椿古道具屋 第一話
懐中時計の神さま 11
客間は、すっかり片付けられて、布団まで敷いてあった。ただし、一組だけである。史朗は一瞬、眩暈に似た感触を味わったが、小さく首を振って、いやそうじゃない、とポジティブに考えることにした。もともと、客間には布団は一組しかなかったのだ。
凪は石油ストーブに近い場所に坐っていた。足を伸ばして柱に寄りかかり、本を読んでいる。盗み見た表紙には、「ケインズ理論」の文字があった。史朗には、何の本なのかさっぱりわからなかった。
「布団、わかったんだ。良かったよ。じゃあ俺はじーちゃんが寝てた部屋で寝るから」
史朗は踵を返して、逃げ出すように部屋をでようとした。だが、その腕を掴まれる。振り向いた先には、凪の少々いじわるそうな、微笑があった。
「開けてると、寒いんだけど」
「え、あ、うん。だから、えーと、おやすみっ。俺はあっちで寝る――」
すっと腕を引かれ、史朗はいとも簡単に、布団の上に転がされた。凪は襖を閉め、振り返ると、史朗を上からじっと見つめた。
「凪……。さっきのはさ、冗談だろ? おまえ、疲れてるんだよ。ほんと、色々あったし、やったよな。おまえのおかげだよ。ありがとう。だからさ、もう寝た方が――」
突然、唇が塞がれた。背中が震えた。それが嫌悪なのか快楽なのか、史朗にはわからなかった。確かめる前に、突然押し付けられた唇は、同じように突然、離れていった。
「うるさいよ、史朗」
今度は、ゆっくり唇が重なる。柔らかくて熱い。やがて舌が咥内に入り込んできたとき、史朗はようやく、きつく目を閉じた。精一杯反抗するためだ。だが、肩口に手を置いて押し退けようとしても、凪はびくともしないし、足を振り上げようと思っても、しっかり動きを封じられてしまっていた。そういえば、凪は武道一般をやっていたのだった、と史朗は絶望に近い気持ちで思い出す。
それでももがいていると、「観念しろ」と囁かれた。それで唇が外れたと気付き、史朗は荒い呼吸を繰り返す。だが、首筋の薄い場所を舐められて、「んっ」と鼻に掛かった声を上げてしまった。同時に、背中をぞくぞくと這い上がっていくものがあり、先刻の悪寒めいたものは、快楽だったのだと気付いてしまう。
「凪……本当に、駄目だって。俺、準備もしてないし」
「準備?」
しまった、と史朗は口を押さえた。箱枕様が事前にするべきだと言った準備を、史朗はもちろんやらなかった。できるわけがなかった。だが、そんなことを言うなんて薮蛇に近い。
案の定、凪は「へえ」と面白そうな顔をした。
「史朗、男同士がどうやってやるとか、知ってんだ」
ぶんぶんと首を横に振ってみたが、今更だ。凪はすっかり、やる気になっている。
いつの間にか、浴衣の帯は解かれていた。前を肌蹴られて、いやだと肩を押して見ると、今度は案外簡単に凪は押された。途端、胸を舐められる。押されたわけではなく、凪自ら身を引いただけだった。
「あ……っ」
片方の胸の突起は舐められ、もう片方は指で摘まれたり押されたりして、史朗は身を捩った。頭の奥が痺れていくようだ。こんなのは絶対におかしい――そう思うのに、史朗の身体は正直で、浴衣の下の一物は、既に立ち上がりかけていた。
恥かしかった。それに、嫌だと思っているのに反応している自分がひどく浅ましく思えて、史朗は泣きたいような気持ちになった。
「凪、いやだ」
呟いた声は弱々しく、史朗の情けなさに拍車をかけた。凪は身体を起こしたが、その手はまだ、史朗を押さえたままだった。一瞬、その手に力が込められた。
「ごめん、史朗――」
え? と思ったときには、凪はまた胸に顔を埋め、立ち上がりかけた史朗自身をゆるやかに握ったのがわかった。
「下着、穿いてないんだな」
「だって、なかった、から」
どこか嬉しそうな凪の声が、ひどく恥かしかった。その凪の手が、上下に動いた。史朗は堪らず、声を上げた。他人に股間のものを触られたことなどない。だがそれがあまりに気持ち良く、頭は朦朧としてきていた。昼間の出来事で興奮したのは、凪だけではない。そのときから静かに燻っていた火種が、小さく灯ったようだった。
凪はその史朗の耳に、口を寄せた。
「もう我慢できない。今までは、なんとか色々誤魔化してこれたのに、今日は無理だ。史朗が欲しい」
頼むから、助けてくれ――。口には出されなかったが、凪がそう懇願したような気が、史朗にはした。朦朧としていたから、ただの願望だったかもしれない。それでも、いつも不遜な態度の凪が、ずいぶん切ない顔で頼みごとをした――それだけで、史朗は諦めてしまおうかと思った。
――この坊主の命も危ねえ。
弟そば猪口様は、そう言っていた。もし、神様が望んでいるのだったら、史朗は身を捧げるべきなのだ。そうしなければ、凪の命に危険が及ぶかもしれない。だから凪は気弱に、「ごめん」なんて、決して普段の凪からは想像もできない言葉を吐いて、切なげな顔をしたのだ。
だったら、我慢しようか――。
凪はゆっくりと手を動かし、執拗に胸を責めていた。どんどん何も考えられなくなる。史朗は目を閉じ、ずっと押し返すようにしていた、凪の肩から手を離した。ぱたり、と布団の上に手がだらしなく落ちた。
凪の唇は、史朗の全身をくまなく探った。そうしている間に、史朗の後ろも探ってくる。周りに何か、塗り込められるような感触があった。べとべととした何かを指に塗っている。「軟膏ですとか、香油ですとか、何かこう、潤滑になるものがあった方がいいようです」と真剣にアドバイスをしてくれた箱枕様の言葉を思い出す。凪はそれを知っていたのだろうか……そもそも、男同士のセックスの仕方を、どうして知っているんだろう、このクリームのようなものは、どこから見つけ出してきたんだろう……史朗のその疑問はでも、すぐに消えていった。むずむずとした感覚が下半身を襲い、声も殺せないほどに気持ち良くなってきたからだ。「もう、駄目だ」そう言おうとしたところで、ふいにつぷりと指が中に入ってきて、息を飲んだ。
凪は、弄っている前の手も止めない。先端の括れを揉み扱くように、手を動かしている。その気持ち良さと、後ろを弄る指の違和感がごちゃまぜになって、史朗はわけがわからなくなっていった。
粘着質な音が、部屋に響いていた。ストーブの上の薬缶が立てる音と、史朗の喘ぎ声がそれに混ざる。まるで自分の意志を無視して出てくる甘い声に、史朗は自分の耳を塞ぎたくなる。
「凪、もう……やだ。ね……いかせて」
甘くねだるような声が出た。だが、史朗はもう、構っていられなかった。凪は、史朗がいきそうになると、きゅっと握り、迸りそうになる激情を堰き止める。何度もそんなことをされて、史朗はもう気が狂いそうだった。そうやって堰き止められている間も、後ろを弄る手は止まらない。もう、最初の気持ち悪さはなくなっていた。それどころか、だんだんに快感を覚えてきて、それがいつのまにか三本になっていることにも、史朗は気付かなかった。
胸元を舐められて、背中がびくびくとする。だが、やはり解放されることはなかった。
「お願い、だから――」
懇願の声を振り絞ったとき、史朗の耳に、自分の名を呼ぶ凪の声が聞こえた。その熱っぽさに、思わず目を開いた、そのとき。一瞬、空洞を感じた。だがそれはすぐに熱い塊に埋められ、史朗は叫んでいた。
指とは比べ物にならないほど、熱くて質量のあるものが、自分の中にいた。
凪はしばらく、じっとしていた。史朗の耳元に、その凪の荒く熱い息が吹きつけられていた。ぎりっ、と歯を食いしばるような音も聞こえた気がして、史朗は衝撃で閉じていた目を開けた。
凪は、目を閉じ、眉根を寄せ、唇を噛み締めて、懸命に痛みに耐えるような顔をしていた。痛いのは自分のはずだ、と史朗は思ったが、あれこれと風呂場で想像したより、痛みはなかった。凪のいつも冷静沈着な顔には、汗が光っていた。
史朗がそっとその頬に手を伸ばすと、凪が目を開けた。自然に、唇が重なった。
「動くぞ」
囁かれて、頷く間もなく、史朗はまた激流に翻弄された。凪は衝撃に萎えかけた史朗をまた手の中に納め、今度は激しく扱いた。
史朗の頭は沸騰しそうだった。熱が、下半身のその一点に集まる。無意識に凪の腕を掴んでいた。その力は食い込むほどだったたが、史朗はそんなことを気にしていられなかった。わけのわからない気持ち良さが、背中を駆け上がっていく。
ふいに、史朗は息を詰めた。背中が浮いて、びくびくと、身体が震える。
ようやく、許される。その開放感と気持ち良さに、史朗は声を上げていた。と同時に、その身の内に、熱い迸りを受け止めていた。
「しろ、起きて」
「起きて」
「起きて」
まるで歌うような声がする。少し高くて、軽やかな、小鳥のような声が、「起きて、起きて」と史朗の周りで囀っている。こんな目覚まし時計など持っていない――そう思いながら、史朗は目を開けた。十個の目が、上から覗き込んでいた。
「わあっ」
飛び上がるように上半身を起こしたら、全身がぴきっとばかりに攣ったようになって、史朗は再び枕に突っ伏した。
「しろ? どした?」
「どした?」
五つ子様は木霊のように声を上げる。幸いなことに二日酔いを知らない史朗は、それに悩むようなことにはならなかったが、身体の方は散々だった。変なところが、筋肉痛になっている。
――夢じゃなかった、ってことか。
そろそろと起き上がる。尻のあらぬところが痛いのも、昨夜のことが現実だったのだと教えてくれている。史朗は「はあ」と長い溜息を吐いた。
一度果てた後は、もうどろどろだった。凪は何度も史朗を攻め立て、史朗は覚えていないほど、何度もいかされた。それも、後ろ向きやら跨ってやら――とにかく、色々な格好で。筋肉痛の原因は、その様々な体位のせいだ。
ふいに昨夜のあれこれを思い出した史朗は、かあっと顔を赤くした。覚えているのは断片的なもので、最後は全然覚えていない。見渡してみれば、客間ではなくその隣の和室で寝ているし、布団もシーツも、浴衣さえ新しいものだった。ふと違和感を感じて、布団の下の下半身を見たら、下着はつけていなかった。
静かな和室に、再び長い溜息が響いた。色々想像すると、情けないことになりそうで、史朗は首をふるふると横に振った。
「しろ、起きた?」
「ああ、起きたよ」
「がっこ」
「がっこ行くんでしょ?」
「あーっ。今、何時?」
便利水様の一人が、携帯電話を両手で捧げ持つようにして運んできてくれた。枕元にあったらしい。これも、凪だろうか。
「八時……良かった、間に合う」
これが家だとぎりぎりだが、ここからなら自転車で五分だ。
「ごはん、できてるよ」
「ごはんごはんー」と叫びながら、五つ子様たちはぱたぱたと走って行ってしまった。史朗もなんとか起き上がり、客間に行く。そこでは、既に凪が朝食をとっていた。
「はよ」
顔が合わせ辛い。史朗は下を向いたまま、小さく挨拶をした。凪からも「おはよう」の一言しか返ってこなかった。まあ、もとから無口なわけだけれども。
「おまえ、学校間に合うのか?」
「俺は八時四十五分の始業だからな」
けっ、私立はいいねえ、と史朗は毒づきながら、目の前の純和風な朝食に舌鼓を打った。だが、のんびりはしてられない。凪はもうしっかり制服を着ているが、史朗はまだ着替えていないのだ。
「制服っ!」
思わず茶碗と箸を持ったまま、史朗は立ち上がった。このときになってようやく、史朗は自分は制服を家に取りに行かなければならないことに気付いた。凪と違って、昨日は私服で動き回っていたのだ。
「間に合わない……」
別に、無遅刻無欠席を目指しているわけではない。だが、今まで、史朗は遅刻はもちろん、欠席だってしてこなかったのだ。悔しいのは確かだ。
呆然としている史朗の足元に、どさりと紙袋が投げられた。方角からいって、どうやら凪が投げたらしい。立ったまま中を覗くと、史朗の制服が入っているのが見えた。
「これ……」
「朝のジョギングついでに、家まで行ってきた。自転車も表に停めてある」
そういえば、自転車だってなかったのだ。今の体調で歩くのはとても辛い。果たして自転車も乗れるのか、多大な不安はあるが。
「史朗、朝から大胆だな。昨日の続き、したいのか」
凪がにやりと笑う。見上げるように見ている先は、ちょうど史朗の股間の辺りだった。史朗はまだ、下着を穿いていない。
「ばっ、馬鹿なこと言ってんじゃねーよ」
全く、一体誰の所為だと思ってるんだ。史朗は赤くなりながらも、浴衣の前を合わせ、紙袋を漁った。下着も入っている。母親にどう言って持ってきたのか知らないが、深くは考えないことにした。また頭が沸騰してしまいそうだった。
一つ息を吐いて、沢庵をぽりぽりと食べた。油揚げと葱のみそ汁を飲みながら、ちらりと凪を見る。その顔を見て、たぶんこれは、昨夜のお詫びなのだ、と史朗は結論付けた。
お礼を言おうと口を開きかけたところで、先に食べ終わった凪が立ち上がった。
「おばさんが、初めての朝帰りかと思ったのに、帰ってもこないって残念がってたぞ。思いっきり、からかってやろうと思ってたって」
そう言えば、昨晩は家に連絡するのも忘れた。散々な夜だった、と史朗は独りごちる。だが、襖に手をかけて、廊下にでかかった凪はしっかりと聞いていたようだ。
「そうか? 十分、楽しんでたじゃないか」
凄く良さそうだったけど。しれっとそんなことを言う幼なじみを、史朗は呆然と見た。どの口がそんなことを言うんだ! と叫びたかったが、わなわなと口が震えて声が出なかった。
耳の先まで真っ赤にして、硬直したように固まっている史朗を見て、凪は顔を隠すようにしてくすりと笑った。意地の悪そうな顔だねえ、と神様たちなら言うに違いない。
「あぁもう、早く行け!」
史朗は叫んだ。これ以上話をしていたら、とんでもないことを言われそうな気がしたのだ。凪ならきっと、普段の無口さが嘘のように、昨晩の様子を事細かに言って、史朗の反応を楽しむだろう。
――もう、絶対、二度と、やらない。
楽しそうに出て行く凪の背中を見ながら、史朗は心の中でそう誓った。
もちろん、「神に誓う」とは、さすがに言えなかった。
第一話 了