web electro index 01 02 * 04
□ibuki 03:http://recipe.electro.xx
とん、と降り立った瞬間、イブキは違和感に目を瞬かせた。足の裏の感触も、いつもより柔らかい。
思わず辺りを見渡すと、広い窓から夜景が見えた。遠くに、小さく光る観覧車がある。
――ホテル……?
洗練された家具は磨き上げられていて、テーブルにはシャンパンと思える瓶が冷えていた。ソファーやテーブルはあってもベッドは見えない。だが、この生活感の無さはホテル特有のものだった。
一体どこに来てしまったのか――あの男に呼ばれたのではなかったかと呆然としながら視線を動かすと、男はスーツを着崩した格好で、もう一つの部屋に続くドアに寄りかかっていた。少し、目元が赤い。酔っているのか――イブキは驚きに目を見開いた。
今まで、こんなことはなかった。スーツ姿を見たのも初めてなら、酔っているのを見るのも初めてだった。イブキが作る食事にあわせて酒を飲むこともあったが、どれだけ飲んでも、男はなかなか酔わなかった。一度は、日本酒の一升瓶を半分ほど空けたことがあって、それでも変わらない様子の男に、内心驚愕したこともある。
「あの……」
あまりの驚きに、いつもの挨拶も忘れて、イブキは恐る恐ると言った風に口を開いた。男がイブキを呼ぶときは、必ず料理を作らせ、抱いていたから、ホテルにいるところを呼び出された意味がわからない。さすがにここでは、料理は出来ない。
「何度も呼び出したのに、捕まらなかった」
ふらりと男がテーブルに向かって足を出した。酔ってはいるが、一応はまだ歩けるようだ。
「あ……今日は、ずっと忙しくて……」
何度も――。
では、イブキがあちこち行っている間、男はずっとイブキを呼び出していたのだろうか。こればかりはタイミングの問題もあるから、なかなか難しいのだが……。
男はテーブルに辿り着くと、細いグラスにシャンパンを注いだ。薄金色の液体に、小さな泡が立った。
グラスは、二つあった。
ああ、とイブキは思った。きっと、誰かと一緒に過ごすはずだったのだ。その相手が都合悪くなったのか――それとも振られたのか。とにかく一人になってしまった男は、イブキを呼び出したのだろう。
この豪華なホテルの部屋を予約していたことや、酔うほど酒を飲んでいたことを考えると、大切な相手だったに違いない。
この男でも、自棄になることなんてあるのか。
そう思ってでも、存外淋しがりやに違いない男のことを考えると、いい気味だとも思えなかった。
男は、グラスを二つとも満たした。それからグラスを差し出されて、イブキは硬直した。今まで、男と酒を飲んだことなどない。
「飲まないのか」
男の目が、イブキを真っ直ぐに見つめる。いつも睨むようにしか見られなかったから、こんな風に少し無防備に見つめられると、イブキはどうしていいのかわからなかった。
「……つまむものは何もないが」
男が少し困ったようにそう言って、イブキははっと自分が手に持っているものを見た。
「あの、これ、もし良かったら」
差し出した紙袋を見て、男がテーブルに出すように目で促した。イブキはテーブルに近寄って、ケーキを取り出す。男が動かないから、そのすぐ近くで体温を感じた。
――ああ、ちゃんと包んでくれば良かった。
夜勤組に持っていこうと思っていたから、ケーキは型に入ったまま、アルミホイルで蓋をしてあるだけだ。だが、男はそんなことは全く気にしていないようだった。アルミホイルを持ち上げて中を見ると、「お前が作ったのか」と訊いてきた。
はい、とイブキが答えると、男は近くのもう一つのテーブルから、フォークを持ってきた。ルームサービスで食事を取ったようだった。
一口、男がケーキを口に入れる。やはり表情は変わらない。だが、もう一口、さらにもう一口と、結局普通のパウンド型の三分の一ほどを食べた。
イブキは何故かひどく緊張して、その様子を見ていた。何度も食事を作ってきたのに、ときにはデザートとしてケーキだって作ったのに、心臓がどきどきして仕方がなかった。
――まるで、本当にバレンタインの贈り物みたいだ。
ふとそう思って、イブキは思わず時計を探した。時計はちょうど、十二時を回ったところだった。
本当に、プレゼントになってしまった……。
そう思うと、顔に血が昇った。男には何も言っていない。だが、紛れもなく、これはバレンタインの贈り物だ。
急に居たたまれなくなったイブキは、帰ろうと思った。とにかくもう、帰ろう、と。
だが、ぐいっとシャンパンを煽った男が顔を近づけてきて、イブキは条件反射のように目を閉じてしまった。流れ込んできた液体が、舌を刺激する。上手く飲み込めずに零れたシャンパンは、男の長く武骨な指が拭った。その指が唇に触れてきて、イブキは無意識に口を開けて、それを舐める。その指が離れたところで、男と目が合った。
泣きそうだ、とイブキは思った。
この男が欲しくて、泣き出しそうだ。
――その暗くて深い瞳を覗き込んでしまったときから、イブキはこの男に囚われていたのだ。
その情けない顔を見られたくなくて、今度はイブキから、男の唇を塞いだ。だが、力強い腕に抱かれて、イブキはもう駄目だと思った。
もう、誤魔化しようがなく、この男が好きだと思った。
体温の低い、冷たい手が肌を弄り始める。その冷たい目を裏切るように、男はいつでも優しくイブキを抱いた。イブキが快楽に泣かないときなど、なかった。
何度も、キスされた。
キスをされながら、いつのまにか、ベッドルームに来ていた。大きなベッドに、絡み合うように二人は転がった。
その上で、何度も男に貫かれながら、イブキは泣いた。過ぎた快楽に泣いているように自分をも錯覚させながら――泣いた。
男にとって、自分は料理を作ってくれる人間であり、性欲の捌け口でしかないのだろうそのことが、胸を衝いて仕方がなかった。
誰か大事な人間の代わりとして、ここにいる自分が、哀れだった。
それなのに、この男が好きでたまらないのが、哀しかった。
目を覚ましたときは、まだホテルのベッドにいた。時計を見ると、まだ朝の七時ごろだった。web electroでは、一人の客のところで十二時間が経つと強制的に引き戻される。男の元に来たのが真夜中直前だったから、まだ少し時間があった。
――あ、終了報告するの忘れた。
まあいい。帰ってから修正してもらおう。イブキはそう思いながら、そっと男の顔を見た。
いつ眠ったのか、覚えていない。だが、イブキは男の腕の中で眠っていた。今までは、これほど激しく抱き合ったことはない。気を失っても一瞬で、イブキは男の部屋に泊まったことはなかった。
そっと起き上がってみたイブキは、腰に痛みを感じて顔を顰めた。だが、身体はさっぱりしている。男が後始末をしてくれたのだろうか。
――そういうこと、してくれるから悪いんだ。
眠っている男の顔を見ながら、イブキは心中で悪態をついた。web electroのことを大して聞いていないこの男は、イブキをまるで人間じゃないとでも思っているのではないかと、ときどき思うことがあった。あれだけ不思議な検索サイトから出てくるのだから、そう思われてもおかしくない。ときどき、ロボット? と訊いて来る客もいる。
それなのに、男はイブキを優しく抱く。
言葉では決して何も言わないが、その手はイブキを安心させる。抱かれていると、まるで恋人ででもあるように大切にされていると錯覚するくらい、幸せな気分になるときがある。
だから――始末が悪い。
だから、哀しい。
イブキはゆっくり起き上がると、散らばっていた制服を着た。それから、ベッドに眠る男の顔を、もう一度、じっと見つめた。
忘れないように。決して、色あせたりなんてしないように、しっかりと、脳裏にその顔を焼きつけた。
「さようなら」
呟きは、掠れていた。男に届かなくてもよかった。
もとより、別れを告げるような関係ではなかったのだから――。
バレンタインデーの後、鈴野が再びイブキを呼び出してきて、なんとか上手く行った、と報告してくれた。「すげー美味しい」と部下に言わせただけでも満足だと、鈴野はもう一度イブキに礼をのべてきた。
「私はレシピを教えただけです。作ったのは鈴野さんだから」
そう言うと、でも一人じゃ駄目だったから、と鈴野は笑った。
まだ、すんなりと上手く関係を築けてはいないけれど、どんどん努力するつもり、と鈴野は言った。その顔は幸せそうで、イブキも嬉しくなった。
自分はもう、しばらく恋はしないだろう。そう思うと、他人の恋の成功は嬉しかった。
同じ、あのチョコレートケーキで、少なくとも一人は思いを告げられたのだ。
あれから、男はイブキを呼び出していない。二三日はよくあることだったし、イブキ自身がもう出ないと決めたから、却って都合が良かった。だが、まだ拒否リストに載せることはできなかった。
未練がましい――そう思っても、そう簡単に、繋がりは断てなかった。名前も知らないのだ。この繋がりがなくなったら、本当に、もしかしたら二度と会えなくなるかもしれない。
それでいいと思って、さよならなんて言ったのにな。
往生際の悪さに、自分で笑ってしまう。だがもう少し。あと少しだけ、この繋がりを感じていたかった。
男から呼び出しが掛かったのは、あの日から一週間が経った頃だった。その八桁の番号に、イブキの胸は高鳴った。だが、イブキは長い逡巡の後、スケジュール担当に「断ってください」と告げた。
声が、震えた。泣きそうになって、唇をきつく噛み締めた。
会いたかった。
会って、あの冷たい手で触れて欲しかった。イブキの作った料理を頬張って欲しかった。
自分が断ったら、誰か他の人に頼むことになる。その担当の手料理をあの男が食べると思うと――堪らなかった。
それでも、イブキは男からの呼び出しを、断りつづけた。
次に男に会ったら、きっと言ってしまう。自分の気持ちを、告げずにはいられなくなる。あの男は、どうするだろう。そのことを考えたとき、イブキは思わず微笑んでしまった。
きっと、困るだろう。
あの変わらぬ表情のままでも、あの男は困惑するに違いない。例えば、最初にお茶を淹れようかと訊いたときのように。ときどき男の体調を心配して、胃に優しい食事を作ったときのように。
今ならわかる。
男は、馬鹿みたいに優しい――。
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