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椿古道具屋 第一話

懐中時計の神さま 03


 幼い頃から今に至るまで、史朗は祖父の虎之助のことが、決して嫌いではなかった。だが、隣町に住んでいると言うのに、この家を訪れることがなくなったのは、一体いつの頃のことからだろう。祖父と会うときは、彼が史朗の家に来るか、どこかに出かけるか――思い出に、この家がない。
 史朗は和室に掃除機をかけながら――この家には、掃除機と言うものはなかったので、母に言って買って貰ったのだ――先週のことを思い出していた。「神様」と名乗った人々は、夜通し飲めや歌えやの宴会をして、新しい主だという史朗を歓迎してくれた。おかげで史朗は、ここに泊まるはめになったのだ。幸い放任主義の両親は「掃除したら疲れた」と電話した史朗に「あら、帰って来ないなら、私たちはデートでもしようかしら」と返してくれた。
 その宴会のとき、一人の神様が、「お懐かしゅう」と手を握ってきた。茶箪笥の神様だそうで、小柄な、真面目そうな顔をした神様で、時代劇に出てくる番頭さんのような雰囲気だった。その神様が言うには、史朗が幼い頃、会ったことがあるのだという。その当時の様子を聞いていると、史朗にも、おぼろげながら、怖くて泣いている小さい自分の姿が思い出された。
 そう、確か、怖かったのだ。
 祖父は好きだったのに、この家に来て店を見ていると、箪笥の引き出しが勝手に出たり引込んだり、椅子がカタカタ鳴ったり、風もないのに風鈴がちりりんっと音を立てたりしていて、怖かった。驚いて、どきどきしながら店の狭い通路を歩くと、今度はくすぐられたり、くすくすと耳元に笑い声を吹き込まれたりした。だが、振り向いても誰もいない。そして、後ろを向いた途端、がたんっと椅子が倒れたりするのだった。
 当時から臆病だった史朗には堪らなく、そのたびに祖父のところに泣いて逃げ込んだ。駆け込んでくる史朗をしっかりと抱きとめ、怖くないよ、と言った、祖父の困ったような表情も思い出した。「ちょっと悪戯が過ぎるようだけれど、別に怖くないよ。史朗と遊びたいだけだ」そう宥められたが、史朗は首を振って泣いていた。
 茶箪笥の神様の思い出話で、他の神様たちも史朗のことを思い出したようだった。「ああ、あの泣き虫小僧か!」と言われたのは不満だったが、事実だけに、史朗も何もいえなかった。
 それはずいぶん遠い話で、史朗はすっかり忘れていた。強烈な思い出だったはずなのに、「喉もと過ぎれば……」と忘れてしまうのは、ある意味史朗らしかった。
 史朗は家でも掃除などしない。母親に、毎日のように「片付けなさい!」と怒られている。畳の部屋の掃除など、だから少しもわからなくて、とりあえず掃除機を適当に動かしていると、あの五つ子のような子供の顔が、障子からひょこりとのぞいていた。
 彼らは「便利水の瓶の神様」なのだそうだ。店に行って手にとって見たその瓶は、透明(と言っても、気泡が入っていて現代のガラスのようにまっさらに透明ではなかった)で、確かに小さかった。形は結構いびつで、神様たちのおかっぱの髪がいやに斜めだったりするのは、その所為と思われた。便利水とは、陶器やガラスの接着剤だったらしい。だからいつも彼らはひっついているのかもしれない。
 どうしたの、と訊こうと思って史朗が掃除機を止めると、小さく「ごめんください」と声がした。どうやら客が来たようだ。史朗は慌てて店に向かった。
「すみません、店は今休業中で……」
 店と客間を隔てる襖を開けると、そこには、真っ黒の長い髪に、白い肌、華奢な身体を薄い緑のワンピースに包んだ、美少女がいた。
「あの……」
「突然申し訳ございません。お店、お休みなんですか?」
 はい、とも、いいえ、とも言えず、史朗はその少女に見惚れていた。赤い唇に、大きな目。長い睫が、目の下に僅かな影を落としていて、憂いを添えていた。これぞ理想のお嬢様だ。
「坊や、お客さんじゃないの? しっかりおし」
 ふいに囁いてきたのは、糸巻きの神様だ。木の軸で作られた、白い木綿糸が巻かれた糸巻きだった。
「あ、いえ、あの、休みというかなんというか……」
 しどろもどろの史朗に、少女は残念そうに溜息を吐いた。
「あの、どんなご用件でしょうか? 何か探しものでも?」
 思わず訊いた史朗に、縋るように少女が手を差し出した。その白くて細い手には、細工の美しい、銀色の懐中時計が乗っていた。
「綺麗な時計ですね」
 そっと持ち上げると、思ったよりずしりと来る時計だった。側面の突起を押すと、ぱちんっと蓋が開いた。
「私の祖父のものだったのですけれど、止まってしまって……。直していただけないかと思って参りました」
「時計を?」
 確かに、針は止まっていた。五時ぴったり。どうやら手巻きのようだが、螺子を巻いてみても、秒針はぴくりとも動かなかった。
「でも、時計屋じゃないし……」
「ええ、わかっています。時計屋さんにも、宝飾店にも持っていったんです。でも、壊れていないって言われてしまって……。それでも動かないのだから、寿命じゃないかとまで言われたんです」
 プロが駄目なら、史朗の手に負えるはずがなかった。
「それで、なぜうちに?」
「以前、祖父が話していたのを聞いたことがあったんです。水穂町の椿屋さんに、一度直してもらったことがあると」
 それは、祖父の虎之助のことだろう。じいちゃんは時計も直せたのか、と史朗は今更ながら感心した。
「それ、俺のじいちゃんだと思います。でも、じいちゃん、先月死んじゃって……」
 まあ、と少女は口を手で覆った。それから、痛ましそうな目でお悔やみを述べられ、史朗も頭を下げた。
「それでは、諦めるしかないようですね……」
 明らかに肩を落とした様子に、史朗の胸も落ち着かない。できることなら手助けしたいのだ。だが、時計の修理ではあまりに門外漢だ。
「史朗や」
 そこにぬっと現われたのは、織部の茶碗の神様だった。もちろん、少女にはその姿は見えていないはずで、史朗は危く上げそうになった声を慌てて呑み込んだ。
「ちょっと気になることがあるでのう、その時計を預かることにせんか」
 いきなりのことに、史朗は慌てて、「ちょっと待っててください、すみません」と奥に引込んだ。客間に入ると、閉じた襖を通り抜けて、織部の神様を始め、そば猪口の神様、茶箪笥の神様、糸巻きの神様たちが入ってきた。
「なんですか。どうしたんですか突然」
 奥に入ってきたと言っても、襖一枚隔てただけである。史朗は声を抑えて神様たちに訊いた。
「説明はあとじゃ。ともかく、あの時計を預かっておきなさい」
「あとって……うち、時計屋じゃないんですよ? 預かっておいて、やっぱり無理でした、なんて嫌です」
「私も茶碗さまに賛成だね。あの時計、なんかおかしいよ」
 神様たちは、一様にうんうん、と頷いている。腐っても神様だ。ここは言うことを聞くべきか――悩む史朗を、ほら帰っちまうぞ、とそば猪口様が急きたてた。史朗は腹を括り、とにかくその時計を預かってみることにした。もちろん気弱な史朗は、何度も「無駄だったらすみません」と前もって頭を下げたのだった。


 少女の名を、桐原千織といった。聖アンヌ女学院高等科二年だそうで、近隣の男子高校生憧れの高校の名に、史朗は舞い上がった。
「いつの時代も、男っていうのは変わんないね」
 呆れたように言ったのはかんざし様だ。千織にずいぶん対抗意識を燃やしているらしい。「あの清純ですって面が気に食わない」などと言っている。
 千織が帰った後、史朗と神様たちは客間に集まった。どこからか、お茶とお菓子も出てくる。
「まあ、ともかくもこの時計だよ。史朗、何か感じないかね」
 織部様――本当は茶碗様なのだが、本人たっての希望でこう呼ぶことになった――に聞かれて、史朗は首を傾げた。もう一度、手にとって見る。蓋には蔦のような細かい装飾がしてあり、それと同じような装飾が、中の長針と短針にも見える。近くで見れば見るほど、精巧な作りだ。
「さあ……。綺麗な時計だなってくらいで。あ、あと高そう」
 神様たちが目を合わせ、首を振っている。どうやらその答えは、お気に召さなかったらしい。
「おかしいねえ。坊や、本当に何も感じないんだね?」
 糸巻き様に念を押されて、史朗は素直に頷いた。そうしたら、今度は溜息があちこちで漏れた。
「どういうことなんでしょう、骨壷様」
 骨壷様は、この中で一番の長老なのだそうだ。なんとも縁起の悪い名前だが、本人がそう言っているので仕方がない。外見は、普通の青磁の壷に見えるのだが、最初の目的が骨壷だったらしい。
 骨壷様は、「ふむ」と一言いったきり、しばらく考えていた。そして徐に、自分たちはどんな風に見えているのか、と史朗に尋ねた。
「どんな風と言われても……。普通です。ちょっと古めかしい格好をした人たちって感じ」
 多少おかしなところはあるにしろ、ぱっと見たところは、みんな人間と変わらない。骨壷様は、今度は頷きながら「ふむ」と言った。
「ところで史朗殿。史朗殿は、椿屋の品物の、どれが我らのように出てくるかわかるかの」
 史朗は「へ?」と間抜けな声を上げた。
「これで全員じゃないの? まだいるの?」
 驚いている史朗に、神様たちの方が驚いていた。骨壷様は一人、納得したのかように小さく何度も頷いた。
「つまり、史朗殿には、御霊(みたま)は見えないとお見受けする」
 ええ? と声が上がる。「我らが見えるのに、御霊が見えないなんてあるのか」と誰かが呟いた。
「あまり聞かない話ではあるな。御霊は見えるが、我らの姿は捕えられないという輩なら大勢いるがの」
「じゃあ、史朗さまは『神遣い』じゃないの?」
「我らは見える、となると、違うとは言い切れん。だが、『神遣い』は『神馴らし』ができるからそう呼ばれるからのう……」
「かみならし?」
 聞きなれない言葉ばかりに史朗が首を傾げると、菖蒲柄のそば猪口様が説明してくれた。荒っぽい口調の市松柄のそば猪口様とは、兄弟らしい。こちらは同性でさえも見惚れてしまいそうな美丈夫だが、市松様と比べると、ずっと親しみやすい雰囲気だ。
「私たちには和魂と荒魂というのがあってね。人に害をもたらすのが、荒魂と呼ばれている。まあ、人間が勝手なことをするから怒るわけだけれど、ときどき、和魂をなくして、荒魂に支配されてしまう者もいる」
 まあでも、怒らせた人間が悪いんだけど、と隣に坐るかんざし様は煙管を手に、紫煙を吐き出した。
「そうですけどねえ。ま、それで、荒ぶるばかりになってしまった魂を静めることを、『神馴らし』と言っているわけだ。そしてその神馴らしができる人間を、神遣いと呼んでいる」
「御霊が見えないとできないというのは?」
「その御霊を鎮めるからだよ。見える、というのは少々違うかな。御霊がそこにあると感じるというか……とにかく、そこに「在る」ことがわからないと駄目なんだよ」
 だが、史朗にはそれがわからないのだと神様たちは言う。
「どうしてわかるんですか?」
 その問いに、これじゃこれ、と織部様が懐中時計をさす。
「一度神が宿って、なんらかの理由でそこから離れた場合、わかるもんなんじゃ。姿は見えずとも、いや、だから余計に、そこにぽっかり穴が空いてるようにな」
 史朗はじっと時計を見てみたが、穴などもちろん、空いていなかった。
「神馴らしには、その魂を感じる力は絶対に必要じゃ。それともう一つ、あの子らの反応も証拠じゃ」
 突然指差されて、便利水様たちは首を傾げた。
「ああ、そういえば、史朗さまを怖がっていませんね」
「あの虎之助さまでさえ、慣れるまで三月はかかりましたものね」
 おまえたち、史朗は怖くない? と菖蒲柄のそば猪口様に訊かれて、便利水様たちはちょこちょこと、今度は反対側に首を傾げた。
「怖くない」
「しろは怖くない」
「しろは優しい」
 「しろ」とは自分のことだろうか。まるで犬か猫だとがっくりきたが、にこにこ笑う五つ子を見ていると、史朗もつい笑ってしまう。
「神馴らしは、荒魂を静めると言っても、何しろ「神を馴らす」わけじゃ。わしらは誰でも荒魂を持っておる。いつ馴らされることになるかわからないんじゃよ。だから、この子らが怯えるのも無理がないんじゃ」
 そしてつまり、彼らが怯えていないということは、史朗には『神馴らし』はできないということなのだ。
「でもそうしたら、あの子はどうするんだい?」
 かんざし様が、しどけなく寝転びながら言う。
「時計様は、あの子に憑いてたよ。ひっそり隠れていたけどね。神馴らしができないんじゃ、魂を返せないんだよねえ? あのままじゃ、あの子の命はないんじゃないかねえ」
 のんびりした口調だった。だが、言われた言葉に史朗はぎょっとして、まじまじとその赤い唇を見つめた。


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