0607 web electro index 1011
晃平が、仕事のことで悩んでいるのを、ミツイは少しだけ感じていた。自分が何か本を薦めると、誉めてくれるけれど同時に、少しだけ悔しそうな顔をする。本人は気付いていないのかもしれないが、ミツイはそれを見逃しはしなかった。
「俺はさ、最初出版社にいたんだ」
突然自分のことを話し出したミツイに、晃平がようやく焦点をミツイに合わせた。そっと、その頬から温かくて大きな手が、外れる。
「とにかく本が好きで。だから本を作り出す出版社に、憧れてもいた」
ミツイがごくりとビールを飲む。缶ビールを飲むにも様になるなんて悔しすぎる、とそれを見ながら晃平は思った。
「でも、現実は厳しいよな。入ったばかりの下っ端は、とにかく雑用ばっかりだ。俺だってそんなにすぐ、担当につけたりするとは思わなかった。だから頑張った。でも、頑張って担当になっても……売れる本しか出版社は作らない」
作れない、とも言うのかもしれないけど、とミツイは諦めの混じったような顔で笑った。
「俺がどれだけいい本だと思っても、時代に合わない、で終わりだ。それに、売れなくなればすぐに絶版になる」
出版社も商売だ。多くの人が働き、多くの人がそれで生きていく。だから、わかっているのだ。頭では。
「ベストセラーが悪いとは言わない。でも、俺の届けたいものが、届けて欲しいと思っている人のところに届かない。それが、もどかしくて堪らなかった。それに、あれだけ本が出版されているんだ。自分がどれが読みたいのか、わからなくなってしまう。そうやって、話題に上らない本は消えていくしかなくなる」
だから、web electroのことを知ったとき、そしてそこの担当に誘われたとき、新しい本を作って届ける夢は、諦めたのだ。
「今の仕事はすごく好きだよ。でも、」
それが夢だったわけではない。
そう微かに笑って波の写真集を捲ったミツイを、晃平は何も言わずに見ていた。
プロ意識が強くて、あれだけ仕事ができるのに。
贅沢なことを言ってる、とは晃平は思わなかった。ミツイもまた、妥協の中でこうして力をつけ、仕事をこなしているのだ。
「俺、ミツイの薦める本は信用してる」
晃平はそれしか言うことが思いつかずに、そう呟いた。それにミツイが顔を上げて―――満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからは絶対俺を呼べよ。探し物なんてなくても良いからさ」
今日みたいに、と付け加えたミツイに、晃平は思わず目を見開いた。
「べ、別に今日は探し物はないなんて言ってないだろ」
「ふうん。じゃあ何を探してるの?」
急に言われて、晃平はうろうろと目を泳がせた。何かないかと、頭の中で慌てて考える。
「いいんだって。探し物なんてなくても」
「あ、あるって」
淋しかったなんて、言えるわけがない。もうきっと、わかっているのだろうが。
「あ、その本。波の本、もう一冊買おうかと思ってたんだ」
言ってから、それのどこが探し物で、さらにはミツイを指名までした意味がどこにあるのか、と晃平は自分にため息をついた。
ミツイは一瞬呆気に取られて、それからくすくすと笑っている。
「探し物じゃないじゃないか」
「そうだけど」
「晃平、飯は?」
晃平はいつも、ご飯を食べてから、寛いだ格好でネットに繋げる。それなのに、今日はまだ着替えてもいないことを、本人は気付いていない。スーツ姿もまたそそるな、とミツイは内心楽しんでいたのだが。
「え、まだだけど」
「じゃあ、飯でも食いながら、ゆっくり考えろよ」
探し物をさ。そうミツイがゆっくりと笑った。それが優しくて―――晃平は不覚にも顔を赤くしそうになった。
すきっ腹にビールを二缶も流し込んだのだから、顔などとっくに赤くなっているのだが。
「ミツイは?」
「ん?」
「飯、食う?と言っても、コンビニ弁当を半分だけど」
きっとミツイはわかっているのだろう。一人で食べたくなかったのを。一人で、飲みたくなかったのを。
「それじゃあ晃平が足りないだろ」
「先にビール飲んだからさ、そんなに腹減ってない」
それなら食べる、と言ったミツイには。
まだいて欲しいと晃平が思っていることなど。
みんなお見通しなのだ。
「なんかさ、こうしてコンビニ弁当を半分コして食べてるとさ、貧しいながらも幸せな夫婦って感じしない?」
いい加減ビールは止めよう、と思った晃平が緑茶を淹れて、二人で焼肉弁当を食べていると、ミツイがそんなことを言った。
「夫婦ってなんだよ、男同士で」
この男の思考には本当についていけない、と思いながら晃平はわざとむっとしたように言った。ほんの少しだけ、本当にちょっぴり、何かいい雰囲気だよな、とは思っていたのだ、晃平も。それを夫婦とまで飛躍して考えることはしないが。
「じゃあ恋人?」
にっこりとミツイは言う。もう何を言っても無駄なのだ。
「おまえ、いい加減にしろよな」
「何が」
「おまえのことだからもてるだろ?彼女の一人ぐらいいるだろ?」
実は常々思っていたことを、ここぞとばかりに晃平は聞いてみた。男の自分がときどき見惚れるのだ。女なんてきっと簡単に落とせるだろう。
「本当に冷たいなあ、晃平は。自分を口説いている相手に向かって言うセリフ?」
「口説くって……」
「冗談だろ、とか言うなよ」
ふいに真剣な目をされて、晃平はふっと目を逸らした。
わからない、と晃平は思っていた。
ミツイは確かに優しい。じっと自分を見る眼が、熱を孕んでいることも知っている。でも。
仕事仲間たちの間での、ゲームの駒の一つなのではないか、と晃平は疑っていた。だから、こんな自分みたいな男を口説いたりしているのだ。そう、ずっと考えていた。だから落ちてしまったら―――きっとそこで終わりなのだ。
本当は、落ちかかっている気がしている。その手の中に、ほらと引っ張られたら、すっぽり収まりそうな自分がいる。
そうなったら、ミツイはゲームに勝ったと満足するだろうか。
そして、それっきりになるのだろうか。
そんなのは嫌だ、と晃平は思った。だから、まだ、自分の中でははっきりしないこの想いをこれ以上育てないようにしよう、と自分にいい聞かせた。
こうしてときどき会って話すだけでも、晃平には大切な時間になりつつあるのだ。これを手離したくはない。
今まで考えないようにしてきたが、ミツイとはサービス担当と客と言う立場でしかないのだ。晃平が呼ばなければ、ミツイは出て来ない。そして、向こう側の見えない晃平は、ミツイに拒絶されたらそれでどうすることも出来ないのだ。
「晃平?」
急に黙った晃平に、ミツイが心配そうな顔をする。今日の晃平は少しおかしい。だから、本当はここで口説くのは少しずるい。そんなことはわかっていたが、そろそろミツイも我慢が効かなくなっていた。
早く手に入れたい。
それで安心できるはずがないのに、でも、晃平が欲しかった。
「あのさ」
何か決心したように、晃平が顔を上げた。
「今度、飲みにとか、行かねえ?」
その言葉に、ミツイがはっと驚いたような顔をした。
やはり、迷惑なのだろう。ただのゲームの駒に、そこまで付き合えないのだろう。
晃平はそう思って「ごめん、なんでもない」と呟いた。
「いや、晃平。俺もそうしたい。でも、駄目なんだ」
言い訳を聞くには、晃平は今日は疲れすぎていた。ミツイと話して、少しは浮上した気がしたのに、やはりこんなときのダメージは大きい。
「なんでもねえって。悪い。やっぱちょっと駄目だな、今日」
晃平は、そう弱々しく笑う。それに、ミツイは焦った。
晃平から誘いをかけてくれるなど、夢のようだった。でも、それは本当に夢でしかないのだ。
web electroのサービス担当は、コミュニティから出られない。そこから出るときは、引退するときか、辞めさせられたときか、ともかく、web electroから完全に手を引くときなのだ。そして唯一そのコミュニティから出られるときが、仕事をしているとき、なのだ。
それを説明しようとしたミツイが口を開く前に、晃平がため息を吐いた。
「悪い。付き合ってくれてありがとな。残業までさせて……」
「そんなことはいい、晃平」
「疲れちゃって駄目みたいだ。その雑誌、今度でいいや。本当、悪かったな」
客が仕事は終わり、と認めてしまうと、サービス担当は帰らなくてはならない。それはほとんど、強制的に。挨拶をする一瞬は与えられるが、引き戻されてしまうのだ。
晃平は俯いた顔を上げられなかった。ミツイの顔を、見てられなかった。目の前で、そのミツイがすっと消えていくのが感じられた。
晃平、とミツイが呼んだ声だけが、まるで残響のように静かな空間にぽとりと落ちた。
晃平のパソコンはデスクトップで、狭い部屋で随分とスペースを取っていた。だから次のボーナスには、ノート型に替えようか、と考えていた。
でも、最近はそのパソコンを立ち上げることすらしていない。せっかく常時接続にしたネットも、切ってしまっていた。
見ると、web electroを思い出してしまう。なにより、ミツイを思い出してしまう。
本当は、外に飲みに行かなくても良かったのだ。二人でただ、この部屋でくだらない話をしているだけでも、からかいあうだけでも、良かったのだ。ただ、客とサービス担当という立場のないところへ、行きたかっただけなのだ。
こうして晃平がアクセスしない限り、二人は会うことが出来ないのだと、晃平は当たり前のことを今更思った。そしてだからこそ―――あれはミツイたちのゲームだったのだ、と思う。
客のコードで誰が呼んでいるのかわかるのなら、晃平がミツイを呼べばきっと他の担当たちにも知られるのだろう。それを面白がって……。今まで晃平が接したサービス担当はみんな良い人たちばかりだったから、そこまで馬鹿にするほど酷い光景は広がっていないにしろ、少なからず、ミツイやライオネルには娯楽だったに違いない。
別に、それでも良かったのだ。
晃平も一緒に、その微妙な駆け引きを楽しんでいるうちは。
でも、今はそれが辛い。
晃平は着替えもせずに、カップラーメンをビール片手に食べていた。あれから、コンビニの弁当が買えない。特に、ボリュームもあって好きだった、焼肉弁当は。ミツイと食べた、あの夜を思い出してしまうのだ。侘しい弁当を、半分ずつ食べた。でも、とても心温かな夜だった。
最後には、寂しくなってしまったけれど。
晃平は食べ終わったカップラーメンの残骸をキッチンの流しに放り込むと、覚悟を決めてパソコンを立ち上げた。今日は、どうしても調べたいことがあったのだ。
インターネットに接続すると、ふいにブックマークに入っているweb electroを消してしまえばいい、と思った。どうやって辿り着いたのか、自分は覚えていない。そして、そう簡単には探せないのだ、とミツイも言っていたのだから、消してしまえばもう本当に、繋がりがなくなるだろう。
でも、晃平はどうしてもそれを削除することは出来なかった。頭を軽く振って、目的の調べ物に徹することにした。最近雑誌で見た、ある建築家の写真集を、晃平は探していた。ちらりと見ただけで、出版社どころか写真集の名前も覚えていない。覚えていたのは、その表紙の写真と、たぶん割と大きめで、つまり値段も高めだろう、ということだ。本屋で聞いては見たものの、やはりその情報ではわからない、ということだった。
晃平はまずはと、新刊、建築家、写真集、などのキーワードで探してみたが、それに引っかかってくるページは無数にある。さらにその中から目的のものを探し出すのは―――困難だと思われた。根気強く見ていけば、あるかもしれない。でも、本屋の店員に、もしかしたら外国のものかも知れないですね、とまで言われていたのだ。
こういうときに、web electroならば、と晃平はしばらく悩んだ。雑誌で見たときはいいな、と思っただけだったのだが、今になって急に見たくなったのだ。
「新刊、の方で探せばいいか」
晃平は独り言を呟いて、web electroの文字をクリックした。あの変わらぬ、少し深めのエメラルドグリーン色のページが現れる。
新刊は、この一ヶ月に出た本のみを扱っている、という説明を以前ヨーゼフがしていた。古本というのはだから、本当の意味での古本、つまり誰かからいらない本を買い取ったものと、新刊ではなくなった本を扱っている。ミツイはどちらかと言うと後者の担当だった。
この一ヶ月―――。雑誌を見た時期を考えると、一ヶ月以上経っている気がした。それならば、古本になってしまう。でも、古本をクリックする勇気が晃平にはない。もし現れたのがミツイではなかったら。
そこまで考えて、自分の矛盾に晃平は気付いた。会いたくないと呼ばなかったのに、いざ古本担当を呼び出したとなったら来て欲しいなど、我侭にも過ぎる。
晃平は今更ながら、自分はミツイが好きだったのだ、と思った。
少なくとも、ゲームのように思われるのは、辛いほどには。
晃平は、しばらく画面をじっと見ていた。
それから、ため息をついて、検索窓に「ユエ」と入れて、躊躇わないうちにエンターキーを押した。
「晃平!」
ふわり、と目の前にあの柔らかで豊な髪が揺れたと思ったら、晃平はユエに抱きつかれていた。あまりの突然のことに、晃平は驚いて硬直していた。
「全然アクセスがないから心配してたのよ!どうしたのよ一体!」
ユエは晃平の肩を掴んでゆさゆさと揺すった。
「あの、ユエさん?」
「やっぱりこの間、なんか晃平の気に触ること、私言っちゃった?私、脳と口が繋がってるってときどき言われるくらい、ぽろぽろ零しちゃうことがあって、考えなしに人傷つけたりしちゃうのよ。そうだったらごめんね」
ユエは目をぱちくりとさせている晃平に構わず捲くし立てる。晃平はなんとかその手を掴んで止めさせると、首をふるふると横に振った。
「別にユエさんは何も言ってないよ?」
晃平がそう言うと、ユエはじゃあどうして?と首を傾げた。
「ミツイとなんかあった?」
探るように、そう言う。あまりに近くにあるその薄灰色に見える目に、晃平は惹き込まれるようだった。
「ミツイ、最近ずっと元気がないのよ。たぶん、晃平が呼び出したときから。まさかあの馬鹿、晃平襲っちゃった?」
その可愛らしい顔で言って欲しくないな、と思いながら、晃平は首を振った。自嘲の笑みが浮かんでしまったのは、やはりみんながこのゲームを楽しんでいるのだろう、と思ったからだ。
その晃平を、ユエは首を傾げて見ていた。
コミュニティで見るミツイの元気のなさは、心から心配になるほどで、でも、目の前の晃平も十分心配になるほど、落ち込んでいる感じだった。
「本当に、ミツイ危なっかしいのよ。もしかしたら、仕事やめちゃうかもしれない」
ユエの言葉に、晃平は驚いて目を見開いた。
「やめる?」
「うん。この間ちょっとそんなこと言ってたのよね」
辞めてしまおうか、と呟くように言ったミツイは、ひどく切なそうな顔をしていた。あれでいて仕事に対しては真面目なミツイを知っている仲間たちは、本気で驚いた。
「晃平、何か聞いてない?」
どういうことだろう、と晃平は首を振りながら思った。確かに、やりたいこととは違うと言っていた。でも同時に、今の仕事に誇りも持っていることは容易に知れた。それなのに。
ねえ、何があったの?というユエに、晃平はやはり首を振るだけだ。実際、思い当たることはなかった。
この間、気まずい別れかたはした。でも、大したことはないはずだ。ただのゲームの駒なんだから。
0607 web electro index 1011