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椿古道具屋 第二話

少年の神さま 02


 男は手嶋和利(てじま・かずとし)と名乗った。渡された名刺を見ると、すぐ近くにオフィスを構える、不動産会社の営業マンだった。一瞬、名刺を持った手が固まった。ここを売れ、なんて言われたらどうしようと思ったからだ。
「あ、相談事というのは、本当にこの招き猫のことなんです。仕事は関係ありませんから」
 手嶋は慌てたようにそう言った。招き猫は、今はちゃぶ台の上に鎮座している。ようやく猫が手から離れて、手嶋は心なしかほっとしているようだった。
 史朗が手嶋を通したのは、店から上がれる客間だ。小さなちゃぶ台しかない、殺風景な客間だが、床の間には季節に合わせた掛け軸が飾られ、花も活けてある。もちろん、全て神さまたちがやっていることだ。先刻まではここに便利水さまたちが寝ころんでいたはずだが、いつの間にか店に戻ったらしい。
「あの、この招き猫が相談事というのは?」
 例によって、台所に行くと用意されていたお茶をちゃぶ台の上に置く。手で「どうぞ」と勧めると、手嶋は礼儀正しく頭を下げて、そのお茶を飲んだ。
「……美味しいですね」
 言われて、史朗は曖昧に頭を下げる。淹れたのはきっと糸巻き様だ。「美味しいのは当たり前です」と大きな胸を反らしている姿が思い浮かぶ。
「私は普段、コーヒー党なんです。会社のお茶は美味しくないですし、自分で淹れてもこんなに上手には淹れられない。ですがこうして美味しいお茶を飲むと、やはり良いものだとしみじみします」
 手嶋はそう言って、また一口お茶を飲んだ。濃紺の地の茶碗には、一足早い桜が咲いている。
 史朗もお茶を飲んで、ちらりと卓上の招き猫を見た。小さなちゃぶ台の三分の一を占める大きさで、圧迫感がある。
「あ、すみません、関係ない話をしてしまって……」
 手嶋はそう言いつつも、なかなか話しだそうとしなかった。それでも、お茶を最後まで飲んでしまうと、思い切ったように口を開いた。
「実はですね、私の同僚に江藤と言うものがいまして、なかなか見栄えのいい男でしてね。私と同年代なんですが、一昨年若い嫁さんを貰ったんですよ。当時、高校を卒業したばかりの嫁さんです。正直、少しばかり羨ましい気がしましたね。まあ、苦労もあるとは想像できましたが……」
 そこまで言ってから、手嶋ははっと気付いたように「すみません、また関係ないことを……」と頭を下げた。
 史朗は「全然」と首を振り、お茶のお代わりを淹れた。先ほどよりは味が落ちるだろうが仕方がない。糸巻き様に言われたことを思い出しながら、丁寧に淹れる。
 実は少しばかり、史朗はこの手嶋を気に入り始めていた。大人なのに正直だし、何しろ史朗を子供扱いしない。最初の自己紹介の時に、高校生だと言ってある。それでも、手嶋の話し方は、決して子供相手に見下すようなところはなかった。
「その江藤と言うのがですね、若い嫁さんのことで、以前こちらでお世話になったそうなんです」
 もちろん、史朗は知らない。それは亡くなった祖父のことだろうと言うと、「そうですか、亡くなったんですか……」と手嶋は肩を落としてお悔やみを述べた。
「それで、祖父はどんな相談にのったんですか? なんだかその、祖父とそのお二人が結びつかないというか……」
「ええ、たまたま前を通りかかったらしいです。そのときはもう、奥さんがちょっとこう、おかしくなっていたというかなんというか……。他人の家のことですからあまり詳しく言えませんが、少し精神的に参ってしまっていた感じだったんです」
 手嶋はそこで、何かを思い出したかのように大きくため息を吐いた。
「まあそれで、会社の方にまで奥さんが来ることがありましてね。江藤が連れて帰ろうとして、この前を通りかかったそうです。あれはちょっと傍目に見ると、喧嘩しているというか、江藤がかなり無理やり引っ張っている感じと言うか。誤解を受けやすい感じでしてね。江藤もかなり参っていた頃ですから、暴力的だったとも言えます」
 同じ男だからだろうか。その目には同情の色が浮かんでいた。まだ結婚など遠い未来の史朗には、良く分からない。どんな理由があるにしろ、女に手をあげるなんていうのはサイテーだ、と思っているからだ。
「それでたぶん、こちらの椿屋さんが声を掛けたのではないでしょうか。そしたらですね」
 それまで滑らかだった手嶋の口が、急に鈍くなった。何度かお茶を飲む。
「その、奥さんには何かが憑いている、とおっしゃられたそうです」
 史朗はようやく、祖父がどんな世話をしたのか納得した。だが、手嶋は自分で言いながら、その言葉を発することを恥じているようだった。
「こう言っては失礼ですが、江藤も最初は、何を馬鹿なことを言っているんだ、と思ったそうです。すごく苛々してもいたようで、怒鳴ってしまったと言っていました。まあ、結婚そのものがそれほど歓迎されたものでもなかったようですからね。自分より十も下の嫁、それもつい先日まで高校生だった若い子を貰うって言うんですから、双方のご両親共々、あまり良い顔はしなかったようです。それでも結婚して、一年ほどでしたか。それで奥さんが精神的にきてしまったでしょう? 周りもかなり煩かったみたいで……」
 結婚って大変なんだな、と史朗は思った。自分の両親もいとこたちの家も、どこもそこそこ幸せそうだから、家との確執なんていうのは実感がわかない。
 ああでも、凪ならわかるかもな、と史朗はあの無表情を思い浮かべた。詳しいことは知らないが、確か凪の家も、家のことなど色々あって離婚している。
「その奥さんが精神的に参ってしまったというのは、ご両親とのことが原因で?」
「いえいえ。もともと、ご両親の反対を押し切ってでも結婚する、駆け落ちしたっていい、なんて言っていたそうですからね。江藤は自分よりよっぽど強いと言っていましたよ。ご両親からの小言の電話なんかも、平気で無視したりできるって」
「じゃあ――?」
「それが問題だったんです。江藤は全然、心当たりがなかったそうなんです。それなのに、日に日に可愛い嫁さんがおかしくなっていく。病院なんかにも行ったそうですが、良くならないし、医者の前ではだんまりを決め込んでいたらしく、困り果てていたんです」
 話はまだ招き猫につながらない。それでも、祖父が神馴らしに関わったらしき事件は、是非とも聞いておきたいと史朗は思った。
「そんなときに、うちのじいちゃんと会った?」
「はい。江藤は怒鳴り返されたそうですよ。『おまえがそうやって自分の目に見えることしか信じずにいるうちに、どんどん奥さんは弱っていく。手遅れになってからじゃ遅いんじゃ!』ってね。江藤も困り果てていたときですから、半分やけくそで、椿屋さんの話を聞くことにしたんだそうです」
 祖父の怒鳴り声が、懐かしく思い出された。あれは本当に雷のようで、今思い出しても首を竦めてしまいそうになる。
「それで、何か憑いていたんですか?」
「……ええ、江藤の話では。何でも半年前に買った、アンティークのクマのぬいぐるみが原因だったそうです。あれ、何と言うのでしたっけ? テ……テディベア、そう、テディベアです。なんでも、古いものの中には大変な価値があるものもあるそうですね」
 ここは古道具屋だ、したり顔で頷くべきかと思ったが、史朗は目の前の正直な大人を見習って、そうなんですか? と素直に首を傾げた。
「そうらしいですよ。その奥さんが自分でも作ったりしていて、凝っていたようです。で、そのクマのぬいぐるみが、奥さんのお腹の中の赤ちゃんに嫉妬した結果だという話です」
「じゃあ、赤ちゃんが?」
「いたんですよ。でも、本人たちもまだ気付いていなかったんです。言われて半信半疑で病院に行ったら、妊娠二か月目だったそうですから。そしておかしくなり始めた頃が、ちょうど命が宿ったときだった。奥さんがそんな状態ですからね。旦那の方なんて、子供ができたかどうかなんてわかりませんよ」
 それで江藤はおじいさんの話を信じたんです、と手嶋は続けた。
「その上、お祓いって言うんですか? やってくださったそうで。ずいぶん変わった方法だったみたいですが、その後すぐ、奥さんは夢から覚めたみたいに元の奥さんに戻ったそうです。どうしたの? ってにっこり笑いかけられたときには、さすがに江藤も涙が零れそうだったと言っていました」
「あの、赤ちゃんは……?」
「ええ、そちらも元気に生まれて、今はいたずら盛りみたいです。そりゃあ、可愛い子ですよ」
 手嶋の目が優しく細められた。なんとなく、父親の顔だな、と思う。
「いけない、また話がずれてしまいますね。まあ、江藤の話も長い前振りなんですが……。それでですね、うちもその招き猫のお祓いをしてもらえないか、と思ってやってきたんです」
 ようやく招き猫に話が巡ってきた。史朗は再び、お茶を淹れた。
「お祓いということは、何かあったんですか?」
 手嶋はまた言い淀んだ。同僚と同じように藁をも掴む気持ちだったのかもしれないが、信じ切れているわけではないのだろう。
「はあ、まあ、似たような事と言いますか。うちは精神的なものではないんですが、原因不明の病気で、妻が入院しているんですよ。入院と言っても、こんこんと眠り続けているだけですけどね。どれだけ色々な病院で検査しても、何の病気かわからないんです。身体に異常はないのに、ただ眠り続けているんです」
 六畳間に大きなため息が響いた。鬱々とした空気が淀んでいるような気がしてくる。
「私にも一人、六歳になる息子がいるんですが、その世話と家内の病院通いとを続けるにも限界がありましてね。正直、困り果てているんです。それでもう、神にも縋る思いと言うか……。江藤の話を聞いて、そう言えばこの招き猫を貰ってきた頃から、家内の体調がおかしくなってきたと思い至って、こちらにお伺いしたんです」
 史朗は招き猫を見た。だがもちろん、魂が抜けているかどうかはわからない。自分の力というのはつくづく役に立たないと思い知らされる。
「でも、おじい様が亡くなられたのでは、お祓いもできませんね。もしかしたら椿さんもお祓いができる、なんてことは……」
 史朗は首を横に振った。できる人間は知っている。だが、それは自分ではない。
「そうですよね。まだお若いですし」
 そもそも、手嶋は人に何かが憑いている、なんてことは信じていない口ぶりだった。それでも意気消沈しているのは、本人が言うとおり、神にも縋る思いだったのだろう。
 神にも縋る――あながちできないことでもないかもしれない。史朗は横目で店とこの部屋を隔てる襖を見た。あの奥で、彼らはきっと二人の会話に聞き耳を立てているに違いない。何しろ神様たちというのは、無類の噂好きだ。
 彼らに訊けば、きっとこの招き猫のこともわかるだろう。史朗は肩を落として憔悴しきったような目の前の男を見た。
「あの、俺はお祓いとかできませんが、こういうことに詳しい人間を知ってます。それに、この招き猫が本当に原因かもわかりませんよね? だからとりあえず、うちに預けておいてみませんか」
「え、いいんですか」
「引き取ることはできないですが、一時的に預かるだけなら……」
 手嶋ががばりと頭を下げた。それから、お願いします、と切実な声で言った。


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