっぽいから、ときどき気分転換をしてやらないとなんねえ」
 市松様は、ひょいっとラムネの瓶を取って、親指でビー玉を中に落とした。それから、ごくごくと一気に飲み干す。
「かーっ、やっぱり酒がいいねえ。おい、史朗。お前確か酒持ってきてたよな?」
「持ってきたけど、あれはお供え用。お社に供えるのが先だろ」
「その通りですよ、市松。あちらより先にいただくとは何事ですか」
 呆れを通り越して、怒っているような口調で菖蒲様が言う。市松様は肩を竦めて、「仕方ねえ、待ちますよ」と小声で言った。
 菖蒲そば猪口様と市松そば猪口様は、兄弟と言っているが、実際に兄弟というわけではない。そもそも、神さまたちに親兄弟がいるのかは疑問だが、市松様が菖蒲様を勝手に「兄」と呼んでいるのだそうだ。菖蒲様は菖蒲様で、市松様のこととなると、手のかかる弟のような口ぶりになる。
 何故兄と呼ぶのか、と史朗が訊いたら、単純なことで、菖蒲様の方が早くにこの世界にいたから、ということだった。「同じそば猪口、兄弟みたいなもんじゃねーか」というのが市松様の言だ。
「あれはね、寂しがり屋なのですよ」
 そう笑ったのは菖蒲様で、その顔は兄と言うより母親のような顔だった。
 その話をしていたとき、市松様の気持ちもわかる、と史朗は思った。史朗も一人っ子で、兄弟はいない。それはなかなかに寂しいもので、兄弟のいる友達を羨ましく思ったこともある。
 それでも、それがさほど強い気持ちではなかったのは、凪がいたからだ。家族ぐるみで付き合いがあり、家も近所だったから、二人は年中一緒に遊んでいた。百段ほど続く階段は、二人を阻む大きな障害物だったが、遊ぶとなれば駆け上った。今思えば、あれがずい分と足腰を鍛え、後々の運動能力に多大な影響を及ぼしたのだろう。そう思えば、あの階段を毎日上り下りしていた凪の足が速かったのも納得いく。
 ――凪かあ。
 史朗はごろりと横になったまま、目を閉じた。幼なじみで、永遠のライバルだった。だが、この間、その関係が微妙に歪んだ。史朗はいまだに、それをどう捉えていいのかわからない。
 神様の所為。
 そう思っても、どこか引っかかる。凪も史朗も、決して自我を失っていたわけではないのだから。
 そもそも、凪の考えていることはちっともわからない。史朗は母親から聞いた話を思い出して、目を開いた。庇と青い空が見える。ひゅいっと鳥が横切っていった。
 母親がうっとりとした顔で「凪くんを見たの」と言ったのは昨晩のことだ。なんでも神主の装束で、親子で歩いていたらしい。「地鎮祭でもあったのかしら」と母親は言っていたが、史朗は驚いて口をぽかんと開けて、何の返答もしなかった。
 あの凪が、神主の装束で歩いていたって?
 子供の頃から、凪は父親の職業を嫌っていた。というより、父親と同じ職には就きたくない、と公言していた。神主が嫌なのではない。父親の後を継ぐのが嫌なのだ。それでも小さい頃は、嫌々ながらも良く手伝わされていた。しかし、中学に上がった頃から、反発して決して手伝っていなかったはずだ、と史朗は記憶をひっくり返す。確か「手伝わないなら小遣いをやらない」と脅され、それでも首を縦に振らなかった凪は、本当に小遣いを貰えず、新聞配達か何かをしていたはずだ。当時、同級生たちは「神鳥んち、厳しーな」と同情していた。
「狩衣姿の凪くん、ほんとかっこ良かったわ。そうそう、写メ撮ったのよ。見る?」
 史朗が返事をする前に、目の前には携帯電話があった。そこには確かに、神主姿の凪が映っていた。もの凄く、不機嫌そうな顔だ。
「ね? かっこ良いでしょう。つい、姉さんたちにも送っちゃったわ。あ、史朗にも送ってあげようか」
「いらないよっ! っていうか、なんで凪が神主の格好してんだよ」
「あら、だって神社の息子だもの。今までずい分逃げられてたらしいけど、何でも頼みごとされたから、交換条件でお手伝いすることになったんですって」
「頼みごとって?」
「知らないわよ。そこまでは訊かなかったもの。でも、これで神鳥さんも安心ねえ」
 母親の呑気な声は無視して、史朗は考えた。
 頼みごと――。この間のことかどうかはわからない。だが、タイミング的にはぴったりだ。史朗はふと、凪が千織の祖母の病院を調べて来たときのことを思い出した。娘神様たちは、凪の父親が神主だからわかるだろう、というようなことを言っていた。神主だからわかる、というのも説得力が無かったが、そもそも凪が父親に訊くということが、ありえないことだった。
 でも、千織の家では凪が「水穂神社の息子」とわかってから態度がかなり軟化した。もしかしたら、千織の両親は凪の父親と親しいのかもしれない。そう考えれば、不自然でも不思議でもなかった。
 ――乗り気じゃなかったくせに。
 それなのに、凪は「絶対借りを作りたくない」父親に、桐原家のことを訊いたのだろうか。それどころか朝早くにやってきて、病院まで行った。
 やっぱりさっぱりわからない。
 史朗は爽やかな青空には似合わない、欝とした溜息を吐きだした。幼いころは、凪のことがわからないなんてことはなかった。無表情で無口なのは昔からだが、喜んでいるとか悲しんでいるとか、大概のことはわかったものだ。それが今や、何を考えているのか少しもわからない。
「しろ、寝てる?」
「寝てる?」
「さぼってる?」
 便利水様たちが、寝転がる史朗の周りを取り囲む。いつもなら同じ言葉を繰り返すくせに、最後にちくりと厭味を言われ、史朗は仕方なく起き上がった。ラムネの残りを一気に飲み干す。便利水様たちの目当ては、どうやらその瓶だったようだ。じっと見つめてくるので「いる?」と掲げて見せれば、純粋無垢な子供の目が、きらきらと輝いた。
「とにかくお社だけは奇麗にしないとな」
 史朗は立ち上がると、雑巾を持ってお社に向かった。その隣では、便利水様たちがラムネ瓶を日に掲げて「きれい」「きれい」と甲高い声ではしゃぎまわっていた。


 「すみません」と声が聞こえたのは、日もだいぶ弱くなってきた頃だった。便利水様たちは遊び疲れたのか畳の上にころりと横になって、「すぴー」っと寝息を立てていた。一体、彼らに布団を掛けてやるべきか。史朗がそんなことを考えているとき、表から人の声がしたのだった。
 店はいまだに開けていない。ただ、自分がいない時にはシャッターを閉めているが、神様たちが「暗い」「陰気臭い」などとうるさいので、店に出てきたときにはシャッターだけは上げている。
 そんな状態だったから、誰かが勘違いして入ろうとしているのか、と史朗は店に向かった。今度、休業中の看板を立てた方がいいかもしれない。
 店に行くと、ドアの前には疲れた風情のサラリーマンがいた。まだ年は若そうだ。二十代後半か三十代――史朗から見ればお兄さん、という感じだった。ひょろりとしたひ弱そうな男は、どこにでもいそうな背広姿をしていたが、その腕に大きな招き猫を抱えていた。立派な赤ん坊ほどの大きさだ。
 男はガラス越しにぺこりと頭を下げてきた。史朗も反射的にそれに応えて頭を下げた。それから、ドアを開けた。
「ああ良かった。ずっと閉まっていたから、辞めてしまったのかと心配していたんです」
 言葉とは違い、笑う顔は晴れやかとは言い難かった。ただただ、疲れがにじみ出ている。
「いえ、あの、ちょっと今、お店は休みなんです」
 史朗がここを譲り受けてから、一度も店を開けたことはないのだから、辞めてしまったと言った方が相応しいかもしれない。休みと言ってはみたものの、営業再開の予定は全くない。
「そうなんですか……」
 はあ、と盛大な溜息を吐いて意気消沈した様子を見せられると、史朗も無碍に追い返せなくなってしまう。
「あの、何か探してたんですか」
「いえ、そうじゃないんです。申し訳ないことに、こちらの御商売とはあまり関係ないというか、あると言うか……」
 なんだか要領をえない。史朗は「はあ」と気の抜けた返事をした。
「その、相談事がありまして。この招き猫のことなんですが」
 そう言って、サラリーマンは抱えていた猫の置物を両手で捧げるようにした。やはり大きい。ただ、大きいだけで絵柄などは良く見る普通の招き猫だった。ぱっちりした目に、赤い首輪、金色の小判を持っている。もちろん、片手を挙げている。この招き猫が挙げているのは右手だ。
 男はその置物を怖々持っていた。大事なものを扱っている手つきだが、大切に愛しんでいるというより、爆弾のような何か危ないものを持っている感じだった。
「あの、とりあえず入りませんか。俺じゃあ相談には、のれないと思いますけど……」
 史朗がそう言うと、店のあちこちから小さく呆れたような溜息が聞こえた。


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