web electro index 01 * 03
yugo02 http://recipe.electro.xx
 材料が全くないことに驚きながら、その日ユーゴは次回必要な材料のメモを幸野に渡し、それから自分の勤務時間を教えた。料理担当は人数が少なく、でもそれほど頻繁に呼び出されるわけでもないため、仲間同士でわりと適当にシフトを組んでいたりする。一応、スケジュール管理担当もいるのだが。
「これなら、明後日には呼べるな。緊急の用が入らなければ、の話だが」
「私の方も、出てこられないという場合があります。それはでも、そう頻繁にはないと思うのですが」
「それはお互い様だからな。まあ、私のことはあまり気にしないでいてくれたらいい」
 はい、とそれに答えながら、ユーゴはきっと自分は待ってしまうのだろう、と思っていた。だから、後悔せずにはいられなかったのだ。
 実習一日目の料理は、幸野のリクエストでポテトサラダになった。好きなものから作ると良い、と言ったユーゴの助言によるもので、幸野はしばらく考えていたが、「ポテトサラダかな」と呟いたのだ。
 少し照れたような幸野の顔は、誰かを思い描いているようで、ユーゴは目を伏せずにいられなかった。ポテトサラダは、その人のために作るのだろう。
 幸野が言った通り、二日後には二人は一緒にキッチンに立っていた。使われていないそれはあまりに綺麗で、ユーゴは思わず感嘆の声をあげた。
「それも、随分機能性の高いキッチンじゃないですか」
 それなのに、ここではお湯を沸かすだけ、それもヨーロッパから持ち帰ったと言う、瞬間湯沸し器で沸かすのだから、もったいない話だ。
「まあ、これから活用ってことでいいじゃないか」
 目を輝かせて、まるで子供が新しいおもちゃを貰ったような顔をしていることを、ユーゴは気付いていなかった。それを見て、幸野が隣で微笑んでいたのも。
「じゃあまず、ご飯を炊きましょう」
 作ったものを試食するなら、一緒にご飯を食べよう、と言ったのは幸野だった。それならポテトサラダだけ作っても、という話になって、幸野が何か買ってくると言ったのだが、ユーゴは自分が作る、と言ったのだ。見ているだけでも勉強になる、という理由はたぶん半分本当で、半分は、そうすれば長く一緒にいられるかもしれない、と思ったときには、ユーゴは自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。深入りしないように、と何度も自分に言い聞かせているというのに、それとは反対に自分は動いていく。
 いつもいつも、後悔しなければわからないのが自分だ。
「幸野さんはいつからこのサービスを?」
 見てるだけでも勉強になる、と言ったのはユーゴだったが、ただじっと見られるのは落ち着かない。ユーゴは当り障りのない質問を必死で探して問い掛けた。
 研いだ米を、炊飯器にセットする。実は炊飯器さえなくて、これはweb electroを通して買ってもらったものだ。
「もう二年になるかなあ。いつもは雑誌とサイト検索が多いんだけどね」
「雑誌ですか?」
「ああ。重宝してる。新しい雑誌なんて本当にたくさんあるし、どれだけ品揃えのいい本屋に行っても、全てを見ることは出来ないだろう?それに、外国の雑誌も揃えてくれるし」
 幸野の声は心地い良い。少し低めなのに、言葉は明瞭に響く。あまり耳元で聞きたくない声だ。うっとりと聴き入って、手が止まってしまう。
「最初は、それはそれは驚いたけどね」
 楽しそうな声に、ユーゴはジャガイモをざるに入れながらちらりと横を見た。幸野の端正な横顔が思ったより近くにあって、どきりとする。慌てて、皮むきを再開した。
「そうですよね……最初はきっとみなさんびっくりなさるのでしょうね」
 ユーゴ自身は、滅多に初めてのクライアントに会うことはない。サイトのインデックスページには、料理と言う項目がないからだ。
「でも、今では本当に助かっているよ。馴染みの担当は、もう友人のようなものだな。あれほど趣味が合う人間も少ないし、彼ほど勉強熱心な奴も俺の周りにはいなかった」
 幸野の心底嬉しそうな声に、ユーゴは微笑んだ。
「雑誌担当ですか?」
「ああ。知ってるかな。タチバナって言うんだけど」
 それは本当に友人を紹介するような口調で、ユーゴはタチバナが羨ましくてならなかった。
「あまり話したことはありませんが、顔はわかります」
 ユーゴが話すのは、どちらかと言うと料理雑誌を得意としている人間で、タチバナのようにインテリア系の雑誌担当とはあまり話さない。だが、知り合いの雑誌担当と良く一緒にいるので、何度か話をしたことはあった。
 タチバナならば、確かに勉強熱心だ。新しいものが大好きで、雑誌なども新しく発行されると、必ず見ている。
「俺は仕事がインテリアに関することでね。雑誌も仕事の一環として必要なんだけど……タチバナはこっちの要求を外さない。うちの会社にスカウトしたいくらいだ」
 幸野にそこまで言わせるタチバナを、ユーゴは凄いと思うと同時に、その点自分は駄目だなあ、と思った。料理は好きでするが、客のリピート率もあまりよくないし、そこまで喜んでもらったことなどない。
 所詮、自分は落ち零れなのだとユーゴは思う。客に愛想の一つ言えるわけではないし、サービス業だと言うのに人見知りまでする。それをどうにかしようと、web electroに入ったときに決めたのに、結局、変わりはしないのだ。
「ところでユーゴ」
 何度目になるかわからないため息を飲み込んだユーゴは、耳元の声にびくりとして、持っていたじゃがいもをぽとりと落とした。ぴかぴかに磨かれたシンクに、ころころとそれが転がる。
「ああ、ごめん。驚かすつもりはなかったんだが……」
 くすくすと、笑う声さえ柔らかい。ユーゴは耳の先に熱が集まるのがわかった。
「怪我は?手を切ったりはしていないか?」
「いいえ。……大丈夫です」
 ああ、なんてことだろう。
 ユーゴは穴があったら入りたい気分だった。これは仕事であり、料理は唯一自分が誇れるものなのだ。それなのに、こんな失態をおかすなんて。
「あの……」
 心底心配そうに、幸野はユーゴの手を見ていた。それにどぎまぎしながら、ユーゴは幸野に先を促した。
「ああ、一応ほら、教わるってことだから、何か手伝ったほうがいいかと思って……。足手まといで時間が掛かるって所は、まあ仕方ないと諦めてもらって……」
 自嘲気味に言う幸野に、ああまたやってしまった、とユーゴは僅かの間目を閉じた。料理をしていると、つい夢中になってしまって、当初の目的を忘れてしまう。
 本当に、自分は仕事が出来ない―――。
 だが、そう嘆いてばかりいても仕方がない。今現在、仕事をしているのだから。
「そうですね。料理も慣れみたいなものですから。少しずつ、色々なことをしてみましょうか」
 ではまず、じゃがいもを一つ剥いてください。ユーゴはそう言って、きょろきょろと辺りを見回した。
「あの、ピーラーはありますか?」
「ピーラー?」
 幸野が首を傾げる。それにユーゴは「皮むき器です」と言い直した。
「皮むき器……この辺にないかな」
 そう引出しの一つに手をかける。ユーゴはそこを覗いて、目的のものを取り出した。
「へえ。これは皮むき器なのか」
 感心したような幸野の声に、ユーゴは無意識に微笑んだ。幸野は少しも傲慢なところがない。キッチンとそれに続くリビングのみしかユーゴは見ていないが、それだけでも、幸野が社会的に高い地位を占めているとわかる。家具も、食器も、どれも質の高いものばかりだ。でも、そう言った男にありがちな、横柄な態度も見下すような視線もない。全てがそう言った人間だとはユーゴも思わないが、少なくとも、ユーゴはそう言った男に出会ってきた。web electroに入る前も、入った後も。料理が趣味だというユーゴを、女のように扱った男たち。ユーゴには、主婦の嘆きが良くわかる。痛いくらいに。
「違う形のものの方が良く見るかもしれませんね。T字型の剃刀みたいな形の……」
 それにも、幸野は首をかしげている。包丁を持ったことさえない男だ。調理用具など未知の世界なのだろう。
 ユーゴは剥きかけでシンクに転がったじゃがいもを拾って、ピーラーの使い方を教えた。ユーゴ自身は、丸いものを剥くときはこのナイフに似たピーラーの方を好む。林檎の芯を取るために先端が尖っていることを考えても、もともと丸いものの皮を剥くように作られているのかもしれない。
「ああ、これなら怪我をせずに済みそうだ」
 幸野が感心している。その上、このピーラーならば、包丁と同じような動きが必要で、良い練習にもなる。
 ユーゴは剥きかけだったジャガイモの皮を全て剥いてから、鍋に水を入れて、それを茹でる用意をした。皮の剥き終わったジャガイモを、少し大きめに切る。幸野は真剣に、ピーラーと格闘していた。
 料理をしない、ピーラーが何であるかさえ知らなかった幸野の部屋に、なぜそのピーラーがあったのか。よく見れば、鍋などの調理器具も玄人好みのものが多い。
 誰か、幸野以外の誰か、料理をする人間が揃えたのだろう。
 きっと、そう言うことなのだ。


 幸野のやる気は本当のようで、ユーゴがキュウリを切っている間も、ジャガイモを粉ふき芋にしているときも、真剣な目でその手元を見ていた。軽快な音をさせてキュウリを輪切りにしているときなど、すごいな、と感嘆の声を上げてさえいた。もちろん、幸野もレクチャーを受けて挑戦したが、あまりに危なっかしい手つきで、見ていたユーゴははらはらし通しだった。
 出来上がったポテトサラダは、コンソメと生クリームを効かせたもので、その滑らかな味に幸野も満足していた。どちらかと言えば、女性の口に合うかもしれないと言ったユーゴに、幸野も同意していた。
 作る相手は、女性かもしれない。
 美味しいと自画自賛に似た感想を言いながら、ユーゴはずっと、そればかり考えていた。一体誰に作るのか。そのことをずっと。
 寝付けずに、ごろりと寝返りをうったユーゴの目に、ふわりとカーテンが揺れた。どうりで寒いわけだ。
 幸野の家で、少しだけと勧められたアルコールに酔った。その時点で幸野がその日最後の客であったし、一人で飲むのは淋しいから付き合って欲しいと言われたら、ユーゴは断れない。それほど、アルコールに弱いわけでもない。
 酔ったのは、雰囲気だったのかもしれない。
 そろりとユーゴは起き上がって、両開きの窓を閉めた。火照った身体は、コミュニティから帰ってくる五分ほどの間には冷えず、煌々と照る月を、窓を開けて眺めたのだった。
 幸野との食事は、驚くほど楽しかった。仕事で訪れた国々の話を幸野がすれば、その地の名物料理をユーゴが話す。それも幸野がさりげなく話を振ってくれるからで、人見知りが激しく口下手なユーゴにしては話をした方だ。話さなくては、というストレスを感じずに食事をしたのは、とても久しぶりだった。
 幸野はユーゴの決して上手くはない話を、優しい目をして聞いてくれた。あの低く柔らかい声で、ときどき相槌を打ちながら。
 ユーゴは掛け布団を身体に巻いて、目を閉じた。いつからか、こうして眠る癖がついた。
 もう誰も、抱いてくれないから。もう誰にも、手を伸ばそうとは思わないから。
 ―――じゃあまた。楽しみにしている。
 低く心地よい声が、耳の奥に響いた。
 次の幸野との約束は、三日後だった。


web electro index 01 * 03